ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ティリッヒにおける宗教的象徴の意義──組織神学の根拠について──(9)

1968-03-09 14:38:11 | 論文
<註> 序論
1. Kenneth Hamilton, 1958年以来カナダのUnited College,University of Manitobaの神学部組織神学助教授。The system and the GospeL, London,1963においてキエルケゴールとティリッヒとを対比して、ティリッヒ神学の組織性を批判している。
ティリッヒは『組織神学・』の序論においてこのことに言及し次のように言う。
In... "the system and Gospel", by K.Hamilton,the fact of the system itself、more than any thing stated within the system, is characterized as the decisive error of my theology. (1)ティリッヒはそれに対して神学の組織性にはdeductive,quasi──mathematica1 systemのように否定せられるべきものもあるが、語ることの一貫性(genuine consistency)を維持するためにはsystematic──constructive formはさけることは出来ないと言う。K・ハミルトンの最近の著作は God is Dead一The Anatomy of a slogan,1966 である。
2. KarI Barth:Die Kirch1iche Dogmatik,1932年第一巻第一分冊が発表せられて以来、未だ完結していない。バルトはその前年Fides guarens inte11ectumを著わし「キリスト論的集中」といわれる彼の教義学的立場を樹立したと言われている。
バルトは神学における組織性を3つに区別する。・資料の秩序、・生における全ての問題が包括され、徹底的に論ぜられていること、・一つの主要な原理から議論がなされていること。そして『教会教義学』の組織性とは第1と第2の意味であると言う。(2)
3. ここで用いた「世界」という概念は、人間が思惟し得る最大限の領域、つまり「宇宙」(universa1)という意味である。従って「世界の神学」とは「普遍的な神学」(universa1 theology)と同義語である。
なお神学における「世界」の概念については、松村克己「神と世界、基督教神学序論説への一試論」(1939年)参照
4. そのことが明確に論じられているのは1923年に発表せられたKritisches und positives Paradox:eine Auseinandersetzung mit K.Barth und Friedrich Gogartenである。
なお、松村克己「ティリッヒの意味するもの、神学方法論の視点から」(1961年)はこの間のティリッヒの立場を論じている。
5. 「宣教神学」Kerygmatic theology
ティリッヒは『組織神学・』の序論において神学をその意図に従ってKerygmatic theologyとApologetic theologyとの2つに区別する。宣教神学とは教会の宣教におけるダス・ドグマ、つまり聖書の中に含まれているケリグマを問うものである。バルトの『教会教義学』は次のように意図されている。Dogmatik ist die kritische Frage nach dem Dogma,d.h. nach dem Wort Gottes in der Kirichlichen Verkundigung order konkret: nach dem der Ubereinstimmung der von Menschen vollzogenen und zu vollziehenden Kirchlichen Vorkundigung mit der in der Schrift bezeugten Offen barung. (3)
6. 「神学そのもの」 the theo1ogy
ティリッヒは神学をその本性に従って、特殊宗教の神学と普遍的な神学とに区別する。そして前者を a theology、後者をthe theologyと呼ぶ。以下その部分を引用する。
Christian theology is no exception. It does the same thing, but it does it in a way which implies the claim that it is the theology,・・・Christisn theology is the theology in so far as it is based on the tension between the absolutely concrete and absolutely universal. (4)
7. 「弁証神学」 Apologetic theology
ティリッヒは彼自身の神学を意図的に見るならば弁証神学であると言う。宣教神学が教会側から世俗世界に対する一方的な告白ないし宣言であるとするならば、弁証神学とは世俗世界側から提出される問いに対して「答える神学」(answering-theology)である。(5)
教父時代に迫害という世俗世界側からの積極的攻撃に対して福音の防衛という消極的な護教神学(Apoloqetic)があった。しかし現代では世俗世界からの積極的攻撃はなく、むしろ教会や神学に対して軽視または無視という消極的ではあるが決定的な態度が見られる。このような状況においては神学には現代社会の問題性を明きらかにすることとそれに答えることとが要求せられる。その意味でティリッヒは全ての神学者は同時に哲学者でもなければならないという。(6)
8. 宗教の定義
宗教の概念が規範概念であるのか帰納概念であるのか、これが宗教の定義における問題点である。ティリッヒは宗教を広狭二重に定義する。まず広義にはこれ以上に拡大することが出来ない程最大限に「究極的関心に把えられている状態」(7)と定義し、自らを宗教とは公言しないが宗教的色彩を帯びている世俗的運動をも包括する。この定義は帰納概念ではないが、人間の生を現象学的に観察することによって解明せられた人間の生の一つの機能に基づいてなされた定義である。
狭義には辞書的意味での概念である。すなわち宗教とは「宗教的指導者と聖典と教義をともなう組織化された集団であり、その集団において究極的関心に対する一連の諸象徴が受け入れられ、生活と思想において洗練される。」(8)この狭義の定義は歴史的諸宗教から帰納せられた概念であり、一つの文化現象としての宗教の形態や機能を記述したものである。
ティリッヒはこの広狭二重の定義によって人間世界における宗教と呼ばれる文化現象はもちろんのこと、宗教と呼ばれないにしても宗教的機能をはたしている全ての現象、すなわち一連の諸象徴に対して究極的関心を要請する全ての運動を宗教として問題にする。そして広義の定義はそれらの全ての宗教現象に対して規範概念ともなる。
結果的にみて、ティリッヒの宗教の定義は岸本英夫の作業仮説的定義と類似していることは興味深い。彼は宗教の定義をついに放棄し、ただ宗教学研究のため作業仮説としてのみ規定する。「宗教とは、人間生活の究極的な意味をあきらかにし、人間の問題の究極的な解決に関わりをもつと、人々によって信じられている営みを中心とした文化現象である。」ただし、「宗教には、その営みとの関連において、神観念や神聖性を伴う場合が多い。」(9)
9. それにもかかわらず、『組織神学・』においてはそのことについて何も述べられていないのはなぜであろう。なお、このことに関しては、David H. Kelsey:The Fabric of Paul Tilliches Theology, Yale Univ.,New Haven and London, 1967 p.3 参照

(1) ST3. p.3
(2) Ed.by J.D.Godsey:Karl Barth's Table Talk,1963 古屋安雄訳:バルトとの対話 新教出版社 1965 p.53
(3) K.Barth:die kirchich Dogmatic ・/1,Elangelischen Verlag, Zollikon Zurich,1947 s.261
(4) ST1. p.19
(5) ST1. p.6
(6) ST1. p.29
(7) Encounter. p.4
(8) Ed.by D.M.Brawn:Ultimate Concern; Tillich in dialogue, Happer & Row, NY., 1965 p.4ff
(9) 岸本英夫:『宗教学』 人明堂、東京 1961,1965 p.17

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