ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/10/12~10/18

2014-10-19 09:03:05 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/10/12~10/18

2014日々の聖句 10月12日(日)
わたしは、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。(エズラ8:21)
ルカの記述:滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈った。(使徒言行録21:5)

私の黙想:
ペルシャ王キュロスの解放令により祖国エウサレムに帰還することが認められ、第1次帰還集団がに続き、第2次集団として律法学者エズラとともに帰還する人々の出発の情景が描かれている。いわば、これが人数としてはわずか1500人程度の小さな集団ではあるが、幼い子どもたちや家族を含み、また返還された神殿の宝物類を携えた帰還集団の本隊である。
この集団の一つの特徴は「外敵に弱い」ということである。本来ならば強力な護衛隊に守られるべき集団である。それを祖国帰還を奨めているアルタクセルクセス王に頼めば叶えられたであろうが、彼らはそれを「王に求めることを恥とした」(22節)という。祖国に復帰することぐらいは自分たちの力、信仰の力によってすべきであると考えたのであろう。その理由として、かねてから王に次のように言っていたからであるという。「わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります」。これが「新生イスラエル」の「矜持(きょうじ)」である。従って、ここでの旅たちの祈りにはイスラエルの誇りがかかっていた。
日本国も先の戦争が終わったとき、世界に向かって戦争放棄を誓った。それが憲法第9条である。ここに新生日本の矜持がある。

2014日々の聖句 10月13日(月、休日)
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。(イザヤ43:18~19)
ヨハネは弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」(マタイ11:2~4)

私の黙想:
神の行う新しいことが「今や、それは芽生えている」。これを口語訳では「やがてそれは起る」と訳し、新改訳では「今、もうそれが起ころうとしている」と緊迫度を増しているが、「やがて」にせよ、「今、もう」にしても、「まだ」それは起こっていない。兆しもない。それでもまだ「信じる」世界である。「芽生える」という言葉は、ただ、信じろと言うのではない。そこではも既に起こっている。フランシスコ会訳ではそれを「今にもそれが芽生えている」とさらに緊迫度を増している。ここで用いられている「ツアマッハ」という動詞には「生い茂る」とか「成長する」とか「生え育つ」というどちらかと言うと無機的なげんしょうというよりは、生命的な活動を感じさせる意味合いが強い(創世記2:5、コヘレト2:6、エゼキエル16:7等) 。よく観察すると「見えるはずだ」という。逆説的な言い方をすると「見える人には見える」。従って、ただ闇雲に信じろと言うのではない。預言者イザヤは、現実(リアル)ををよく見ろ。もうそこに「新しいこと」「今まで考えたこと、経験したこともない新しいこと」が始まっているではないか、と言う。この姿勢はイエスに通じる。

2014日々の聖句 10月14日(火)
わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう。(詩9:2)
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:18)

私の黙想:
嬉しいことがあったら、それを誰かに語る。これは人間としての自然の行為である。たとえ、そのことによってこの人が何を嬉しいことと思うかということが明らかになっても、良いではないか。嬉しいなら嬉しいということを態度で示す。同じように、悲しいことがあったら悲しいと身体で表現すれば良いではないか。それを抑える権利は誰にもない。ただし、私が嬉しいこと、悲しいことと考えることがすべての人も同じだと思ってはならない。人にはそれぞれ嬉しいこと、悲しいことが異なる。それが「人間」である。その意味ではこの詩の20節は、隣人の喜び、悲しみを抑え、批判する人間のことを「思いあがり」だと批判し、21節で彼らに「人間にすぎないことを思い知らせてください」と語る。
その意味では隣人が嬉しいと思っていることが他人に被害をもたらさない限り、批判したり、軽蔑することは「人間の枠」をはみ出す行為である。その意味では使徒パウロが教えているように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ロマ12:15)人間になりたいと思う。

2014日々の聖句 10月15日(水)
まことに、我々の主なる神にイスラエルの救いがあるのです。(エレミヤ3:23)
イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやされた。(マルコ1:34)

私の黙想:
ここのところを松浦訳では「丘の頂上での礼拝に助けはありません。高き所での喧騒からは助けは来ません。まことに私たちの神、主の中にこそ、イスラエルの唯一の救いはあるのです」(『ケンブリッジ旧約聖書注解』、E.W.ニコルソン、松浦大訳、新教出版社)となっている。これはわかりやすい。ここではバアールの神の「祭り」とヤハウエ信仰とが対比されている)。ここでのバールの神の「祭り」とは外国の礼拝や祭りではない。イスラエルの内部に入ってきた異教礼拝の習慣である。もう少し厳密に言うと異教的な風習を取り入れた彼ら自身の礼拝や祭りである。宗教儀式における「喧騒」とはその宗教の豪華さであり音や光や香りによる刺激の強い情緒的な礼拝を意味している。預言者エレミヤが批判しているのは異教化したイスラエルの宗教である。
人間が人間として生きる「霊の力」は「情緒からは得られない」。ところが情緒的刺激には「麻薬的な魅力」があり、霊的なものと混同される。人間にとって生きる力になるのは「霊的なもの」であって、「情緒的なもの」は一時的な興奮をもたらすかもしれないが真の力ではない。エレミヤはそんなものは「偽りにすぎない」という。

2014日々の聖句 10月16日(木)
武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできない。(列王記上20:11)
パウロのコリント人への手紙:そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。(1コリント2:3~4)

私の黙想:
預言者エリシャの時代、イスラエルの王アハブは宿敵アラムの王ベン・ハダトから金銀宝石類を提出せよというような無理難題を吹っかけられていた。アハブ王は弱腰でほとんど言いなりになっていたが、民の長老たちはアハブ王にキッチリとそんな要求は拒否すべしと進言していた。その時、アハブ王がアラム王の使者に答えた拒否の言葉で、一種の格言であろう。 ここでの「勝ち誇る」を新共同訳以外では「誇る」であって「勝ち」という言葉はない。「勝ち誇る」となると「戦争に勝利する」という意味となる。ここはむしろ戦争そのものを避けるという意味である。ここには自己の戦力を誇り戦争を仕掛けようと思う者と、自己の武装を解いて戦争をしないという者とがいる。そしてどちらの方が本当に誇るべき姿勢なのかということが問われている。本当に誇るべき者とは軍事強化をしている相手の目の前で、武力を放棄する者こそが勇気あるのだという格言であろう。酒を飲みながらこの言葉を聞いたアラムの王は怒り直ちに戦争の準備を始めるが、同じ時アハブ王に一人の預言者が現れて、「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る』」(13節)と、約束する。
旧約聖書の物語を直接に現代の問題に当てはめるわけにはいかないであろうが、基本原則は同じである。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。

2014日々の聖句 10月17日(金)
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないようにしてください。(詩25:2)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

私の黙想:
詩25はアルファベット詩(資料的に多少混乱が見られるが)である。その内容は「信仰的な祈り」であり、「詩編の詩の典型を示す。詩編の編集者もそう考えたらしく、最後にアルファベット順の配列を外れた「典礼的な句」を追加し、個人的な祈りを公共性のある祈りに変えている。
この詩には「恥」という言葉が3回(2,3,20)用いられこの詩全体の基調となっている。日本人の「恥」の観念は対人関係であり、その根底には私の恥は「家の恥」という観念があり、旧約の民における「恥」は、私が恥ずかしい者になるということは「あなたの恥ですよ」という「ヤハウエの恥」という観念が支配的である。日本における「恥」は私自身の責任に帰せられるが、彼らの恥は「ヤハウエの責任」という観念があるように思う。だから「私を守り、恥ずかしくない存在としてください」という祈りになる。

2014日々の聖句 10月18日(土)
お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。(エレミヤ23:35)
無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。(エフェソ5:17)

私の黙想:
今日の聖句は面白い。これだけ読んでいると、いろいろな場面を想像する。しかし、この場面は面白がっている訳にはいかない。非常に深刻な場面なのである。特に25節以下の部分を読むとその深刻さが分かる。ここの背景にはエレミヤと彼以外の「預言者?」たちとの対立がある。エレミヤは彼らのことを「偽預言者」と断じているが、当時の人たちには同じ預言者に見えていたのであろう。彼らの特徴は「夢を見た、夢を見た」(25節)ということで、エレミヤは彼らは「夢」を語ることによって主の言葉を忘れさせようとしていると言う。主は「夢を見た預言者には夢を語らせよ」と語り、「わたしの言葉が臨んだ預言者には、わたしの真の言葉を語らせよ」(28節)と言う。これはもちろん、エレミヤが民衆に語った言葉であろう。そこでエレミヤは主の言葉を語る「藁と麦がどうして比べられようか」。こういう論争を背景にして一つの問題が明確になる。真の主の言葉は民衆にとって「重荷」なのだ。この「重荷論争」は複雑で面白い。新共同訳は親切に「重荷」という言葉の二重性を解説している。ヘブライ語で「重荷(マッサ)」という言葉は同時に「託宣(マッサ)」という意味でもある。つまり民族の指導者たちは主の言葉は民衆に「主の託宣(マッサ)とは何か」と語る。それに対してエレミヤは主にとって「あなたたちこそ重荷(マッサ)なのだと語る。
ここでのエレミヤは民族的指導者たち(政治家、宗教家、官僚)がマスコミを通じて民衆に語る民族の将来に関するメッセージを「偽預言者の言葉」として批判しているのである。彼らの言葉は民衆にとって軽やかで心地よい響きをしているが、それは「藁の言葉」であって、真の主の言葉は重いものなんだという。なにか、そのままで現代に通じるような気がする論争である。

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