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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/03/06~03/12

2016-03-12 17:46:33 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/03/06~03/12

2016 日々の聖句 03月06日(日)
神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。(2Chr.25:8)

イエス・キリストはわたしたちの希望です。(1Tim.1:1)

私の黙想:
今日のテキスト、短縮しすぎで面白味がない。ここは旧約聖書の中でも非常に面白い部分である。ユダの王アマツヤは父ヨアシュが臣下から暗殺され、若くして王位に就く。しかも、30年間という長期政権を維持している。彼の生き方については一口で言って腹黒い。「彼は主の目にかなう正しいことを行ったが、心からそうしたのではなかった」(2節)。彼は即位すると父を暗殺した連中を処刑している。その際も「モーセの書、律法に記されているところに従い、その子供たちは殺さなかった」(4節)。彼の政策は軍事強化で徴兵制をしき、30万人の若者たちを戦場に引き出した。それだけでも少ないと思ったのか兄弟国北のイスラエルからも10万人の若者を傭兵として導入している。それを見た「神の人」が「王よ、イスラエルの軍隊を同行させてはなりません」(7節) と忠告している 。今日の聖句はそれに続く言葉である。
彼は神の人の忠告を一応は聞く。それで戦争には勝利した。実に戦争好きな要領だけで生き抜く王であった。その最期はやはり「暗殺」であった(2King.14:19)。
教訓「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(Mt.26:52)。

2016 日々の聖句 03月07日(月)
あなたの父母を敬え。(Ex.20:12)

親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。(1Tim.5:4)

私の黙想:
この当たり前すぎる戒律で何を黙想するのか。黙想などする余地がない。そのまま、そうすべき事柄だし、そうするのが当然で、それをわざわざ天地の創造者から命令される事柄でもないであろう。
でも、ちょっと引っかかるのは、両親の場合の「敬う」とはどういうことであろう。「愛せよ」、「世話をせよ」「言いつけをよく守れ」とは違う「敬う」とは何か。この部分をじっくり読むと、面白いことに、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人に関して偽証してはならない」、「隣人の家を欲してはならない」と同じように並べられているが、「父母を敬え」だけには、「そうすれば」以下のその結果についての叙述がある。「敬う」ということが自分自身への「見返り?」が述べられている。つまりただ単なる戒律ではない。いわば「目的」が明確な命令である。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。つまり、私自身の生き方、それも神によって私自身の生きる根拠として定められている生涯が約束(保証)されている。その逆を考えると、もし「父母を敬わなければ」、私自身の人生の根底が保証されない。宙に浮いたような人生、まさに「根無し草の人生」「デラシネ」「ハイマートロス」となる。父母を敬うとは表面的な「親孝行」ではない。私自身の生きる根拠を形成である。

2016 日々の聖句 03月08日(火)
主の言葉:わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。(Ex.33:19)

パウロの手紙:わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。主が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし憐れみを受けました。(1Tim.1:12~13)

私の黙想:
神からこんな言葉をかけられたら、「ハイ、そうですか」と答えるしかない。こちらがどうしたから、どうされるという余地が全くない。すべては主の胸の内。人間には神の「意志」は見えないのだから、これを徹底すると、人間側から見たらすべては偶然にしか見えない。神は居ないということと同じである。強烈な神信仰は強烈な無神論と同じ論理構造となる。
ここでのヤハウェとモーセとの会話の内容は面白い。モーセとヤハウェとの対話は民衆から隔離された「会見の幕屋」にて行われた。幕屋の外にはモーセの従者ヨシュアが護衛している。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(11節)という。テレビでよく見かける首脳によるトップ会談のような雰囲気である。にこやかに笑みを浮かべながら握手して対談は始まる。これを「友情」というのだろうか。対談のクライマックス、モーセはヤハウェに「どうか、あなたの栄光をお示しください」(18節)と言う。それに対するヤハウェの言葉が今日の聖句である。弱小国、属国のトップに対する強大国のトップのようなものである。「私が助けようと思ったら助けるし、援助しようと思ったら援助する」。弱小国の元首はひたすら服従を誓い、恩恵を受けようとしている。
そんなことを想像するのはけしからん事だと叱られそう。マスコミの記者はこの場面をどう民衆に伝えるのだろうか。

2016 日々の聖句 03月09日(水)
わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永く続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと、主は言われる。(Isa.66:22)

イエスの言葉:わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(Mt.16:18)

私の黙想:
イザヤ66章の主題は「礼拝」。人間の行為としての「礼拝」とは何か。ここでは偶像礼拝の虚しさ、神に対する反逆性が問われ、「彼らは呼んでも答えず、語りかけても聞かずわたしの目に悪とされることを行いわたしの喜ばないことを選ぶのだから」(4節)という。しかし私たちが行う礼拝、神殿での礼拝と偶像礼拝と何が異なるのか。結局、それも偶像礼拝と本質的に違わないのではないだろうか。
突如、5節から論調が変わる。「男の子」の誕生が告げられる。そこから謎めいた言葉が続く。よく理解出来ない。
支離滅裂、文章の流れがよく解らないうちに、66章は終わる。いや、イザヤ書全体が終わる。

2016 日々の聖句 03月10日(木)
わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。(Gen.39:9)

キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。(Heb.3:6)

私の黙想:
今日の聖句は、朝の清らかな気持ちを乱すので、場面の説明は省略する。ここでヨセフが言う「大きな悪」とは本当に大きな悪なのだろうか。ヨセフにはこの家の中で「大きな権限」が与えられている。その権限と比べたら、ただ、浮気女の相手をするだけではないか。とも考えられる。犯罪の大小はそれを犯す人間の判断であり、ほとんどの場合、犯罪者は犯罪を小さなことと考える。ここでヨセフは「大きな悪」だという。ヨセフは言う。「この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから」。大きな権限が与えられている。この家では、何でも出来る。だから「できないことはない」と思ってしまう。そこが間違いの元である。「何でも出来る」と「出来ないことはない」との間には大きなギャップがある。神はアダムに言った。「園のすべての木からとって食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」。人間の「何でも出来る」には常に「出来るけど、してはならないこと」がある。それは「与えられた権限」だからである。この「与えられた」というポイントを忘れることは「大きな悪」であり、「与え主に対して罪を犯す」ことになる。野球選手の野球賭博にしても、運動選手のドーピングにしても、「小さな悪」であるが、その人が置かれた、与えられた権限から見ると「大きな悪」となる。核エネルギーの開発にせよ、非人道的兵器の使用にせよ、「出来るけど、してはならないこと」である。憲法改正にしても、出来ることではあるが、そしてその手続きもあるが、政権を持っている者には「してはならない」ことである。今の世の中、この「できること」と「してはならないこと」との境界線が曖昧になっている。

2016 日々の聖句 03月11日(金)
わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。(Isa.45:6~7)

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(2Cor.4*6)

私の黙想:
今日の聖句の前で、私はただ、「その通りです」ということしか出来ない。考えるとか、信じるということもなく、ただ、そのとおりだ。事実の前では、誰がそう言ったのかとか、その証拠を見せよとか、言うことが出来ない。それを言うこと自体が、実はその「事実」を認めないことを言い表している。事実を事実として認めないのは、実は認めたくないという意志の表明である。問題はそこにある。
「自明の真理」「自明の理」という言葉がある。英語では「self-evident truth 」と言うらしいが、それとは別に「truism」という言葉がある。俗語としては「わかりきったこと」という意味で用いられる。日本語のニュアンスとしては「当たり前のこと」。「真理の証明」は最終的には「当たり前」に至る。何かの事柄を「当たり前」だと悟ることが真理を知るということである。
「自明の真理」で有名な言葉がアメリカの独立宣言の冒頭の言葉である。英文のままで引用すると次のとおりである。
We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

「我らは次のことが自明の真理であると見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主(神)によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられていること。これらの権利を確保する為に、人は政府という機関をつくり、その正当な権力は被支配者の同意に基づいていなければならないこと。

ちょっと余分なところまで引用したが、政府はこの自明の真理を実現するための組織であると、アメリカの独立宣言は宣言している。
まさに、今日の聖句はその自明の真理を宣言している。

2016 日々の聖句 03月12日(土)
神よ、わたしは地の深い淵から、再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけすぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。(Ps.71:20~21)

ペトロは強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。(Mt.14:30)

私の黙想:
今日の聖句、冒頭の「神よ、わたしは」は、ベテスダ編集部で補った言葉でぎこちない。「神よ、あなたはわたしを」とすべきであろう。ここでの「ひるがえって」という言葉も、ぎこちない。口語訳では「あなたは(わたしを多くの重い悩みにあわされましたが、)再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。あなたはわたしの誉を増し、再びわたしを慰められるでしょう」。こういうスッキリした日本語が目の前にあるのに、なぜこんなにぎこちない日本語を晒すのだろうか。フランシスコ会訳では「再びわたしを生き返らせ、地の深みから、再び引き上げてくださいます。わたしへの偉大な業を増やし、わたしを顧み、慰めてくださいます」とあり、確かに「再び」という言葉2度使われている。新改訳でも「再び」が繰り返されている。つまり、この詩のこの部分では「再び」ということが強調されている。もはや回復不能かと思われるような災いの中から、それこそ「地の深い淵から」「再び引き上げられる」ということは凄いことである。「再び」、不死鳥のように、生き返らせられる。その奇跡的回復が歌われている。あの地獄のような3.11から5年目、まだその「再び」が起こっていない。それを妨げている「この世の力」をひしひしと感じる。

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