今週のローズンゲン2013 04/21~04/27
日々の聖句2013 04月21日(日)
主よ、わたしたちを御心に留め、祝福してください。(詩115:12)
今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。(ルカ12:28)
私の黙想:
「祝福してください」という言葉が私の心に留まった。「心に留まる」ということは、そのことを意識し、存在を認め、そのことについて配慮することである。「祝福」ということについて考えるとき、イサクに向かって、悲痛な叫びをあげて激しく泣き「このわたしをも祝福してください」と訴えたエサウを思い出す(創世記27:34)。祝福という行為には「霊を与える」という意味が込められている。サウル王が神の言葉に従わなかったとき、「主の霊がサウルから離れた」(1サムエル16:14)。祝福がキャンセルされることもある。つまり祝福が取り上げられる。
キリスト教における重要な儀式に「信徒按手」「聖職按手」「主教按手」という行為がある。これは「祝福の伝達」という意味が込められている。聖職者になるということは「祝福の伝達」に参加すること、祝福された者になるということである。最も悲劇的な人生は、人の目には聖職という地位に立ちつつ、祝福を取り上げられて生きるということである。
日々の聖句2013 04月22日(月)
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。(レビ26:12)
神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせました。(コロ1:19)
私の黙想:
約束の地での幸せな生活の約束。あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる(5-6a )。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちに子を生ませ、その数を増し、あなたたちとわたしの契約を立てる。あなたたちは前年の穀物を食べ尽くさぬうちに、それを倉から運び出して、新穀を倉に納めるようになる(9-10)。
それにしても、そのために犠牲になる側から見るとたまったものじゃない。「わたしはまた、猛獣を国から一掃し、剣が国を荒廃させることはない。あなたたちは敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。あなたたちは五人で百人の敵を、百人で一万の敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす」(6b-8)と言う。凄まじい。こういう激しい言葉が「あなたたちは脅かされることなく安眠することができる」という言葉と並んで語られる。こういう言葉を「神の言葉」として聞き、教えられ、育った人間を考えると恐ろしくなる。イエスが育った環境がこれである。その中でイエスはそれを反面教師として「平和の神学」を求めた。
日々の聖句2013 04月23日(火)
御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。(詩119:130)
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。(ヘブ2:1)
私の黙想:
こういうことを書くと笑われるかも知れないが、聖書の言葉は本当に不思議だと思う。時代も文化も価値観も全然異なる文書が、今の私に語りかけるということ。これをどう説明したらいいのか。普通の文書は読み手の問題意識やその文書を読み解こうとする意志によって、その世界に分け入るという行為(働きかけ)が求められ、それに応じて「理解され、感動する」。ところが、聖書の言葉は言葉の側から働きかけて来て、私の決断を迫る。これは体験した者にしか通じない説明かも知れない。この体験がないと説教は説教にならず、万葉集の解説やギリシャ神話の解読と同じように、古典文学の味わいにすぎなくなってしまう。これを体験してしまうと、それを誰かに話して、分かち合いたくなる。
日々の聖句2013 04月24日(水)
低くされたわたしたちを、御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(詩136:23)
今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、イスラエルの民全体も知っていただきたい。キリストの名によるものです。(使徒4:9-10)
私の黙想:
私たちを低くした者は誰だろう。この詩の流れからいうと、敵(バビロン帝国か?)であろう。私たちの人生には順風の時もあれば、逆風の時もある。時には(敵に)敗北するときもあれば、自分の責任において失敗することもある。もう駄目だと思うときもある。そういう場合に私たちは「低くされる」。いや、本当に低くされなければならない。低くなったときに、高い所からは見えなかったものが見えてくる。何よりも自分自身を知る。自分が誰に支えられ、活かされているのか。それこそが、何にも代え難い恵みである。詩136編は創世記以来のイスラエル史を振り返っての壮大な叙事詩であるが、他の全ての感謝とは感謝の質が異なる。
日々の聖句2013 04月25日(木)
主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。(詩27:1)
イエスの言葉:なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。(マタイ8:26)
私の黙想:
何かしら日本語に落ち着きがない。それで他の翻訳と一通り読み比べてみた。口語訳:主は私の命の砦だ。私は誰を怖じ恐れよう。文語訳:主はわが命の力なり。わが懼るべきものはたれぞや。祈祷書:主は私の命の砦、私は誰をはばかろう。フランシスコ:主はわたしの命の砦、わたしは誰をはばかろう。新改訳:主はわたしの命の砦、誰をわたしはこわがろう。岩波訳:ヤハウェがわが命の砦、誰にわたしはおののこう。
要するに、1節前半の「イラー」と後半の「エフハット」(両方とも「わたしは恐れよう)という意味)を訳し分けようと苦労している。口語訳だけが同じ訳語。つまり、原語におけるニュアンスの違いと日本語のボキャブラリーと言語感覚の差が翻訳に現れている。要するに「私には怖いものはない」ということである。その通り、主が私の命の砦なら、私には怖いものはない。
イエスの次の言葉を思い起こす。「人々を恐れてはならない。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」マタイ10:26-31)。
日々の聖句2013 04月26日(金)
主の道はことごとく正しく、御業は慈しみを示しています。(詩145:17)
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(フィリ1:6)
私の黙想:
ここでの「主の道」とは何か。普通、「主の道」といえば、私たちが歩むべき「道」だと思ってしまう。何か欠けている。この「主の道」とは主が歩む道である。口語訳では「主はそのすべての道に正しく」、フランシスコ会訳では「 主の歩まれる道」、祈祷書訳では「主の行われることはすべて正しく」と訳されている。そう訳すことによって、前半の「正しく」と後半の「慈しみ」とがバランスを取ることができる。ヤハウェは正義の神であり、愛の神である。ヤハウェにおいては「愛する」という目的を達せいする方法も「正義」である。あるいは神の愛は正義によって実現し、神の正義は愛を内包する。愛即義、義即愛。詩人はそのことを高らかにほめたたえている。
日々の聖句2013 04月27日(土)
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。(イザ55:3)
あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブ6:12)
私の黙想:
今日の聖句に次の言葉が続く。「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」。 こういう言葉を読むとイヤな気分になる。「やはり、あなたはユダヤ人の神ですか」。どういう理屈で、ユダヤ人の神が「私たちの神」になるのか。逆に、「日本人の神、天照大神」が「みんなの神、世界の神」にならないのか。ヤハウェと天照大神とは何を根拠に、どう違うと言えるのか。同じ神だと言い切ってしまったら何故いけないのか。私の頭の中に居られる神、「あなたは誰ですか」。いずれにせよ、「頭の中」だけなら、それは「私の神観念」であるから、無害である。しかし私が信じる神、「あなたはいったい誰ですか」。どうして、あなたはユダヤ人の神であることに拘っておられるのですか。何時、あなたはキッパリとユダヤ人との特別な関係を断ち切り、普遍的な神となられたのですか」。
日々の聖句2013 04月21日(日)
主よ、わたしたちを御心に留め、祝福してください。(詩115:12)
今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。(ルカ12:28)
私の黙想:
「祝福してください」という言葉が私の心に留まった。「心に留まる」ということは、そのことを意識し、存在を認め、そのことについて配慮することである。「祝福」ということについて考えるとき、イサクに向かって、悲痛な叫びをあげて激しく泣き「このわたしをも祝福してください」と訴えたエサウを思い出す(創世記27:34)。祝福という行為には「霊を与える」という意味が込められている。サウル王が神の言葉に従わなかったとき、「主の霊がサウルから離れた」(1サムエル16:14)。祝福がキャンセルされることもある。つまり祝福が取り上げられる。
キリスト教における重要な儀式に「信徒按手」「聖職按手」「主教按手」という行為がある。これは「祝福の伝達」という意味が込められている。聖職者になるということは「祝福の伝達」に参加すること、祝福された者になるということである。最も悲劇的な人生は、人の目には聖職という地位に立ちつつ、祝福を取り上げられて生きるということである。
日々の聖句2013 04月22日(月)
わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。(レビ26:12)
神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせました。(コロ1:19)
私の黙想:
約束の地での幸せな生活の約束。あなたたちは食物に飽き足り、国のうちで平穏に暮らすことができる。わたしは国に平安を与え、あなたたちは脅かされることなく安眠することができる(5-6a )。わたしはあなたたちを顧み、あなたたちに子を生ませ、その数を増し、あなたたちとわたしの契約を立てる。あなたたちは前年の穀物を食べ尽くさぬうちに、それを倉から運び出して、新穀を倉に納めるようになる(9-10)。
それにしても、そのために犠牲になる側から見るとたまったものじゃない。「わたしはまた、猛獣を国から一掃し、剣が国を荒廃させることはない。あなたたちは敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。あなたたちは五人で百人の敵を、百人で一万の敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす」(6b-8)と言う。凄まじい。こういう激しい言葉が「あなたたちは脅かされることなく安眠することができる」という言葉と並んで語られる。こういう言葉を「神の言葉」として聞き、教えられ、育った人間を考えると恐ろしくなる。イエスが育った環境がこれである。その中でイエスはそれを反面教師として「平和の神学」を求めた。
日々の聖句2013 04月23日(火)
御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。(詩119:130)
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。(ヘブ2:1)
私の黙想:
こういうことを書くと笑われるかも知れないが、聖書の言葉は本当に不思議だと思う。時代も文化も価値観も全然異なる文書が、今の私に語りかけるということ。これをどう説明したらいいのか。普通の文書は読み手の問題意識やその文書を読み解こうとする意志によって、その世界に分け入るという行為(働きかけ)が求められ、それに応じて「理解され、感動する」。ところが、聖書の言葉は言葉の側から働きかけて来て、私の決断を迫る。これは体験した者にしか通じない説明かも知れない。この体験がないと説教は説教にならず、万葉集の解説やギリシャ神話の解読と同じように、古典文学の味わいにすぎなくなってしまう。これを体験してしまうと、それを誰かに話して、分かち合いたくなる。
日々の聖句2013 04月24日(水)
低くされたわたしたちを、御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(詩136:23)
今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、イスラエルの民全体も知っていただきたい。キリストの名によるものです。(使徒4:9-10)
私の黙想:
私たちを低くした者は誰だろう。この詩の流れからいうと、敵(バビロン帝国か?)であろう。私たちの人生には順風の時もあれば、逆風の時もある。時には(敵に)敗北するときもあれば、自分の責任において失敗することもある。もう駄目だと思うときもある。そういう場合に私たちは「低くされる」。いや、本当に低くされなければならない。低くなったときに、高い所からは見えなかったものが見えてくる。何よりも自分自身を知る。自分が誰に支えられ、活かされているのか。それこそが、何にも代え難い恵みである。詩136編は創世記以来のイスラエル史を振り返っての壮大な叙事詩であるが、他の全ての感謝とは感謝の質が異なる。
日々の聖句2013 04月25日(木)
主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。(詩27:1)
イエスの言葉:なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。(マタイ8:26)
私の黙想:
何かしら日本語に落ち着きがない。それで他の翻訳と一通り読み比べてみた。口語訳:主は私の命の砦だ。私は誰を怖じ恐れよう。文語訳:主はわが命の力なり。わが懼るべきものはたれぞや。祈祷書:主は私の命の砦、私は誰をはばかろう。フランシスコ:主はわたしの命の砦、わたしは誰をはばかろう。新改訳:主はわたしの命の砦、誰をわたしはこわがろう。岩波訳:ヤハウェがわが命の砦、誰にわたしはおののこう。
要するに、1節前半の「イラー」と後半の「エフハット」(両方とも「わたしは恐れよう)という意味)を訳し分けようと苦労している。口語訳だけが同じ訳語。つまり、原語におけるニュアンスの違いと日本語のボキャブラリーと言語感覚の差が翻訳に現れている。要するに「私には怖いものはない」ということである。その通り、主が私の命の砦なら、私には怖いものはない。
イエスの次の言葉を思い起こす。「人々を恐れてはならない。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」マタイ10:26-31)。
日々の聖句2013 04月26日(金)
主の道はことごとく正しく、御業は慈しみを示しています。(詩145:17)
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(フィリ1:6)
私の黙想:
ここでの「主の道」とは何か。普通、「主の道」といえば、私たちが歩むべき「道」だと思ってしまう。何か欠けている。この「主の道」とは主が歩む道である。口語訳では「主はそのすべての道に正しく」、フランシスコ会訳では「 主の歩まれる道」、祈祷書訳では「主の行われることはすべて正しく」と訳されている。そう訳すことによって、前半の「正しく」と後半の「慈しみ」とがバランスを取ることができる。ヤハウェは正義の神であり、愛の神である。ヤハウェにおいては「愛する」という目的を達せいする方法も「正義」である。あるいは神の愛は正義によって実現し、神の正義は愛を内包する。愛即義、義即愛。詩人はそのことを高らかにほめたたえている。
日々の聖句2013 04月27日(土)
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。(イザ55:3)
あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。(ヘブ6:12)
私の黙想:
今日の聖句に次の言葉が続く。「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」。 こういう言葉を読むとイヤな気分になる。「やはり、あなたはユダヤ人の神ですか」。どういう理屈で、ユダヤ人の神が「私たちの神」になるのか。逆に、「日本人の神、天照大神」が「みんなの神、世界の神」にならないのか。ヤハウェと天照大神とは何を根拠に、どう違うと言えるのか。同じ神だと言い切ってしまったら何故いけないのか。私の頭の中に居られる神、「あなたは誰ですか」。いずれにせよ、「頭の中」だけなら、それは「私の神観念」であるから、無害である。しかし私が信じる神、「あなたはいったい誰ですか」。どうして、あなたはユダヤ人の神であることに拘っておられるのですか。何時、あなたはキッパリとユダヤ人との特別な関係を断ち切り、普遍的な神となられたのですか」。