ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/04/23~04/29

2017-04-29 20:39:01 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/04/23~04/29

2017 日々の聖句 4月23日(日)
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。(申命記8:6)

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。(ロマ13:8)

私の黙想:
申命記の第1テーマそのもの。「ハイ、従います」で終わり、何も黙想することはない。それで、今日は全く別なことを。日本語って便利だと言うこと。
「畏れる」(フランシスコ会訳、岩波訳、文語訳)、これ口語訳、新改訳では「恐れる」。ここではどちらが正しいと言うことを論じるつもりはない。簡単な辞書ででも「おそれる」を入力すると「怖れる」、「懼れる」と出てくる。それぞれニュアンスが違う。英語辞書では、afraid、fearがある。ヘブル語でどれだけ類似の言葉あるのだろうか。
これに関連して、シュバイッツァー博士の思想のメインテーマは「生命への畏敬」であると言われている。畏れるということを丁寧に言うならば「畏敬」であり、それこそが聖書が語る「神への畏れ」の核心だと思っている。
私たち夫婦に長男が与えられたとき、予めお願いしていた通りに、松村克己先生に名付けをお願いしていたので、「男の子が与えられました」と電話で連絡し、1週間たって、お宅に名前を頂きに伺いますと、ご夫婦でお祝いの言葉と共に、筆で書かれた半紙を戴きました。それには「敬」という名前が記されていました。その時、松村先生は、この名前はシュバイッツァー博士の「生命への畏敬」に基づいたと、話されました。私はそれまで、先生の口からシュバイッツアー博士の名前を伺ったことがありませんでしたの驚きましたが、実はシュバイッツアー先生については「医療と神学」というテーマでかなり深く考えてこられたことを後に知りました。

2017 日々の聖句 4月24日(月)
み御救いを愛する人が、主をあがめよといつも歌いますように。(詩40:17)

イエスの言葉:「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)

私の黙想:
偶然、昨日から「あがめる」とはどういうことか考え続けてきている。そのため、今日は主の祈りの「御名が聖とされますように」を分析しようと思っていたところである。「主をあがめよ」の部分、口語訳では「『主は大いなるかな』ととなえるように」となっている。フランシスコ会訳では「主は大いなる方」、新改訳は新共同訳と同じで「主をあがめよう」、岩波訳は面白い「大いなれ、ヤハウェ」、文語訳は「エホバは大なるかな」。岩波によると同じ表現が詩35:27、詩70:5では「大いなれ、神」という用例が示されている。漢字で書くと「崇める」である。
旧約聖書では「神となる」「民となる」という組み合わせは、レビ26:12、エレミヤ7:23、31:1、31:33、エゼキエル37:27、新約聖書では2コリント6:16、ヘブル8:10、黙示録21:3に出てくる。多少、論理が飛躍するが、私は「神を崇める」とは「神を神とする」、その裏には「民は民となる」これは「人間は人間になる」を意味すると解釈している。
主の祈りで一般的には「御名を崇めます」を聖公会では「御名が聖とされますように」と祈るが同じ意味だと思っている。「大いなるか」「聖なるかな」も同様。ここに神と人間との究極的関係が示されていると、解している。これはヨハネ福音書における「栄光」あるいは「栄光化」を解釈する中での発展である。

2017 日々の聖句 4月25日(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。(詩84:11)

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9)

私の黙想:
ここでは、どういう「千日」なのか書かれていない。口語訳とフランシスコ会訳では、「余所のいる千日」と言葉を補っている。文語訳、新改訳では、次の「主に逆らう者の天幕で長らえるよりは」を前の文と後ろの文との両方に掛けているようだ。岩波訳では次の行の冒頭にある「私が選んだ」を前の文章につなげて、「私が選んだ千日よりも善く」としている。詩文としては岩波訳は捨てがたい。
次のゴールデンウィークはどこに行こうか、といろいろ自分で考えても良い案はなかなか出てこない。まぁ、それよりも教会の庭の掃除にでも出かけようか、という信徒はいないかな。まぁ、いないでしょうね。休みの日はそれぞれ自分で考えて楽しく過ごしましょう。それが神にとってもとても「トーヴ(良いこと)」ですよ。

2017 日々の聖句 4月26日(水)
あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。(詩71:20)

イエスの言葉:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネ14:1)

私の黙想:
ここでの詩人は、多くの災い、苦しみを経験しているが、死んではいない。「死線を越えて、地獄を見てきた」とさえいう。だが、現実は死線など越えていない。死んでいたら、災いも苦しみもない。にもかかわらず、「再び命を得させてくださう」という。つまり、詩人にとって災いと苦しみの中にある時、死んでいるのと同じだという。普通人々は「死の苦しき」というとき、本当は死んではいない。何となく、「死=苦」という公式ができあがっていて、十字架というと死の苦しみという。しかし、信仰者にとって災いとか苦しみは死ではない。生きている証拠である。そこが「信じどころ」である。そこで「信じられるか、信じられないか」が甦りをもたらす。

2017 日々の聖句 4月27日(木)
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。(43:18~19)

神の国は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になる。(ルカ13:19)

私の黙想:
今日の聖句はイザヤ書でもone of the biggest wordsだ。で、今朝は小さなことに目を付けて考える。それは「それは芽生えている」という表現だ。まさに今、日本では芽生えの時だ。季語では「芽立ち」とか「芽吹く」というらしい。美しい言葉だ。「今や、それは芽吹いている」とでも訳すと、枯れた枝から目が吹き出る様子が目に浮かぶ。新芽はいろいろな色をしている。赤もあれば淡い緑もあれば、黄色もある。それらが暫くすると見んな濃い緑になる。この短い期間、私たちはうきうきする。
口語訳では「やがてそれは起こる」、いかにも散文的だ。フランシスコ会訳では「今にもそれが芽生えている」、新改訳は「今、もうそれが起ころうとしている」、まさに緊急事態である。文語訳は難しい「頓て(やがて)おこるべし」。この「頓」は、急に、時を移さずにその場で、たちどころに、にわかに」という意味である。岩波訳はなかなか凝っている、「今、もうその兆しは見えている」。そんなんです。その徴候はも既に見え始めている。妊婦の場合で言うならば、「もう陣痛は始まっている」のである。だから、勘のいい人ならば気付いている筈だし、気付いていなければならない。さぁ、今や日本でも何かが起ころうとしている。あまり脅かすと安倍政権をサポートすることになるから、大きな声では言えないが、何かが始まろうとしている。その兆しはあちらこちらに見られる。それが「吉か兆か」、吉であることを祈る。

2017 日々の聖句 4月28日(金)
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。(彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、)この僕たちを、神は御使いを送って救われた。(ダニエル3:28)

すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(使徒言行録12:7)

私の黙想:
実に痛快の物語。3人のユダヤ人の青年たちの信仰の物語、括弧の中にその物語の核心部分が記されている。3人の青年を放り込んだはずの竈の中に4人の人間が歩いていたという。信仰者はたとえ迫害され、火の竈の中に放り込まれても、天使が助けてくれるという。
この物語の事実性などいかなる合理的解釈も不要である。これを信じたために、実際は竈の中で焼け死んでも、恨み言は無しです。それはすべて「自己責任」で、どうぞ。

2017 日々の聖句 4月29日(土)
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ53:1)

パウロの手紙:わたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。(コロサイ4:3)

私の黙想:
今日の聖句は疑問形で書かれているが、疑問文ではない。極度の驚きの表現である。その驚きの内容を、パウロの言葉で言うと、「(ヤハウェの)秘められた計画」である。預言者はイスラエル民族の上にヤハウェが計画された内容を知り、驚いている。それはとうてい普通の常識では考えられないことであった。ご承知のようにイザヤ書52章13節以下53章12節までの、「主の下僕の詩」であり、それは主の下僕がどういう形に顕れ、どう生きるかという預言である。主の下僕が「栄光の姿」ではなく、苦難の下僕として顕れる。それが何故イスラエル民族の救済になるのか、分からない。この理解不能なことに「ヤハウェの秘密」である」。パウロはそれを「躓き」と言った。まさに、躓きである。人類はすべて神の行為に「躓く」。
実はキリスト教史は、この躓きの解明であり、躓きの解消であり、「分かること」にしようとする努力である。それはそれで人間として仕方がないが、思い切って、神の行為に躓こうではないか。

最新の画像もっと見る