ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/03/08~03/14

2015-03-15 09:22:02 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/03/08~03/14

2015日々の聖句 03月08日(日)
主よ、あなたは、御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。(詩92:5)
イエスは女の上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(ルカ13:13)
私の黙想:
主日なのに、聖書の翻訳にケチを付けるのも躊躇するが、「御業を喜び祝わせてくださいます」という表現、何か違和感がある。口語訳では「みわざをもって私を楽しませられました」であった。他の邦訳もほとんどこの線だ「私」を主語にして考えてみると、私は誰かに「喜び祝わせる」ために何をするだろうか。もっと単純に「楽しんでもらうために何かをするのであろう。そして期待通り「楽しんでもらえたら」私も嬉しい。親と子の関係を見たらそれが麗しい絵になる。もっと単純に言うなら子どもに「祝ってもらう」ために何かをする親なんていない。
こんな「つまらないこと」にこだわるのは、信仰者にとって神と人間との最も根源的な関係は、神は人間を喜ばせるために何を為さり、人間は単純にそれを喜び感謝することにあると、わたしは思うからである。
今日は主の日、私たちが主日を大切にするのは「御手の業を喜び賛美する」ことである。何故なら(キー)、神は「いつも」「わたしたちを楽しませるために」「何かをしてくださっている」からである。その全体が「お祝いごと」なのである。
今日は第2日曜日、八幡聖オーガスチン教会の主日礼拝に参加する。

2015日々の聖句 03月09日(月)
馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。(詩33:17~18)
彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(フィリピ3:3)
私の黙想:
本日の聖句は、戦争の真っ最中というより、戦争の予感がする状況の中で、軍事力の強化政策に反対する立場からの言葉であろう。
7節まででヤハウエの壮大な働きが賛美され、8節から15節までの部分で、ヤハウエが国際関係をも統治しておられることが述べられる。その上で、16節以下の部分で「真の勝利」がどのようにしてもたらされるかを語る。「馬は勝利をもたらすものとはならず」という言葉は、単純に軍事力を否定しているのではなく、軍事力によってもたらされる勝利の中味が問われている。それが本当の勝利なのか。「王の勝利は兵の数によらず」(16節a)とは軍事力によって押さえ込んだ勝利は「王の勝利」ではない。真の王の勝利は軍事力によらないもの、それが15節までの部分で賛美されている「主の企て、御心のはからい」(11節)である。

2015日々の聖句 03月10日(火)
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。(詩40:18)
希望はわたしたちを欺くことがありません。(ロマ5:5)
私の黙想:
人間には「逃れ場」が絶対必要なのだ。その点、イスラエル史において国造りの段階で「逃れの町」(民数記35章、ヨシュア記20、21章)を設計しているの興味深い。イスラエル史において重要な町であった「シケム」も逃れの町の一つであった(歴代誌上6:52)。実際にどれほど機能したのかは分からないが、ともかく設計図にはあったのであろう。この発想が重要なのである。もっとこのことについて、勉強しなければならないと思う。
神を「逃れ場」と考える思想は凄い。福音的である。それはそうとして、口語訳もフランシスコ会訳も18節の前半の「わたしの逃れ場」に当たる部分を「わが救い主です」、文語訳は「われをすくいたもう者なり」、新改訳は「私を助け出す方」と訳している。文章としては、かなり違う。困ったときの岩波訳では「私を逃れさせる方」とある。これは面白い。少なくとも通常の「救い」ではなさそうである。ある意味で、論理、倫理を超えた救済、心理的な安らぎ、これら3つの「理」を貫く救済の場、自分自身が犯した罪の結果であれ、他人からの誤解であれ、追い詰められて、二進も三進も行かなくなった時の最後の場所、父親ではなく「母親の懐」なのであろう。もう一度言おう。人間には「逃れ場」が絶対必要なのである。

2015日々の聖句 03月11日(水)
わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。(エゼキエル34:16)
救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。(テトス3:4~5)
私の黙想:
3月11日、どんな聖句が選ばれているのか、昨晩から気になっていた。ドイツで籤を引くのだから当然、関係ないであろうと思いながら今朝目が覚めた。ローズンゲンを開いて驚いた。必ずしも関係があるとは思えないテキストであるが、私としてはドキッとした。4年目、私はあの災害にどう向き合うのか。向き合えるのか。災害復興への政府の姿勢を批判するのか。災害にって失われた生命を悼むのか。東北地方で献身的に働くボランティアのために祈るのか。今朝は、一番に聖書学者山形孝夫さんの『黒い海の記憶』を手にして、彼が災害ご2年間、何を考えたのか考えた。この書の副題に「いま、死者の語りをきくこと」とある。「はじめに」のところで、次のように言う。
<詩篇56篇に、神の記憶あるいは神の涙の革袋という「嘆きの歌」がある。「あなたは私の嘆きを数えておられるはずです。あなたの記憶にそれが乗っているではありませんか。どうか、あなたの革袋に私の涙をおいてください」。死者の悲しみに寄り添い、死者を記憶しながら、死者と共に生きるとは、こうした神の記憶に支えられて切り開かれて行くのだろうか」。
今日の聖句はこの言葉と響き合っている。私たちの記憶は日々に薄れていくが、神の記憶は日々に強くなっていく。

2015日々の聖句 03月12日(木)
主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。(歴代誌下14:10)
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)
私の黙想:
クシュの軍勢100万、戦車300両に攻められ、それを迎え撃つアサの軍勢(ユダ国)は「盾と槍を携えるユダの兵30万」。結果は目に見えている。今日の聖句はその民族存亡をかけえた戦争において祈るアサ王の戦勝祈願である。現実の生々しさは横においておいて、この戦勝祈願はキレイゴトすぎる。「力のある者にも無力な者にも分け隔てなく」なんて言ってる状況ではない。「我軍は弱小であるが、助けてください」と、あるいは「主よ、あなたは正義の味方、我らを守り給え」と祈るべきであろう。結果はユダ軍の大勝利であったから、いいものの、この戦勝祈願はおかしい。
口語訳では「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください」と訳されている。大同小異である。フランシスコ会訳では思い切って「主よ、強気き者に立ち向かう力がない者を助けてくださる方は、あなたのほかに誰もいません」と訳している。これならよく分かる。原文がどうなっているのかわからないが、戦勝祈願は綺麗事では済まされない。信仰の戦いも同じことであろう、と一言付け加えておこう。

2015日々の聖句 03月13日(金)
主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。(出エジプト34:9)
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)
私の黙想:
この卑屈さ、これは罪を犯した者が、関係の修復を願う姿勢である。主に対して罪を犯す前には、主はごく自然に民の中におられた。しかしモーセが主から呼ばれて山の上に登っている留守中、民は偶像礼拝に走ってしまった。そのため、モーセは主から授与された十戒が刻み込まれた2枚の石版を投げつけ、民を叱った。これで主との関係は完全に絶たれることになったが、主は民の罪を赦し、改めて石版に十戒を刻みモーセに授与した。それが8節までのあらすじである。本日の聖句は、そいういう場面でのモーセの祈りである。ここでのモーセは完全に罪を犯した民の立場に立っている。むしろ民の罪を身に負って神の前に跪いている。これが仲保者である。ここで「御好意」と訳されている言葉は口語訳では「恵み」、文語訳では「恩」という字を書き「めぐみ」と読ませている。フランシスコ会訳も新改訳も「み心にかなっているなら」である。つまり、主と民との関係は修復されて入るが、以前のような「自然」の関係ではなく、主に対して負い目を負った関係になっている。それ以後の主と民との関係史は「対(対等)」の関係ではなく「上下」の関係によって規定されることとなる。この点を明確にしないと旧約聖書を読み違える。その関係が、そのまま新約聖書に引き継がれ、「福音」理解の前提となっている。パウロがガラテヤの手紙の中で、「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(ガラテヤ4:5~7)と叫ぶ時、その前提を突き崩すことを語っている。神の御子、イエス・キリストによって古い関係は完全に断ち切られた。主と民との関係は変わったという告知(良き知らせ)のである。もう、神の前に「卑屈」になることはない。

2015日々の聖句 03月14日(土)
主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。(詩147:11)
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかっています。(フィリピ3:10)
私の黙想:
この「主が望まれる」という言葉を口語訳、文語訳では「よみする(好したもう)、フランシスコ会訳、新改訳では「好まれる」と訳している。神が望む人、神から期待される人間像とは少しニュアンスが違う。そこには何か、特別な能力、優秀な人、仕事が出来る人という価値観が入っている(ような気がする)。神はそういう人が嫌いだという訳ではないが、好きではない。「神を畏れる人」「神の愛を待ち受けている人」が好きだという。
ここでの「神を畏れる人」とは、私の主観的な体験によると、一言で言って、神第1の人、神のことをどんなことよりも優先する人、神なくしては生きていけないと思っている人を意味しているのであろうし、「主の慈しみを待ち望んでいる人」とは、何時も、いかなる時でも、神の動きを見つめている人、神の働きにいつでも応えようと待ち構えている人を意味しているのであろう。要するに、そういう人が神の目から見て「可愛い人」なのであろう。
私は神から期待される人間であるよりは、神から好かれる人間になりたい。

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