ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/11/16~11/22

2014-11-23 10:30:00 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/11/16~11/22

2014日々の聖句 11月16日(日)
ヨブは主に言った。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ42:5~6)
神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。(黙示録22:3~4)
私の黙想:
ヨブ個人に対する神の語りかけ(40:6~41:26)に接し、ヨブは震え上がり、神に告白する。感動的な場面であるが、少し冷静にこの部分を読んでみると、神は「嵐の中から」語っているのであって、ヨブは神の姿を「見ている」わけではない。その意味では神の言葉を「聞いている」のである。その意味では「耳にしていた」が、今や、この目で「見ている」というのは言葉の綾である。むしろ、ここでのヨブの「告白」は、神の「(直接的)顕現」に出会って、今までの信仰が観念的であったということであろう。では、今までのヨブの信仰は観念的であったのだろうか。ヨブ記1章におけるヨブの信仰は決して「観念的」ではない。現実の中で生きた信仰生活を送っていた。ヨブの信仰にサタンさえ羨んだ。神も呼ぶの信仰には絶対的と言えるほどの信頼をおいていた。だからこそ、神はサタンにヨブの信仰を試みさせたのである。
それではヨブの信仰のどこに問題があったのだろうか。私は今日の聖句の中で「自分を退け」という言葉にひっかかる。口語訳では「みずから恨み」、フランシスコ会訳では「わたしの言葉を忌み」、新改訳では「自分をさげすみ」、文語訳では「みずから恨み」、岩波訳では「私は退けます」と訳している。うーん、なかなか含蓄がある。この文章では、何を退けているのか、何を恨んでいるのか、何を蔑んでいるのか、内容は明白ではない。問題は「わたし」である。私を退けているのが、私が退けているのか。私が恨んでいるのか、私を恨んでいるのか。つまり、ヨブは何を「悔い改め」るのか。岩波訳の並木浩一さんは、「(この文章は)退ける対象を語らない。この不完全な構文は意図的である」という。その意図は「読者に考えさせる」ためであろうという。私は考える。ヨブに何か「悔い改めること」があるとしたら、「自分」つまり現代的な言葉を使うとしたら「自我」であろう。具体的に言うならば、「私の信仰」「信仰者としての私自身」を退ける。もはや、私は信じているなんて言えない。またもや、「わたしは信じます」と告白する主日に相応しくない黙想になってしまった。

2014日々の聖句 11月17日(月)
私の創造を永久に喜び楽しみ、喜び躍れ。(イザヤ65:18)
イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」(ヨハネ4:34~35)
私の黙想:
今日の聖句は新共同訳とも口語訳とも異なる。おそらくドイツ語版からの訳であろう。ここでの「私の創造」とは17節の「新しい天と新しい地」である。この部分のフランシスコ会訳は面白い。「お前たちはただ、楽しみ喜べ、わたしが創造するものを」。新改訳は「だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」。これも面白い。「いついつまでも」か「ただ」か。「永久に」か「とこしえに」か。わたしは「ただ」に軍配を上げる。喜び踊るのは今である。現在である。「いついつまでも」はその延長に過ぎない。「ただ」には時間的なものは含まれていない。不信、不安、理屈、疑問など一切入り込む余地がない。「ただ、喜び踊る」。馬鹿と言われるなら、馬鹿でいい。「踊らな、損損」という祝祭。いや、この心境は「新天新地」に限らない。神が創造されたものすべて、私の目の前に見えるもの、見えないもの一切を喜び、楽しみ、踊る。クリスマスプレゼントをもらった子どものように、お返しのことや、この贈り物の「意味」など考えないで、単純に喜び、踊る。神は私たちに、それを期待しておられるのであろう。どうだ、嬉しいか。ハイ嬉しいです。「ただ」、それだけだ。

2014日々の聖句 11月18日(火)
なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。(ヨブ3:20~21)
信じます。信仰のないわたしをお助けください。(マルコ9:24)
私の黙想:
ヨブの嘆きの言葉である。ヨブは産まれてきたことを嘆く(11節)。「産まれてきた」というよりも、もっと深刻である。なぜ「死産」でなかったか。通常なら喜びの
筈の「出産・誕生」が悲劇の始まりだったという。産まれ、生かされていることを恨む。ヨブは死ぬことを祈り、求め、待つ。
正直に言って、このような状況、人生を私は想像できない。想像を絶している。ヨブを訪れる友人たちにも理解できない。そういう「悩み、苦悩」は現実にあるのだろうか。もし、そのような人が私の前に現れたら、私はその人を理解できないであろう。だから、私が何を言っても、その人の前で、私の言葉は虚しく消えてしまうであろう。私が理解できる射程は「生きる悩み」であり「生きたいのに死ぬ悲劇、悲惨さ」である。
その意味でヨブ記は一種の「観念小説」あるいは「実験小説」であろう。こういう人がいたとして、その人の救いはどこにあるのか。

2014日々の聖句 11月19日(水)
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。(イザヤ65:17)
イエスの言葉:悔い改めよ。天の国は近づいた。(マタイ4:17)
私の黙想:
一昨日、今日の聖句に続く18節の言葉を黙想したところなのに、何で、という感じ。そこがローズンゲンの(籤の)面白さなのであろう。だから、今朝は新約聖書の聖句との絡みを黙想する。何故、あの言葉とこの言葉とが組み合わされているのだろう。
先ず、イザヤの言葉は要するに将来起こる神の業は、過去何年に何回起こったということもないような出来事であり、まさに人間にとって「想定外のこと」だという。それが神の業の神の業たる所以である。ところが、人間は馬鹿だから、過去のことを思い起こしたり、将来のことを計算して、安全圏を考えている。人間って本当に愚かなことであるという。将来のこと、それは「神の領域」に属する。常に人間の「想定」をはるかに越している。そこでマタイの、というよりイエスの言葉。将来のこと、将来の幸せ(「神の国」とは将来の幸せ)を考えるならば、そういう考え方を捨てよ。それが「悔い改め」ということである。つまり人間の馬鹿さ加減を前提にして将来設計をせよ。
なんていうことを黙想したら、不信仰なんだろうか。

2014日々の聖句 11月20日(木)
あなたの神なる主が、旅路を導かれたとき、あなたが主を捨てたので、このことがあなたの身に及んだのではないか。(エレミヤ2:17)
イエスの言葉:わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。(マタイ7:26)
私の黙想:
まず初めに、出エジプト以来、今日に至るまでのヤハウエとイスラエルの歴史が振り返られる。ヤハウエは一貫して真実であったが常にイスラエルは不忠実であった。ここでは特に民の指導者、祭司たちが糾弾されている。「一体、どこの国が神々を取り替えたことがあろうかしかも、神でないものと」(11節)。民族成立の根拠(土台)である宗教を変更する国家がどこにあるのだろうか。これは政治家や宗教家に対する厳しい批判である。今日の聖句での「このこと」とは13~14節で述べられる2つのことである。民族の水源である「ヤハウエ」を捨てたこと、民族の自立性をすてて多民族の奴隷になったこと。これらは2つで一つであり、一つのことの2つの局面を示している。
個人の問題として考えるならば、自主性を捨てて、世俗の波に流されてしまうこと、現代国家で言うならば、自国の憲法を変更して他国の属国となること。
これが預言者エレミヤが語るヤハウエの言葉である。これ以降、延々とヤハウエの嘆きが述べられる。中にはこんな言葉もある。「もし人がその妻を出し彼女が彼のもとを去って他の男のものとなれば前の夫は彼女のもとに戻るだろうか。その地は汚れてしまうではないか。お前は多くの男と淫行にふけったのにわたしに戻ろうと言うのかと主は言われる」(3:1)。「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主(夫)である」(3:14)。ヤハウエの悲痛な声が響く。

2014日々の聖句 11月21日(金)
ダニエルの言葉:神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。(ダニエル6:23)
神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。(1ヨハネ5:18)
私の黙想:
ダニエルが王から信頼され、重視されるのを同僚たちは羨み、彼らの陰謀にはめられて、犯罪人として死刑を言い渡され「獅子の洞窟」に閉じ込められた。翌朝早くにダニエルを心配した王が洞窟の中のダニエルに声をかける。今日の聖句は、その時のダニエルの答えである。今日の聖句の趣旨は「神が信仰者を守る」というよりも、神がダニエルの無実を証明したということの方に重点が掛かっている。いわば「真実の勝利」の物語である。この物語を神は信仰者を悪人の手から守るという物語にしてしまってはならない。

2014日々の聖句 11月22日(土)
主よ、あなたを呼び求めます。わたしの岩よ、わたしに対して沈黙しないでください。(詩28:1)
二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます叫んだ。(マタイ20:30~31)
私の黙想:
「沈黙しないでください」という部分、口語訳では「耳しいとならないでください」、フランシスコ会訳では「耳をふさがないでください」、新改訳では「耳を閉じないでください」、聞こえているのに黙っているのと、聞こえないのとではかなり違う。要するに、ここでは神に私の声が届いているのかどうかが問題である。ただの「沈黙」ではない。聞こえているのか、聞こえていないのかが問題であり、それが不安なのである。こちらの願いや意志が相手に届いているのか、私と相手との関係が通じているのか通じていないのか。それは人間にとって「根源的と言っていいほど」深刻な不安となる。
こういう感じというのは、通常は、普段は、いつもは必ず通じているという確信があるときに、通じないということが不安になる。通じてさえおれば、安心できる。現代人には「便りのないのは良い知らせ」なんて悠長に構えておれない。外国に留学している孫のことを思うと、「通じている」ということの意味を深く思う。
さて、神との関係、日本人にとって、神との音信不通ということは不安の材料にならない。日本人は「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17:28)と信じている。ところが、ヘブライ人たちは、常に「神に見放されるのではないか」という不安の中で生きているようである。さぁ、どちらの方が信仰的で、幸せなのだろう。変に通信機器が発達しすぎて、音信不通になることに異常な不安を感じる現代人は、果たして「古い人々」よりも濃密な人間関係を持っているのだろうか。

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