ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第5主日(2019.4.7)

2019-04-04 16:31:02 | 説教
断想:大斎節第5主日(2019.4.7)

隅の親石  ルカ20:9~19

<テキスト>
9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

<以上>

1. テキストの分析
この譬えはマルコ福音書(12:1~12)にもマタイ福音書(21:33~46)にもある。細かい異同は省くとしてルカは重要な変更を加えている。マルコでは都合3回僕たちを送っているが、農夫たちは最初の僕を袋だたきにした。2番目の僕は「頭を殴り、侮辱した」。3番目の僕は殺された。「そのほかに多くの僕を送ったが、或者は殴られ、ある者は殺された」という。そして最後に「息子なら」ということで息子を送る。そしてその息子も殺され、ぶどう園の外に放り出される。この点ではマタイ福音書はマルコと同じである。ところがルカ福音書では僕たちは誰も殺されるには至っていない。殺されたのは最後に送った「愛する息子」(Lk.20:13)だけである。この相異の意味するところは大きい。
ここで一つの疑問が出てくる。この話は果たして「譬え」なのだろうか。確かにマルコやマタイでは譬え的な要素は強い。しかしルカにおいては「主人の『愛する息子』を殺す」ということによって譬え話の限界を超え、イエス自身の出来事の予告となる。むしろルカの視点からいうとイエスの十字架という事件の寓意的解釈ということになる。イエスはこれまでの多くの預言者と異なり「神の子」だから殺された。
この「譬え」を語るイエスは自分自身を「神の子」と自覚し、殺されることを覚悟していた。同時にそれはその結果としてのエルサレムの滅亡の予告でもある。もちろんそれはイエスの自覚というよりも福音書記者の解釈によるものであるが。
「そんなことがあってはなりません」(ルカ20:16)という言葉はルカ独自のものでマルコにもマタイにもない。この民衆の言葉はこの譬えのどの部分を指して、そんなことはあり得ないといっているのだろうか。ぶどう園における所有者と農民とのいざこざはどこにでも見られたであろう。そのことが時には暴力事件に発展することもあり得るだろうが、まさか殺人にまで至るということはまれであろう。おそらく、ここで特に取り上げられている点は農民たちが所有者の息子を殺すということの異常さであろう。「そんなことはあり得ない」と民衆は思う。それに対してイエスはそれが現実になると予告する。それが詩編118:22の「隅の親石」についての引用である。興味深いことにマルコとマタイではこの引用に23節の「これは主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」という言葉を付け加えている。といういうよりもルカがこの言葉を削除したのであろう。ルカは「わたしたちの目には不思議なこと」という言葉を「そんなことがあってはなりません」という言葉に置き換え、会話をスムーズにしたものと思われる。この辺の文章感覚は流石にルカである。
民衆のこの言葉に対するイエスの反応は「イエスは彼らを見つめる」(ルカ20:17)であった。もちろん、これはルカだけが述べていることであるが、ここで用いられている「見つめる」という言葉は「じっと注視する」という意味の言葉である。「そんなことがあってはなりません」という民衆たちの心をのぞき込む注視である。彼らはどこまで分かっているのか。ただ単にこの譬えの非現実性を指摘しているだけなのか。それと同時に「目は口ほどに物を言う」という諺にもあるように、イエスの目は民衆に語りかける目でもある。この「見つめる」という単語の一番分かりやすい用例はルカ22:61で、ペトロがイエスを知らないと言った直後、「主は振り向いてペトロを見つめられた」とある。イエスは群衆を見て、目で何かを語られた。ルカが参照しているマルコ福音書では「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか」という言葉がありイザヤ書の言葉が引用される。ルカでは群衆を見つめて言われた。「それでは・・・・・」。かなり雰囲気が違う。イエスはあり得ないことが起こるのだということを何とか分からせようとしている。
18節の「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」という言葉マタイとルカにだけ出てくる言葉で、指示代名詞をのぞいてほぼ完全に一致している。ただし、この部分は西方写本では欠けており、文脈的にも論旨のつながりがはっきりしない。田川建三氏はこの節については「ルカがどこかで単独のロギオンとして見つけてきたもので、「石」という語の故にこの段落に挿入するのがいいと考えてこの位置に入れたということだろう。それを後世になってになってマタイの写本家たちがルカを見て、マタイの方にもルカから写し入れてしまった、と考えるのが一番素直である」という(田川建三『マタイ福音書訳と註』775頁)。従って、この文脈では18節は一応無視しておく。要するにルカはイエスの十字架事件を「そんなことがあってはならないこと」、「人間の目には不思議なこと」として語っている。

2. 「隅の親石」
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という言葉は、キリスト教徒たちの間ではイエスのことを示す言葉として定着した。1ペトロ2:7ではイザヤ28:16と組み合わせて次のように引用されている。「この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです」(1ペトロ2:7~8)。
この言葉のもともとの意味は、バビロニヤにおいてこの世界から捨てられた状況に置かれていたイスラエルが神によって拾われ「神の家の土台」となるという希望を示した預言の言葉である。そして、そのことはイスラエルのバビロニヤからの帰還という事実によって歴史的真理(現実)となった。つまり、この世の支配者たちが無用のもの、邪魔なもの、捨てるべきものと考えているものを神は選び、神の器とする。それがイスラエルの歴史であり、神の歴史介入の方法であるというのがイスラエル人たちの確信であった。
ついでに言うとイエスの弟子たちはこの歴史観に立ってイエスを「この世の支配者たちが捨てた石」としてイエスの出来事を解釈したのである。この解釈では、「この世の支配者」とは、律法学者や祭司長ということになる。19節の言葉はそのことを示している。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」。

3. イエスの譬の意味
さて以上のことを踏まえて、ぶどう園の譬えを細かい点を省いて整理する。
ぶどう園の所有者は農夫たちにぶどう園を貸した。収穫の時になったので所有者は収穫物を納めさせようとした。農夫たちは、派遣された僕を袋叩きにして追い返した。所有者は、3度、僕を派遣したが農夫たちは同じ様な目に合わせて追い返した。
ここまでは譬えというよりも、当時現実に各地のぶどう園において起こっていたであろう現実的な話である。ところが、後半になると現実の歴史から離れて「引喩」になってくる。
所有者は僕たちを派遣していたのでは解決しないので、跡継ぎ息子を派遣した。農夫たちは跡継ぎ息子を殺してしまえばぶどう園は自分たちのものになると思い、息子を殺してしまった。農夫たちの行動に対して、所有者は農夫たちに報復し、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えた。
これが事件の荒筋である。これに対して民衆は「そんなことがあってはなりません」と反論した。民衆の反論は農夫たちが跡取り息子を殺すというようなことはあり得ないこと、非現実的なことという点であろう。
 民衆の反論に対してイエスは暫くの時間、黙って民衆の顔を見つめている。それは本当にあり得ないことなのか。この世界ではあり得ないことが常に起こっているではないのか。イエスは静かに「家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった」という聖書の言葉をどう理解するのか。この言葉ならイスラエル人ならば誰でも知っている。この言葉が今日のイスラエルを成立させている言葉である。イスラエルとはこの世の支配者たちが捨てた石に過ぎない。バビロンからの解放というが実態はバビロンを滅ぼしたペルシャから無用の民族として放逐されたに等しい。しかし神はそのイスラエルを拾いあげ、神の民として育てた。そのことを語るのがこの「隅の親石」論である。この歴史観をどう考えるのか、ということがイエスの問いである。

4. 「ありえないこと」が起こっている
イスラエルという民族は、この世の常識によっては「ありえない」ということが実際に起こったということの上に建っており、立ち続けている。従ってイスラエルの人々にとって「これは無用の石ころだ」ということによって、その石を捨てるということは「あってはならない」ことである。たとえ、この世の人々がすべて無用だと宣言しても、イスラエルだけはそれを捨ててはならない。ところがイスラエルの歴史を振り返ってみると、人々に神の言葉を伝える預言者たちを次々と弾圧し、追放してきた歴史ではないか。イスラエルの歴史こそ「あってはならないこと」をし続けてきたのではないか。そして最後に神の子まで殺そうとしている。しかも、それを神の御名において行ってきた。「あってはならないこと」をやり続けてきたのがイスラエルの歴史である。真にイスラエルであるということはこの世の支配者たちが捨てた石を拾い集め、それらを「隅の親石」として社会を形成するところにある。この世において無用なものと思われているものにこそ無限の価値を見出す。それがイスラエルの価値観である。イエスが当時のイスラエルに対して批判している最重要なポイントはここにある。

5. 教会への問い
さて、この問いかけは教会にも向けられなければならない。教会もイスラエルと同様、この世の支配者たちが「捨てた石」を「隅の親石」として建てられた共同体である。教会には何も誇るべきものはない。ところが何時の間にか教会に権力が生まれ、教会にとって無用なものと勝手に断定して、た者を排除してきた。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という人類史上最高の作品の一つだといわれている小説がある。これを全部読むのは大変である。その中に(小説中の小説)『大審問官』という作品がある。
この小説を読みやすいように「再話」の形で書き改めたものが<ブログ「ぶんやさんち」2008.1.30~2.1に収録されている。 https://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/1173659c283fff370a753391f4038933 、以下3連続>
この小説のミソは、中世のヨーロッパで魔女裁判が盛んに行われていたスペインのセヴィリアの町に隠れた姿でキリストが現れるという出来事が起こる。人々はキリストに気づき街中大騒ぎになりキリストは逮捕され大審問官から尋問を受けることになる。大審問官は逮捕された男がホンモノのキリストであることに気づくが、それだからこそ、教会という組織防衛のためにキリストを抹殺しようとする。非常に面白い作品で簡単に荒筋だけを述べてもその迫力は分からないと思うが、要するに教会にとってキリストは不要な存在であり、危険な存在だということである。これは今日でも同じことではなかろうか。もし、今日キリストがこの世界に現れたら、そのキリストを抹殺するのは教会かも知れない。わたしたちも、あの時の民衆と同じように「そんなことはあってはなりません」と叫ぶのでしょうか。

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