ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 10/28~11/03

2012-11-05 14:47:46 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 10/28~11/03

losungenj 2012.10.28(sun)
主が仰せになると、そのように成り主が命じられると、そのように立つ。(Ps33:9)
イエスは耳の聞こえないその人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(Mk7:34-38)
私の黙想:
神において意志(御心)が言葉であり、意志するとその通りになる。要するに、聖書の神は「わがまま」である。共におられると常に緊張しなければならない。そんなに緊張が続くものではないので、結局「ありのまま」であるしかない。話題は変わるが、日本人にとって「神とはお客様」で、我が家に来られることは「有難い」ことで、丁重におもてなしをしなければならないが長居されては困る。普段着は神の居られないときで、神の居られるときは晴れ着に着替える。ここに日本人キリスト者の二重生活の根拠がある。

losungenj 2012.10.29(mon)
今まで、主は我々を助けてくださった。(1Sam7:12)
わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられるように、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。(1Tim4:17)
私の黙想:
日本における「神風伝承」に似ている。問題は日本人は今でも何かというと「神風信仰」を思い起こす。ところがイスラエルのその後の歴史を見て「エベン・エゼル(助けの石)」信仰を持ち出した形跡がない。民族存亡をかけた大事件なのに。何故だろう。

losungenj 2012.10.30(tue)
見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。(Isa62:11)
キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。(1Pet1:20) 私の黙想:
「あなたの救いが進んでいる」。手術台の上の患者は自分自身の手術がうまく進んでいるかどうか分からない。ただ、医者を信頼して「私の手術はうまく進んでいる」と信じるだけである。現実の歴史は悪い方向に進んでいるように見えるが、神の歴史は確実に進んでいると信じる。それがいわゆる「救済史観」である。

losungenj 2012.10.31(wed)
鷲が雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶようにただ主のみ、その民を導きだした。(Deut32:11,12)
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。(1Pet1:5)
私の黙想:
これは「モーセの歌」の一部。この言葉には出エジプトの出来事を思い起こしつつ、捕囚からの解放の希望が歌われている。聖書においては常に「過去と現在」が将来の希望(事の終わり)へと結び付けられている。それらの全体が歴史である。過去を十分に踏まえない現在への問いは観念化し、そこからは将来への展望は開かれない。日本史も教会史も、過去の歴史を十分に検証し、それを踏まえた上で現在の諸問題を議論しなければ、噛み合わないのは当然のことで、そこから将来への展望が開かれるはずがない。

losungenj 2012.11.01(thu)
憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。(Pro11:12)
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(1Cor13:1)
私の黙想:
「憎」と「諍い」「愛」「罪を覆う」と4つの単語を並べると、憎と諍いは原因と結果、憎と愛は対立概念で分かりやすいが、諍いと罪を覆うは対立概念だろうか、愛と罪を覆うとは原因・結果だろうか。むしろここには「平和」が相応しい。つまり『罪を覆う」ということには、平和であり得ない相手との平和ということが述べられているような気がする。

losungenj 2012.11.02(fri)
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。(Lam3:26)
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。(Luk21:19)
私の黙想:
哀歌第3章の主題は、何故正しい者が世間からイジメられるのか。この人生における根本的な疑問に対する答えは自分自身で考えて出てくるものではない。いろいろ原因を考えても心当たりはなく、出てくる答えはすべて中途半端なものである。その時に対する答えは神から来るしかない。神だけが私の正しさを知り、苦しみの理由を教えてくれる。だから、「黙して待て」。

望月 克仁 アーメン

水草 修治 新改訳では哀歌3:26は「 主の救いを黙って待つのは良い。」です。

文屋 善明 友人、門叶さんによると、待つという動詞の前に接続詞「ヴェ(and)」が付いているとのこと。この接続詞によって「黙まる」と「待つ」とがそれぞれ意味を持ちつつ、それらが合わされている。従ってたこの沈黙はただの沈黙ではなく、「待つ」という非常に積極的な姿勢を含む「沈黙」という意味であろうと思います。

水草 修治 ヴェ・ドゥマームのヴェにそういうニュアンスが。なるほど。ですが、新共同訳の「幸いを得る」という訳は、どうかな、と疑問です。ここでは、「・・・は良い(トーブ)」が正解だと思いますが。

文屋 善明 私も「幸いを得る」は意訳しすぎだと思います。「黙って待ってろ」「黙って待つがいい」。日本の諺の「果報は寝て待て」とは違うと思います。寝て待つのではなく、起きて待つ。この場合、「トーブ」は軽く、それでいいというニュアンスでしょう。


losungenj 2012.11.03(sat)
わたしは主、あなたの神イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。(Isa43:3)
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。(2Pet3:18)
私の黙想:
この句の前後を読むと、これはイスラエルに対する神の偏愛宣言である。他の民族を犠牲にしてでもあなたを愛し、守るという宣言。これを他の民が聞いた時どう思うか、などということは一切考慮していない。日本人である私はこの言葉をどう聞くか。単純ではない。

文屋 善明 先ず、ユダヤ人キリスト者の旧約解釈があり、それを媒介にした「神学」が形成され、それを異邦人キリスト者も受け入れ、旧約聖書をイスラエル文学だという記憶が薄れ、ここでいう「イスラエル」が全人類にまで拡大されて、初めて「私へのメッセージ」となる。


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