ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 01/13~01/19

2013-01-21 11:27:23 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 01/13~01/19

日々の聖句2013 01月13日(日)
祭司エリはサムエルに言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」(1サム3:18)
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。(ルカ12:25-26)
私の黙想:
祭司エリとサムエルとの関係は面白い。エリの息子たちはどうしようもないアクだ。でも彼のもとに預けられたサムエルはイスラエル史上最初の預言者となった。エリはどんな気持ちでサムエルを育てたのであろう。また、サムエルをエリの元に預けた母ハンナはどんな気持ちであったのであろう。人間の育ちは環境か、素質か。考えさせられる。

日々の聖句2013 01月14日(月)
主は太陽、盾。(詩84:12)
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(2コリ4:6)
私の黙想:
おそらく古代イスラエル人たちよりは、私たちの方がはるかに「太陽の恩恵」を知っているであろう。しかし、その知識は太陽に対する「感謝の念」の大きさを示していない。私たちは太陽がそこにあるということを当たり前のことと考えている。しかし彼らは太陽がそこにあるから、私たちが存在し、生きておられると信じている。太陽は神が創造し、私たちに与えて下さった賜物というよりも、「主は太陽、盾」という。

日々の聖句2013 01月15日(火)
主よ、あなたの僕はそれら(あなたの命令)のことを熟慮します。(詩19:12)
悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。(ルカ6:43)
私の黙想:
今日の聖句は何か違和感がある。翻訳の問題だろうと思い、いろいろ調べてみると、やはり大いに問題がある。フランシスコ会訳では「まことに、あなたの僕はこれによって教えられ」と訳されている。その他の翻訳もほとんどこれと等しい。
「熟慮します」という言葉には謙虚さが無い。口語訳でも「あなたのしもべは、これによって戒めをうける」である。私は神の戒めに圧倒されている、というスタンスである。そこには「熟慮する」余地はない。詩人はその直前で次のように歌う。「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」ともあれ、新共同訳の「変な翻訳」のお陰でいろいろ考えさせられて感謝。

日々の聖句2013 01月16日(水)
地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(イザ45:22)
主人は僕に言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。」(ルカ14:23)
私の黙想:
捕囚からの解放という出来事を通して、イスラエルの「主(ヤハウェ)」が天地を創造した神であることを高らかに讃美する。主語はヤハウェ。ここでの「救い」とは「主を仰ぎ見ること」。

日々の聖句2013 01月17日(木)
見よ、そのときわたしは、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。(ゼファ3:19)
あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。(1テサ5:24)
私の黙想:
「名誉回復」は一つの時代の終わりであり、同時に新しい時代の始まりである。イエスの復活とは「名誉回復」であるとペトロたちは考えた(使徒2:31-36)。神はイエスを「陰府に捨て置く」筈がない。「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリ2:9)。イエスの復活において古い時代は終わり、新しい時代が始まった。イエスを殺すような暗闇が支配する時代は終わり、愛の光に満ちた時代が到来した。

日々の聖句2013 01月18日(金)
神の言葉:これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを。(イザ48:6)
聞く耳のある者は聞きなさい。(ルカ8:8)
私の黙想:
人間が考えること、予想すること、それらは結局、既に起こっていることに他ならない。6節前半で「
自分でもそれを告げうるではないか」という。それに対して、神が語ることは全く新しいこと、人間が想像したり、予想したり出来ないことである。そのことが起こる、という。この一点を考えるとき、いや「神の言葉に耳を傾けるとき」、私たちの歴史観は変わる。歴史は常に人間が想像も出来なかったことの連続であった。

日々の聖句2013 01月19日(土)
主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる。(申32:36)
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)
私の黙想:
申命記32章は、約束の地を目前にして、そこに入ることを主から拒否されたモーセが最後の力を絞り出すようにして語る「最後の教えである。教えの中心は約束の地に入ってもその宗教や風習や道徳に染まってはならないということである。それらは「ソドムやゴモラの悪習」と同じレベルのもので、「そのぶどう酒は、蛇の毒、コブラの猛毒」である。美味しい、美味しいと言いながら飲んでいる内に、毒が回って死に至る。一旦、その甘い汁を飲んでしまうと、死に至るまで飲み続ける。どこかで断ち切らない限り、人類は滅びる。主なる神は自分の民に警告を発しておられる。

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