ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 06/30~07/06

2013-07-08 08:57:24 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 06/30~07/06

日々の聖句2013 06月30日(日)

あなたが祝福してくださるまでは離しません。(創世記32:27)
神は御自分の僕(イエス)を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。(使徒3:26)
私の黙想:
聖書では「執拗さ(しつこさ)」は高く評価されている。神もしつこいし、神はしつこう人間を高く評価する。日本人にはこの執拗は、頑迷、頑固に通じ退けられ、淡泊さ、軽やかさ、水のような流れが高く評価される。まるで「油と水」のようである。どちらかというと、ヤコブよりエサウが日本人的である。ヤコブに手玉に取られ、騙され、大切な家督の権を奪い取られてしまう人の良さ。ヤコブとぐるになった母親リベカを許して共に生きる優しさ、エサウの機嫌を取るために策を弄するヤコブをあっさり許して、迎え入れる人の良さ(創33:10)。 これが聖書でなかれば、エサウを主人公にして「優しさの文学」を書きたいほどである。

日々の聖句2013 07月01日(月)

今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。(ゼカリア8:13)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1ペトロ3:9)
私の黙想:
世界における自国民の位置づけを問題にしている。預言者ゼカリアは、かつてイスラエルの民は世界の「呪い」であったという。そしてその民がエルサレムに帰還し、エルサレムに住むことによって世界に対して「祝福」となるという。神の民が、エルサレムから離れて「寄留する民」である間は世界の厄介者であるが、イスラエルがあるべき場所に治まることによって世界は安定し、世界に平和がもたらされる。これがアブラハムに約束された「祝福の基、祝福の源」(創世記12:2)である。これがイスラエルの民族意識の原点である。(今日はあえてシオニズムについて触れない。)

日々の聖句2013 07月02日(火)

神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。(詩62:7)
こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(1コリ15:58)
私の黙想:
生き方の土台が問題だ。砂地に立っているのか、岩の上に立っているのか。 長い議論の結論として「神の言葉」が生き方の土台だという。つまり聖書である。問題は聖書における「神の言葉」とは何か。聖書がそのまま神の言葉ではない。聖書において、聖書の中に「神の言葉」を聞くという。その「聞く」には必然的に解釈が伴う。エチオピアの高官は言う。「手引きしてくれる人がなければ、どうしてわかりますか」(使徒8:31)。聖書の言葉は「解釈」を通して神の言葉になる。従って解釈者の責任は大きい。まず解釈者が聖書の言葉を通して神の言葉を「聞く」ということなくして、それを神の言葉として解釈することはできない。聖書の言葉が解釈者自身の生き方の土台になっているのか。

日々の聖句2013 07月03日(水)

主なるわたしは正義をもってあなたを呼び、わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。(イザヤ42:6、口語訳)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(ロマ8』35)
私の黙想:
神の絶対支配。創造から人類の救済まで、すべてが神の支配の元にある。人間間における支配・被支配関係は相対的なもの。いかなる迫害、人生苦も、神の絶対支配下にある。神は神が「選んだ者」を絶対に護り、選びの目的を成就する。絶対他力信仰と選びの思想とが表裏一体になっている。これがイザヤ書における信仰の根本的姿勢。この姿勢はパウロに受け継がれている。

日々の聖句2013 07月04日(木)

彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。(マラキ3:2)
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」(ルカ2:10)
私の黙想:
人間は神を求める。乳児が母親を求めるように神を求める。 神に会いたいと思う。神を見ることを願う。しかし本当に神が現れたら人間は恐れる。神を正視することができる人間は誰もいない。「神は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ」。これが旧約聖書が語る「神」である。新約聖書においては、神が現れる時、天使が先駆けし、先ず「恐れるな」という言葉が述べられた。新約聖書の語る神は乳児にとっての慈母のような存在である。おしめを取り替え(汚れを清め)、乳を与え、両腕でしっかりと抱きかかえてくれる神である。

日々の聖句2013 07月05日(金)

あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。(イザヤ58:11)
キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。(コロサイ2:9-10)
私の黙想:
この章は、私たちがどういう人間にならなければならないかということを率直に描いている。それは私個人であると共に、私たちの共同体でもある。一句一句身にしみる。 今日の聖句はそれらを総括する言葉である。
「潤された園」、何よって潤されているのだろう。結論として一言、「主を喜ぶこと(14節)」。それは難行苦行によっては得られない。12節13節で述べられている「戒めっぽい」言葉は、決して私たちが守るべき「戒め」ではなく、人間として当たり前の生活を当たり前のように生きること。私がいったい何者かということを自覚し、それを回復すること「古い廃墟を築き直すこと」に他ならない。
主は預言者にそのことを「声をからして述べよ」と言われる。

日々の聖句2013 07月06日(土)

主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ、恵み深いあなたの御名に感謝します。(詩54:8)
語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語り、奉仕をする人は、神から賜る力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神が崇められるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。 (1ペトロ4:11)
私の黙想:
詩人は最も頼りにしている仲間から誤解され、そこから追われ、逃亡者となる。逃げた先でも騙され通告される。もはや、どこに逃げ、誰を信じたらいいのか分からない状況にある。ここまでは映画「逃亡者」にも見られる、誰にでも起こる可能性のある出来事。
詩人はその中で苦難の中のダビデを思い起こし、この詩を書いている。ここで神を呪うか、神を信じるか。神を信じると言っても、もはや今までの通り神殿に出かけて犠牲を献げることもできない。詩人は「自分自身で犠牲を献げる」。そのとき、神を信じ、神に礼拝を捧げることは、どこででもできるのだということを悟る。

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