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ぶんやさんの記録

読書記録:ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社)

2015-02-24 13:13:43 | 小論
読書記録:ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国━小さなメシア運動が帝国に広がった理由━』(新教出版社)
原題「The rise of christianity」(キリスト教の興隆)

本書の著者は「歴史的資料」を用いるが歴史学者でもなく、また『初期キリスト教の階級基盤』を書いているが新約学者でもなく、自らを社会学者だという。その意味で、社会学とは何かということを考える際に非常に興味深い内容になっている。なるほど、社会学、特に宗教社会学とはこういう論文を書くのかと分からせてくれる。非常に難しい内容を取り扱っているが、ほとんど各章のはじめに、この章ではこういうことを、こういう資料を用いて叙述すると説明して、その章の終わりで「結論」を語る。そのために社会学に親しんでいないものにもわかりやすい。手法としては自然科学の論文に近いのかもしれない。

第1章「信者の増加と改宗」は、本書全体の構想を述べている。

著者は第1章の冒頭で次のように述べる。
キリスト教の興隆に関するあらゆる疑問は、つきつめるとひとつしかない。それがどう達成されたかである。ローマ帝国のはずれで起こったよくわからない小さなメシア運動が、古典古代の多神教を駆逐し、西洋文明の支配的信仰となるまでにどう展開したか。疑問はたったこれひとつだ。答えはいくつもあるが、どれをとっても、ひとつだけではキリスト教の君臨は説明できない。

これが著者が本書を執筆の動機である。それに続いて、次のように述べている。

これからの各章でキリスト教の興隆の再構成を試み、それがどうして起こったかを説明したい。
まず、この章では先の質問をより厳密に投げかけようと思う。はじめに増加を数値的に考察し、解くベき課題をよりクリアにしたい。つまり増加率が最低でもどの程度あれば、歴史が許した時間枠の中でキリスト教運動が推定される大きさになりえたか。キリスト教は、使徒言行録が証しし、エウセビオスからラムゼイ・マクマレンにいたる教会史家がみな言うように、集団改宗者が出たから
急成長したのか、といった問いである。
キリスト救の増加に関する妥当な成長曲線を示したら、次にわたしは、人が改宗するプロセスを社会学的にあとづけ、キリスト教徒
と彼らを取り巻くギリシャ・ローマ世界の社会的関係の何がそこに契機としてあったかを推論したい。そして、実際何が起きたかを知る適切な情報がない中で、社会科学の理論を歴史の再構成に用いる正当性を論じてこの章の結びとする。

どうです。実にわかりやすいでしょう。そして一寸間を置いて、「とりあえず」以下で、本書全体の結論を予想させる言葉が述べられる。

とりあえず、最初に、キリスト教の興隆を説明しようとする挑戦が冒涜的か否かを論じておくのがよいと思う。たとえば仮にわたしが、キリスト教徒は多産で子宝に恵まれたことや、女性の方が多かったので異教徒と結婚する率が高かったことが、その興降に役立ったと言えば、それで聖なる成就を俗なる原因に帰したことになるのだろうか。そうは思わない。人が神なるものをどう信じようが
信じまいが、神が世界をキリスト教化しなかったのは見てのとおりで、それは達成されないままにとどまっている。むしろ新約聖書は信仰を広めた人問の努力を語る。人間の行為を人間の言葉で理解しようとする探求は決して神ヘの冒涜ではない。もうひとつ、わたしはキリスト教の興隆を純粋に「物質的」または杜会的要因には還正しない。わたしは教理を正当に評価する。なぜならこの宗教が成功した本質的要素は、キリス ト教徒が何を信じたかにあったからだ。
第2章では「社記キリスト教の階級基盤」、第3章「ユダヤ人宣教は成功した」、第4章「疫病・ネットワーク・改宗」、第5章「信者の増加と女性の役割」、第6章「都市帝国のキリスト教化━━数量的アプローチ」、第7章「都市の混乱と危機━━アンティオキアの場合」、第8章「殉教者━━合理的選択としての自己犠牲」、第9章「時期と組織」、第10章「徳についての小論」は、本書全体についてのまとめとなっている。


第7章 都市の混乱と危機 ━━ アンティオキアの場合

エルサレムについでキリスト教の宣教拠点になったアンティオキア、いったい私たちはその都市をどんなところだと思っているのだろうか。著者はこの章でローマの都市の一つの典型として、ここで生きる人々の生活環境を克明に描き出している。以下の部分は、その最後の結論の部分である。

新約時代のアンティオキアを正確に述ベようとすれば、そこにあふれる窮乏、危険、絶望、憎悪を避けては通れない。その都市の家族の平均像といえば、不潔で窮屈な一画で惨めな暮らしを営み、子どもの半数以上には生まれてすぐか幼児のうちに死なれ、生き残った子どもの大多数が成人するまでに片親または両親を失った、となるだろう。民族間の激しい敵愾心から生じる憎しみと怖れが
町に渦巻き、それはひっきりなしにやって来る新参者によってさらにふくらんだ。町には安定した愛着のネツトワークが決定的に欠けていたので、ささいな出来事でも大衆を巻き込んだ暴力ざたにつながるおそれがあった。犯罪が栄え、夜道が危険だった。そして何よりも繰り返し壊滅的な災害に見舞われる都市であり、住民はいつなんどき、文字通りホームレスになるとも知れなかった━━むろん、生き延びていれば、の話である。
このような状況におかれた人はしばしばやりきれない思いにとらわれたに違いない。彼らが終末が近いと思い込んでも、たしかに異常ではなかっただろう。そして同時に安心や希望を、いわば救済を、心から願ったときがあったはずだ。

結 論
わたしはこの本の最後の数章で、キリスト教がギリシヤ・ローマ世界の都会生活が生む窮乏、混乱、恐怖、残虐性に対する答として起こった再活性化運動のひとつとして、どんな役割を果たしたかを検証しようと考えている。ここでは前置きとして、キリスト教が都市特有の無数の差し迫った問題に対処できる新しいタイプの社会関係と規範とをもたらし、それによってギリシア・ローマ各地の都市生活を生き返らせた、とだけ述べることにしたい。ホームレスと貧困者だらけの町に、キリスト教は希望とともに慈善活動を提供した。新参者とよそ者だらけの町に、キリスト教はただちに愛着関係を結ベる礎を提供した。孤児と寡婦であふれた町に、キリスト教は新しい、より大きな家族観をもたらした。民族間の抗争で引き裂かれた町に、キリスト教は社会的連帯の新しい基盤をもたらした。そして疫病、火事、地震に悩む町に、キリスト教はよく働く看護の奉仕を提供した。
無論、地震、火事、疫病、暴動、外敵の侵攻はキリスト教時代が初めてだったわけではない。人々は何世紀にもわたってキリスト教神学やキリスト教的杜会構造の助けなしに災害に耐えてきた。
だから古代世界の窮乏がキ∪スト教を到来させた、などと言うつもりはない。わたしが言いたいのは、キリスト教が現れるとたちまち、それがこれらの慢性的な問題にすぐれた対応能力を示し、問題の最終的な克服に大きな役割を果たした、ということだ。
こうした都市特有の問題で深刻に苦しんでいたアンテイオキアは、すぐにも解決を必要としていた。初期キリスト教の宜教者がこの町であれほど暖かく迎えられたのは驚くにあたらない。なぜなら彼らは、単に都会の運動のひとつをもたらしたのではなく、ギリシヤ・ローマ世界の都市生活の耐え難さを癒やす新しい文化を伝えたからである。(204頁)

第10章 徳についての小論(ほぼ全体をカバーしているが、部分的に日本語表現に変更を加えている。)
昔と違い現代の歴史学者は、社会的要因が宗教の教義形成に対してどのように働いたかという議論には前向きであ、がその反面、教義が社会的要因の形成にどのように働いた可能性があるかという議論となると、 いまひとつ乗ってこない。これはとくに、キリスト教の興隆が優れた神学によるという主張に対するアレルギー反応であろう。このような反応の主なる原因は、社会の下部構造が上部構造を形成するという時代遅れのマルクス主義の影響かもしれない。また別の学者たちは、キリスト教の興隆の主たる原因は「神の導きによる」という信仰的な見方に対する居心地の悪さを感じた結果かも知れない。
私は以下の章において教義がキリスト教の興隆に重要な役割を果たしたことを明らかにするであろう。疫病の大流行においてキリスト者が果敢に病人を看護したのも、また、中絶と嬰兒殺しを拒否し、子どもの誕生を祝福し、女性の権利を認めたことが、教会の組織力を得たということ、それらの現象の中核にあったものが教義であったからである。
そこでこの研究をまとめるにあたって、わたしはキリスト教の興隆に対して究極的な要素と思えるものに正面から向きあうことが必要だと思う。わたしの論旨はこうである、キリスト教の中心教義は、人を惹きつけ、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出し、また、支える。
キリスト教が史上最も拡大し成功した宗教のひとつとなったのは、この宗教がもつ特定の教義によるとわたしは信じる。そしてキリスト教が興隆したのは、そうした教義を具体化し、組織的行動と個人の態度を導いた方法にあったと考える。このふたつのポイントにはごく手短かにしか触れないが、それはこれまでの9つの章の中で陰に、いや、むしろ陽に述ベてきたからに他ならない。


ユダヤ・キリスト教文化またはイスラム文化で育ってきた者にとって、異教の神々は恐るベきものとは思えない。それぞれの神は、力も、力を及ぼす範囲も非常に限られ、関与もごく薄い。それは多くの神々がその機能を分担しているからである。そのうえ、これらの神々の行動も道徳的にみて問題がある。神々は相互にひどいことをやり合い、ときには人間に対してもたちの悪いいたずらをしかける。どうやら、彼らは「下界」の事柄にはあまり関心はないように見える。「神は~~~~ するほどに、世を愛された」という単純な一節でも、教養のある異教徒には驚きだったであろう。
ユダヤ・キリスト教で神が人間の行動に対して命令を下すと教えること自体は、異教徒から見ても特段新しくないーー神々は常に犠牲と礼拝を要求したからだ。また、神が人間の望みに答えるーー犠牲とひき換えに神からの奉仕を引き出せるーーという考えにも新しさはない。しかし第4章でわたしが指摘したように、神が彼を愛する人々を愛するというのは、まったく新しい考えだった。
当時の哲学者たちは、隣れみや哀惜の情を病的とみなし、合理的な人間がもつベきでない性格的欠陥とし、それに相応しくない相手に支援や救済がもたらされるのは正義に反すると考えていたらしい。だからこそ、「隣れみというものは、まったく理性では御せない」とか、人は「衝動を抑えることを」を学ばねばならない、「ふさわしくないものが隣れみを請う声」に「応えては」ならない、などと言われたのである。さらに「哀惜とは賢者に似つかわしくない性格的欠陥であり、まだ大人になっていない者にだけ許された「無知ゆえの衝動的反応」である等と言われていた。プラトンでさえ乞食の問題を国家論の国境の外側に投げ捨てっれていたのである。
このような道徳観の時代に、キリスト教は隣れみが大切な徳のひとつであり、隣れみに富む神は人にも隣れみを求める、と教えたのであっただった。さらに、神が人を愛するのだから、人は互いに愛し合わない限り、キリスト教徒として神に喜んでもらえないという論法に至っては、軸新そのものだった。
もっと革新的だったのが、 キリスト教的愛と慈善は家族や部族の垣根を越え、 「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすベての人」(1コリント1:2)のもとまで届けなければならない、という教えだったかもしれない。たしかに愛と慈善は、キリスト教社会の垣根をもこえて広げるベきものとされた。
キュプリアヌスがカルタゴの信徒たちに与えた指示を思い出してみよう。
「自分の仲間だけをそれなりの接し方で愛するというだけの慈しみでは何ら優れたところはなく、不信心な者や徴税人以上の何かをしてこそ、つまり善をもって悪にうち勝ち、神のように隣れみあふれた親切な行いをし、敵をも愛する人が完全になれる。こうして善いわざは教会だけではなく、あらゆる人に対して行われた」。革新的な内容だった。実際、これこそ数々の苦難にあえいでいたローマ世界を再生に向かわせた礎の文化だった。



当時の社会において最も大きな苦難は多くの民族がクレィジー・キルトのようにひしめき合っていたために起こる文化的混沌と燃えあがる憎悪だった。帝国をまとめるため、ローマは文化の混沌には目をつぶり、経済と政治の一体化を達成した。ローマ帝国がかかえた膨大な「言語、カルト、伝統、教育程度の多様性」は想像以上のものがある。ギリシャ・ローマの都市が、この文化的多様性の小宇宙だったことにも注意を向ける必要がある。そこでは文化的背景も言語も、拝む神も様々に異なる人々が、やみくもに寄せ集められていた。
このような帝国でキリスト教が再活性化連動になれたのは、民族性を全く取り払った、まとまりある文化を評していた点が、大きいとわたしは思う。民族の絆を捨てなくても誰もが迎えられた。だがまさにこの理由で、キリスト教徒の間に新しくより普遍的で、コスモポリタン的と呼ベる規範や習慣が現れるにつれて、民族性はしだいに退いていった。こうしてキリスト教は、ユダヤ教が再生の基盤になるのを阻んだ民族という垣根をまず壊し、やがてそれを乗り越えたのだ。異教の神々とは違い、イスラエルの神はたしかに道徳律や責任を彼の民に押しつけた。神を受け人れるには、ユダヤの民族性をも受け入れねばならなかった。その意味で、「神を畏れる人たち」の存在は大きい。しかし同時にこの人たちが律法すベてを受け入れられなかったというその一点で離散ユダヤ人社会の周縁に留まったことは、律法が改宗を阻む大きな民族的障害だったことも明らかにしている。わたしが第2章で論じたとおり、多くのへレニズム化した離散ユダヤ人にとって、居心地が悪くなった民族的なアイデンティテぃから解き放ってくれるキリスト教には魅力があったのである。
キリスト教はさらに、男女間および家族内の社会的関係を自由にする契機となったーーこれについては第5章の大半を費やした。そして、第7章で述ベたように、キリスト教は階級格差を大いに緩和した。奴隷と貴族とがキリストにおいて兄弟になるとは、単に言葉のあやでは終わらなかった。
しかし何にもましてキリスト教は、気まぐれな残虐さと他人の死に喝采する風潮にみちた世界に、人間性という概念をもたらした。ぺルペトゥアの殉教の伝説を考えてみよう。それを読むと、固い信仰をもった一群のキリスト教徒が、闘技場に集まった大喜びの群衆のまえで野獣に襲われてわぞましい死を遂げるまでの長い試練お様子が詳しくわかる。だが同時に、皇帝に犠牲をを棒げよとの命令に聞き従い、その結果命拾いしていれば、他の誰かが野獣の前に投げ出されていたことも知るのだ。それが本来、鬼帝の幼い息子の誕生日を祝う遊戯だったからである。遊戯が催されるときはいつも、人が死ななくてはならなかった。あるときは数十人、またあろときは数百人単位で。
しばしば報酬目当ての志願者だった剣闘士とは異なり、野獣の前に投げ出された者は断罪された犯罪人が多かった。ある意味で彼らは自業自得と言えたかもしれない。しかし、わたしが問いたいのは死刑の問題でもなけれぱ、残酷きわまるその方法でもない。問題は、見世物ーー闘技場の群衆にとって人々が野獣に引き裂かれ、餌食になるところや、武器をとって闘い殺されるところを見るのが究極の娯楽であり、男の子の誕生日を祝うもてなしだったことだ。そのような人々がどういう気持ちで生きていたのかは想像し難い。
ともあれ、キリスト教は残虐な行いと見物人の両方を非難した。テルトゥリアヌスが読者に命じたように、汝殺すなかれ、である。そしてキリスト教徒たちは地位があがるにつれて、そのような「遊戯」を禁止した。さらに重要なのは、異教徒がふつうに行っていた残酷な習慣とはまったく比較にならない道徳観をキリスト教徒が公にしたことだった。
結論として、キリスト教が改宗者に与えたのは人間性にほかならなかつた。この意味で、「徳」それ自体が報いだった。

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