今日午前、2月14日のブログ「柴田勝家の武勇伝」の舞台となった瓶割山(長光寺)城跡を訪ねた。城名の由来は、瓶割山(長光寺山とも言われている)にあったことによる。瓶割山の標高:234.4m。
山頂の整備された「一の郭」跡地
その他「二の郭」・「三の郭」・「武者隠し」・「米蔵」・「土橋」・「石垣」・古井戸」等々の場所を示す看板が立てられていたが、看板がなければ単なる山岳の地形くらいにしか思えない。山頂からの眺望は抜群、琵琶湖も見える。
戦の歴史であった。兵士たちには戦う理由はなかったはず。兵士たちの命をかけた戦いや一般民衆の辛苦を思うと、城跡にたたずみ在りし日の城の面影を思い浮かべ偲ぶことにやるせなさを感じる。
登り口近くの御澤神社に9:00に集合した。本日案内いただくU氏が資料を用意し概要説明をしてくれたが、体調がすぐれない様子につき、現地説明をお断りしお帰りいただいた。現地説明はU氏に代わって探訪メンバーで勉強家のT氏が立派にやってくれた。帰着時間は、予定通り11時30分であった、快晴下、有意義な探訪であった。メンバー相互の信頼関係も深めることができた。
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近々に、「瓶割り柴田」を生んだ、その舞台となった瓶割山城跡(長光寺城跡)を、郷土史家のU氏に案内してもらうことになった。
瓶割山城(長光寺城)は、信長が近江国の防護固めのために武将を配備した城の一つである。柴田勝家が任された。
信長への報復を企てる守護大名佐々木六角義賢・義治は、城を取り囲み、水源を断ち、時機を見計らって降伏を促す使者をつかわしたところ、籠城の柴田軍には水は潤沢にある光景を見せつけられた。
水は困窮しており籠城を続けることが困難な状態であったが、使者が来たときは水が潤沢にあるよう装っていた。柴田勝家は最後の瓶を割り、家臣を奮い立たせ、籠城の10倍を超える義賢・義治軍を強襲・勝利した。瓶を割ったのは「背水の陣」である。柴田勝家の武勇伝として語り継がれてきた。義賢・義治軍は、さらに「野洲河原の戦い」で大敗した。
真実は事実でないかも知れない。
元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉義景の征討の戦い(金ヶ崎の戦い)の途上、浅井長政の離反により撤退した。「瓶割り柴田」が生まれたのは、信長が撤退後に近江国の防護を強化したころの出来事である。岐阜に戻った信長は、軍勢を立て直し、8月に浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで破った。
元亀元年(1570年)も、信長が戦さに明け暮れた年であった。石山合戦、長島一向一揆もこの年から始まった。
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1月20日(水)、今冬初の雪。竜王町(滋賀県蒲生郡竜王町)で開催された観光ボランティアガイドの交流研修会に行ってきた。
明日は大寒。なぜこんな時期に、理由は分らないが。案の定、まさに大寒を証明するかのごとく、県下ではこの冬一番の寒気が流れ込み、竜王町も10数センチの雪が積もっていた。
研修コースは3か所あったが’鏡の里’を訪ねた。当地は鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である源九郎義経誕生の地。平氏の追っ手の目を欺くために、当地で前髪を落飾し元服したと伝えられている。承安4(1174)年3月3日、義経16歳のときであった。
義経元服の池 鏡神社 (重要文化財)
元服のときにこの池の水を使った。 義経が源氏の再興と武運長久を祈願したと言われている。
義経元服の盥(たらい)
義経が元服のおりに使ったと言われている盥(たらい)の底板。義経が宿泊の旅籠・「白木屋」(現在石碑のみ)に代々伝わってきたもの。現在は鏡神社で保管されている。宮司より特別にご披露いただいた。
最後に、甘酒のサービスがありほっとしたが、寒い一日であった。