この碑の写真も昨年も含めてこれまで何度か紹介したことがありました。非常に親しい人を硫黄島戦で亡くした、折口信夫の歌碑です。折口信夫の歌人としての号は、釈迢空(しゃく ちょうくう)で、この碑には、 硫気噴く島 たたかひに 果てにしひとを かへせとぞ 我はよばむとす 大海にむきて 釋迢空 とあります。
鎮魂の丘を紹介している東京都のホームページによりますと、この歌碑の書は草野心平氏だそうです。 この歌碑の隣にもブーゲンビリアがきれいに咲いていました。
この歌に詠まれている、硫黄島に中尉として着任して戦没した折口(元の姓は藤井)春洋氏は、折口信夫の養嗣子だった人だそうです。
鎮魂の丘を紹介している東京都のホームページによりますと、この歌碑の書は草野心平氏だそうです。 この歌碑の隣にもブーゲンビリアがきれいに咲いていました。
この歌に詠まれている、硫黄島に中尉として着任して戦没した折口(元の姓は藤井)春洋氏は、折口信夫の養嗣子だった人だそうです。
硫黄島の鎮魂の丘のブーゲンビリアの花の写真の紹介を続けます。アップで撮った二枚の写真を投稿した後には、この写真を紹介します。これまでにも咲いていたのを見たことはあったと思いますが、今年は特に見事でした。
続けて、硫黄島の鎮魂の丘に咲いていたブーゲンビリアの花の写真の紹介です。
今年は、ブーゲンビリアの花びらが、この写真を撮った日の前の晩の、平和祈念会館での夕食のテーブルにも飾りとして登場しました。
夕食の準備の時に、戦前に硫黄島に生まれて在住していた大先輩の方で、いつも食事の準備のリードをして下さる人が、小笠原村議会のベテラン議員さん毎年続けて硫黄島訪問に同行して下さっている方に、「夕食の飾りで使うので、平和祈念公園の下の方に咲いているブーゲンビリアの花を摘んで持って来るように。」と依頼(というよりは命令)なさったそうです。私は、その時にその議員さんから、「平和祈念公園にブーゲンビリアがあるらしいが、どのあたりだか知っている?慰霊祭の時に見たりした?」と尋ねられたので、この話を知りました。その後、その議員さんは、私どもが一日目の午後の出身集落への里帰りの予定をこなしている間に、他に頼まれていた夕食用の青パパイヤなどといっしょに、注文されたブーゲンビリアの花も取って来て下さって、無事に夕食に間に合いました。
私は1日目の慰霊祭の時には硫黄島旧島民平和祈念墓地公園ではブーゲンビリアは見ませんでしたが、二日目には、この写真にある鎮魂の丘なできれいは花を見ることができました。
今年は、ブーゲンビリアの花びらが、この写真を撮った日の前の晩の、平和祈念会館での夕食のテーブルにも飾りとして登場しました。
夕食の準備の時に、戦前に硫黄島に生まれて在住していた大先輩の方で、いつも食事の準備のリードをして下さる人が、小笠原村議会のベテラン議員さん毎年続けて硫黄島訪問に同行して下さっている方に、「夕食の飾りで使うので、平和祈念公園の下の方に咲いているブーゲンビリアの花を摘んで持って来るように。」と依頼(というよりは命令)なさったそうです。私は、その時にその議員さんから、「平和祈念公園にブーゲンビリアがあるらしいが、どのあたりだか知っている?慰霊祭の時に見たりした?」と尋ねられたので、この話を知りました。その後、その議員さんは、私どもが一日目の午後の出身集落への里帰りの予定をこなしている間に、他に頼まれていた夕食用の青パパイヤなどといっしょに、注文されたブーゲンビリアの花も取って来て下さって、無事に夕食に間に合いました。
私は1日目の慰霊祭の時には硫黄島旧島民平和祈念墓地公園ではブーゲンビリアは見ませんでしたが、二日目には、この写真にある鎮魂の丘なできれいは花を見ることができました。
鎮魂の丘に咲いていたブーゲンビリアの花をアップで撮影してみた写真です。
今年は、父島でも硫黄島でも、例年になく多くの花々がきれいに咲き誇るのを見ることができました。ちょうど季節が良かったのだと思います。ブーゲンビリアもこれまでにも見ていましたが、今年は特にきれいで多く咲いているのを見ました。
今年は、父島でも硫黄島でも、例年になく多くの花々がきれいに咲き誇るのを見ることができました。ちょうど季節が良かったのだと思います。ブーゲンビリアもこれまでにも見ていましたが、今年は特にきれいで多く咲いているのを見ました。
今年の6月の硫黄島訪問で、二日目の班ごとに分かれての硫黄島島内めぐりで、釜場の次に行った鎮魂の丘の紹介に移ります。
この鎮魂の丘は東京都による建立で、ここ http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/chinkonnooka.html 東京都福祉保健局のホームページに紹介されています。
この場所の下には、粟津壕という壕があります。この場所は、自衛隊の施設がある、戦前の南集落の場所から南に下がったB29のプロペラ残骸がある場所や鹿島の施設の場所から、少し、西側に行ったあたりです。
花々がきれいに植えてもらっている場所です。水不足の時には元気がなくしおれてしまっていることもありますが、今年は、きれいに咲いていたハイビスカスの花の写真です。
この鎮魂の丘は東京都による建立で、ここ http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/seikatsu/senso/chinkonnooka.html 東京都福祉保健局のホームページに紹介されています。
この場所の下には、粟津壕という壕があります。この場所は、自衛隊の施設がある、戦前の南集落の場所から南に下がったB29のプロペラ残骸がある場所や鹿島の施設の場所から、少し、西側に行ったあたりです。
花々がきれいに植えてもらっている場所です。水不足の時には元気がなくしおれてしまっていることもありますが、今年は、きれいに咲いていたハイビスカスの花の写真です。
硫黄島には各所に大きくて見事ながじゅまるの木がありますが、釜場の辺りも、がじゅまるの木が多い場所です。
地上に多くの根を広げるのが、がじゅまるの木の特徴ですが、この写真のように、横方向にも多くの根を伸ばしています。
最初に硫黄島に行った時に、森の中で遭難をしかけたことがあったのですが、その時には、がじゅまるの根の上に枯葉や朽ちた小枝などが一面に重なっていて、普通の山の中の地面に見えたところを走りぬけようとしたところ、それががじゅまるの根の間で、落とし穴に落ちるように見事に地面まで落下しました。落下した下の本当の地面からがじゅまるの根までのは、私の身長以上の2メートルぐらいの高さがあって、よじのぼって這い出るのも一苦労でした。
地上に多くの根を広げるのが、がじゅまるの木の特徴ですが、この写真のように、横方向にも多くの根を伸ばしています。
最初に硫黄島に行った時に、森の中で遭難をしかけたことがあったのですが、その時には、がじゅまるの根の上に枯葉や朽ちた小枝などが一面に重なっていて、普通の山の中の地面に見えたところを走りぬけようとしたところ、それががじゅまるの根の間で、落とし穴に落ちるように見事に地面まで落下しました。落下した下の本当の地面からがじゅまるの根までのは、私の身長以上の2メートルぐらいの高さがあって、よじのぼって這い出るのも一苦労でした。
続けて、硫黄島の釜場の写真を紹介いたします。前回紹介の写真とは少し違う角度からのものです。米軍の上陸があってからは、日本の守備群は地下にはりめぐらされた壕に入ったはずで、どれぐらいの時までこの設備が使われていたのかは分かりません。地上での煮炊きができなくなっていたとしたら、壕での生活での食べ物の調理も非常に不便だったろうと思います。
この釜場は、必ず、見学するコースに入って、これまで漏れたことがないので、硫黄島に行った回数だけ、この場所に行ったことがあります。
航空機日帰り墓参であった時に4回、小笠原丸で今年で9回目ですので、この場所を訪れたのは13回目だと思います。
コンクリートの壁目の前に、この大きな鍋が4つほど置かれています。
この場所は屋根が覆っているわけではなくて雨ざらしです。この場所を何度も訪れているベテランの慰霊墓参の参加者の方から、「だんだんと大きな鉄鍋が、毎年、崩れていっていくように見える。」と、将来を心配する声がありました。
さびだらけで破損も見られる大きな鍋が傾いて置かれているのですが、そう言われると、姿がちがってきているようにも思われます。
前に撮った写真と比べてみると差が分かるかと思いますので、古い写真を探してみようと思いますし、これからは、先々のことを考えて、
今年の写真の確度も覚えておいて、毎年、各場所で1枚は同じ角度からの写真を撮るように心がける必要がありそうだと、いまさら、気づきました。
航空機日帰り墓参であった時に4回、小笠原丸で今年で9回目ですので、この場所を訪れたのは13回目だと思います。
コンクリートの壁目の前に、この大きな鍋が4つほど置かれています。
この場所は屋根が覆っているわけではなくて雨ざらしです。この場所を何度も訪れているベテランの慰霊墓参の参加者の方から、「だんだんと大きな鉄鍋が、毎年、崩れていっていくように見える。」と、将来を心配する声がありました。
さびだらけで破損も見られる大きな鍋が傾いて置かれているのですが、そう言われると、姿がちがってきているようにも思われます。
前に撮った写真と比べてみると差が分かるかと思いますので、古い写真を探してみようと思いますし、これからは、先々のことを考えて、
今年の写真の確度も覚えておいて、毎年、各場所で1枚は同じ角度からの写真を撮るように心がける必要がありそうだと、いまさら、気づきました。