OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(96) 摺鉢山の山頂にある特攻隊の碑

2013年10月20日 | 硫黄島・小笠原村
太平洋戦争での特攻隊出撃地としては知覧など鹿児島県が有名ですが、ここ硫黄島からも出撃していました。前にこのブログで、これと同じ碑や、出撃前夜会議室の跡の写真などを紹介したことがありました。
この写真は、摺鉢山の山頂にある 第一御楯特別攻撃隊 第二御楯特別攻撃隊 の碑です。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(95) 摺鉢山から米軍が上陸した海岸方向

2013年10月19日 | 硫黄島・小笠原村
少し前に南海岸(鶉石(うずらいし)がある海岸、米軍が上陸した海岸)からの摺鉢山の写真や南海岸の二ツ根岩の写真を紹介いたしましたが、この写真は摺鉢山山頂から手前の南海岸から奥側の硫黄島北部に至る島の南東側の海岸を撮ったものです。これが現在の海岸の広さですが、おそらくは戦前はこの写真の黒く見えるところはほとんどが海中だっただろうと思われます。
ここからよく見ると海岸に並行な等高線や年輪の様な紋状の線がいくつか走っているのが見えて、過去に何度かの大きな隆起があったことを示す線ではないかと思います。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(94) 摺鉢山からの後ろ側の噴火口

2013年10月18日 | 硫黄島・小笠原村
こらは摺鉢山の山頂から裏側(島内から見えない側=海側=南側)の、崩れてしまっている箇所を撮った写真です。一部、白い噴気が出ている箇所が見えますので、摺鉢山のこちら側の方が活発なようです。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(93) 摺鉢山山頂の慰霊の碑

2013年10月17日 | 硫黄島・小笠原村
今年の6月の硫黄島慰霊墓参の二日目の行程も終わりが近づき、鎮魂の丘から南海岸に寄って、いよいよ摺鉢山の山頂です。この写真の碑の「慰霊」は元首相の小泉純一郎氏によるものです。この碑の隣には、このブログの2010年4月1日に紹介した「硫黄島戦没者顕彰碑」があります。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(92) 南海岸近くのトーチカ

2013年10月16日 | 硫黄島・小笠原村
これは南海岸の近くにあるコンクリートでできたトーチカの跡です。摺鉢山の麓にある飛行機のトーチカ(飛行機の機体の胴体部分の金属を使って外側をコンクリートで固めたトーチカ)なども硫黄島には残っていて見ることができます。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(91) 南海岸の二ツ根岩

2013年10月15日 | 硫黄島・小笠原村
前回の写真にも小さく写っていた硫黄島の南海岸(世界でも珍しい鶉石(うずらいし)がある海岸で、硫黄島戦で米軍が上陸した海岸)の二ツ根岩が右の方に写っている写真です。
この「二ツ根岩」は、戦前硫黄島に住んでいたお世話になっている大先輩の方が教えて下さったのですが、私が「ふたつねいわ」と呼んだら、
「呼び方が違う。「二ツ根岩」と書いて、「ふたんねいわ」(正確には覚えていないので、間違っているかもしれません。次回お会いしたら、また正しく教えていただくことにします。)と読むんだ。」とのことでした。
この二ツ根岩ですが、以前には海から突き出て顔を出している岩でした。戦前はもちろんのこと、私が最初に硫黄島に行った頃にもまだ、下の部分は海中だったと思います。それが年々の隆起によって、今では完全に地上から生えた岩になっています。
この写真の正面の海中にも岩が見えますが、これもいずれ地上に顔を出すかもしれませんし、逆側の、小笠原丸停泊地の釜岩(戦前は沖合いの小島だったもおが今では陸続きになっている)の沖の監獄岩もいずれ陸続きになるのではとも言われることがあります。

私たちは、この後、暑い海岸にしゃがみこんで、必死で、鶉石(うずらいし)採集をしました。数はいくらでもあるのですが、大きくてきれいなものは、なかなか見つけにくくなってきています。

その短い時間に、何百メートルか離れている二ツ根岩まで行った人たちがいました。先日の会合でお会いした時に、その時の写真を見せてもらいましたが、その人が岩の真下に立った写真でしたので背の高さからおよその高さが分かる写真でしたが、8,9メートルほどありそうな、遠くからでは分からないほどの高さがある岩の写真でした。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(90) 南海岸近くからの摺鉢山(2)

2013年10月14日 | 硫黄島・小笠原村
前回に続けて、南海岸からの摺鉢山の写真です。前回の写真よりも倍率を下げていますので、写真の左側に、二ツ根岩が浜から立っているのが写っています。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(89) 南海岸近くからの摺鉢山(1)

2013年10月13日 | 硫黄島・小笠原村
この写真は、非常に珍しい鶉石(うずらいし)がある南海岸近くからの摺鉢山の写真です。
この南海岸は米軍が上陸をした海岸としても有名です。今でも狭い海岸ですが、戦後の隆起でかなり海岸の浜は広くなっているはずだと言われます。当時はもっと、狭い海岸に大勢の米軍が上陸しようと押し寄せた、その狭い場所を、日本軍の砲撃、火器が襲ったのですから、米軍兵たちもたまったものではない非常に激烈な戦闘による惨状であったろうと思います。米軍は犠牲者と負傷者の数に呆然としただろうと思います。執拗な艦砲射撃と航空機による爆撃で上陸前にかなりの日本軍の戦力は奪ったと思っていて上陸を開始したところ、日本軍はまだ沈黙をしていなかったのに驚いたということは、どの程度までであるにしろあったと思います。 ここに来るといつも、狙い撃ちされる米軍兵たちの恐怖はいかばかりだったかと、映画の画面(ジョンウェイン主演の硫黄島の映画や、場所は違いますが同じ上陸戦の場面がある「史上最大の作戦」など)が思い浮かべてしまいます。
日本兵にとっても表現できないほどの悲惨で苦しい戦闘でしたが、米軍にとっても厳しく激しい戦闘だったと思います。(このブログは戦争についての考えを紹介するという目的ではないので、このあたりまでにしておきます。)

この南海岸には寄って浜にまで降りていける時間を取ってもらえる回と、時間が取れずに寄れない回があります。昨年は、1日目のグループでの出身集落への里帰りで元山集落グループで硫黄ヶ丘に行った後に余った時間に寄ってもらいました。今年は二日目に皆で、鎮魂の丘から摺鉢山へ行く途中で寄ってもらうことができました。
正味15分ほど、鶉石(うずらいし)最終をすることができました。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(88) 鎮魂の丘の碑

2013年10月12日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島の鎮魂の丘の鎮魂の碑です。ここでも、参加者皆で顕花をします。後ろ側の遠くに摺鉢山が見えます。今年は水不足ではなかったですが、この時にはあまり碑のまわりの水はありませんでした。周りにハイビスカスやブーゲンビリアが咲いていて、きれいに整備されている場所です。
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2013年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(87) 鎮魂の丘のブーゲンビリア(4)

2013年10月11日 | 硫黄島・小笠原村
今年の6月に硫黄島の鎮魂の丘で撮ったもうブーゲンビリアの花の写真を最後にもう1枚、このアップで接写した写真を紹介いたします。
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