少しずつ北側を廻り終わって、島の西側の側面に出てきているところです。だんだん、昨日、紹介した写真から角度がかわってきているのを比べて見てもらえると思います。
この北硫黄島に、昭和19年の戦争激化による住民と疎開までは、100人ほどの人が住んでいたということなので、この日は、島の写真の撮影を続けながらも、一番の興味は、「どのあたりが住民が住んでいたのかを、しっかりと見て探そう。」という点でした。島に近づいて周回を始める前までは、「平らかなだらかなある程度の広さがあってそこが戦前に人が住んでいたところで、そこを囲むように山があるのだろう。」と思っていました。ところが、周回を始めてびっくり、「どこの平らなところがありそうには思えない。」島の形だったからです。
戦前、この島に、住んでいたことがある人が父島に住んでいて、その方が、この日も一緒に小笠原丸に乗っていました。その方は、前に硫黄島に行った時に、南海岸で鶉石を取るのを手伝ってくれたこともありましたし、顔見知りの方です。その方に聞けば、どのあたりが住んでいた場所なのかを教えてもらえると思ったのですが、北硫黄島周回中はひっぱりだこだったのか、周回を終わる時間ぐらいまで、見つけることはできませんでした。
この北硫黄島に、昭和19年の戦争激化による住民と疎開までは、100人ほどの人が住んでいたということなので、この日は、島の写真の撮影を続けながらも、一番の興味は、「どのあたりが住民が住んでいたのかを、しっかりと見て探そう。」という点でした。島に近づいて周回を始める前までは、「平らかなだらかなある程度の広さがあってそこが戦前に人が住んでいたところで、そこを囲むように山があるのだろう。」と思っていました。ところが、周回を始めてびっくり、「どこの平らなところがありそうには思えない。」島の形だったからです。
戦前、この島に、住んでいたことがある人が父島に住んでいて、その方が、この日も一緒に小笠原丸に乗っていました。その方は、前に硫黄島に行った時に、南海岸で鶉石を取るのを手伝ってくれたこともありましたし、顔見知りの方です。その方に聞けば、どのあたりが住んでいた場所なのかを教えてもらえると思ったのですが、北硫黄島周回中はひっぱりだこだったのか、周回を終わる時間ぐらいまで、見つけることはできませんでした。