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坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講談社 その1-2

2017年06月03日 | 戦後秘史・日本占領期

                  坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講談社

 

坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講談社 1-2

 

坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講談社

 

 

▲坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講談社

2009年の著作 講談社の『現代』誌 に連載の上、まとめたもの。調査ジャーナリストによる、再検証と、参考文献が豊富。

今日は第2章のピックアップ

 菅生事件はなぜか、国警(国家地方警察大分県本部)の警備課の不自然な動きを察知した大手新聞社の宮崎支局の取材強化から、警察署詰めの記者たちが警察の動きを逐次報告していたのだ。あるいは、警察がプロパガンダ・故意に情報を漏洩させたとも言えるのだが。

事件の起こる菅生村に、警察どころか各新聞社まで、ぞろぞろと深夜待機していたのだから摩訶不思議。

それぞれが位置についたところで、そこで、

「ドカーン」

翌朝の毎日新聞はスクープ記事をものした。

「竹田」発毎日新聞

「(6月)2日午前零時、国警大分県本部警備課桑原警部、井野竹田地区署長指揮の武装警官隊五十余名は豪雨をついて。かねて共産党の山村工作および日共産軍指導による爆薬武器集積地区と見られる熊本との県境、大分県直入郡菅生村を極秘裏に包囲、武器、弾薬の集積所と見られる同村菅生、同村小学校教頭菅久寿氏(38)ほか四カ所と同郡都野、下竹田、柏原三村のシンパ三ヶ所計八ヶ所を家宅捜索、ダイナマイト24本、雷管18本、導火線約20メートル、タバコ型爆弾10個、火炎びん1本、日本刀二振を押収、爆発物取締令違反容疑で菅久寿実弟無職菅忠愛(21)らを逮捕した。」

「警官隊が包囲中警戒中、日共工作隊員同村田代後藤秀生(25)、住所不定坂本久夫(24)の両名が同村駐在所を襲い、爆弾を投入、物すごい音響とともに家屋の一部を破壊して逃走しようとしたが、両名とも現行犯で逮捕した、人命には異常はなかった。」 (※ 名前、年齢、間違いは訂正してあります)

(毎日新聞 1952年6月2日夕刊)

坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講 談社 47-48頁

先に、毎日新聞記者が警察署に出入りしているうち、6月2日に共産党からみの事件が起こることを漏らされ、毎日新聞記者が菅生の事件の起こる現場付近で待機し、それ故の大特ダネだったというから、なんとも凄い事件だったのだ。

「小雨の中に息づまる4時間 県境の日共拠点急襲」

「寝間着で飛び出す村民 ごう然!静寂を破る爆発音」

「私は見た!投弾の瞬間 闇にきらめく閃光 消えては点けたマッチ」

「死ぬ気で頑張った 神に祈る大戸巡査の妻」

「私は爆弾が投げ込まれるのを知っていた」と家を壊されながら奇跡的に微傷も負わなかった菅生村巡査派出所勤務大戸三郎巡査(28)の妻みち子さん(23)は妊娠六ヶ月の身重で「死を待つ苦痛」を語る。」

「派出所が襲われることを主人から聞いた時はただぼう然ととなりました。しかし逃げたり騒いだりすると犯人に察知され、折角皆さんが一生懸命になっているのに申し訳ないと思い主人と一緒に死ぬ気でがん張っていました。主人はすぐ飛び出せるようにくつをはいたまま、裏口にがん張り、私だけ奥の四畳半に万一を願ってふとんをかぶり待機しましたが、この時ほど死をとした職業の美しさにうたれたことはありません。耳がやぶれるようにガンと響いた時は目の目が真っ暗に感じられ、主人が犯人を追跡するのを感じ、うまく捕らえるようにと祈っていまた。 

(坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講 談社 49-50頁)

 

この毎日新聞の記事について、著者の坂上遼はこの章をこう結んでいる。

「あらかじめ駐在所が爆破されることが分かっていたという巡査の妻の証言は、この事件の特異性を如実に物語っていた。」 (坂上遼 『消えた警官 ドキュメント菅生事件』 2009 講 談社 51頁)

この菅生村の駐在所巡査妻のおしゃべりの可笑しさも見事だが、特ダネを貰っているつもりの毎日記者の文章も可笑しいね。

巡査の妻が「この時ほど死を賭した職業の美しさにうたれたことはありません」

と、自作自演の陰謀を 礼賛しろ!、感動しろ!と強要する始末である。なんたる茶番、三文芝居なのだ!

戦後占領期、民主的出発をしたはずの大手新聞は、地方版とはいえ、どこで何が起きるか警察に教えてもらい、深夜張り込んで、こんなおかしな記事を書いて特ダネしたつもりでいたのである。

その種のきな臭い事件を、何度となく経験した者はこの記事を読んで、すぐに

「陰謀工作事件」 がまた炸裂したな とつぶやいたに違いない。

 

 つづく

 

 

 

下にある菅生事件を担当した弁護士の著作もそれぞれが担当した分野に力点があるので、坂上遼の『消えた警官 ドキュメント菅生事件』を読んでこの事件に関心が深まった人は以下の3冊をどうぞ。

▲清源敏孝 『消えた警察官』 1957年 現代社

菅生事件の主任弁護士の著作

 

 ▲諫山 博 『駐在所爆破 犯人は現職警官だった』 1978年 新日本出版社

諫山 博は菅生事件の副主任弁護士

 

 

▲正木ひろし 『正木ひろし著作集 Ⅲ』 三里塚事件 菅生事件 丸正事件

正木ひろしは、菅生事件の弁護に後から加わったのだが、駐在所爆破現場の資料を採集し、これを、東京大学工学部に調査鑑定を依頼した。その結果ダイナマイトが、どの位置で爆破をおこしたか、科学的に推定可能であることが明らかとなって、駐在所の内部、それも椅子の上で爆発が起きたことが分かった。

その結果、菅生事件の後藤被告がビール瓶にダイナマイトを仕込んだ爆弾を外から駐在所に投げ込んだのではないことが判明したのだ。

                                     

▲ 『正木ひろし著作集 Ⅲ』 より

警察の調べでは、後藤が、駐在所に爆弾を投げ入れたとし、その前に門灯を仲間の坂本が、電球を外して駐在所を暗くしてから事に及んだことになっている。事件のどさくさで、坂本は否定しているが上着には、警察の取り調べで電球がポケットに入っていたというのだ。

しかし、後日、現場検証したところ、背の低い坂本は背伸びしても、電球に届かず、門灯を消してから、後藤が爆破に及んだというシナリオはあっけなく崩壊する。(上の写真左の現場検証写真参照)

日本独立後、さる筋の指導のないぶっつけ本番の陰謀工作だったため、とんだ田舎芝居を国民に暴露してしまったのだが。もう55年も昔の話なので、また日本共産党は、まだ指導方針をめぐり分裂状態であったこともあり、「山村工作隊」が動いていた時期の歴史を、共産党も記述を避けている気配もある。

それ故、国家による準備周到な陰謀工作の痕跡が明白であるのに、戦後謀略の歴史の記憶が教訓として生かされていないきらいがあると思う。若い左派系労働者に聞いてみても無反応なことが多い。

もっとも、私も、20代までは、下山・三鷹・松川事件・メーデー事件くらいしか、分かっていなかつたわけだし、その知っていた内容も、松本清張の『日本の黒い霧』の受け売りを拝借した怪しいものだった。灯台もと暗しだったのだが。

 

 

正木ひろしの菅生事件に関わる著作には上の著作集のほかに下の本がある。

 ▲正木ひろし 『エン罪の内幕』 三省堂

 

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また、菅生事件・駐在所爆発事件のあった深夜、菅生村から忽然と姿を消していた市木春秋(本名は戸高公徳・現職警察官)が東京に潜伏していたことを突き止めたのは、共同通信社の調査チームだった。

この調査チームの一員だった斉藤茂男記者も、自分の著作集で、市木春秋の潜伏先の発見までの調査記事を残している。斉藤茂男は、下山事件の研究者としても大きな足跡を残した。私は、斉藤茂男のこの本から、菅生事件が国家ぐるみの徹底した陰謀工作であったことを教えられた。斉藤茂男は亡くなっているが、彼の調査ジャーナリストの熱情や収集した資料・情報メモは、諸永祐司の『葬られた夏 追跡下山事件』に活かされている。

  

▲斉藤茂男  『夢追い人よ』 築地書館 

 

▲『戦後政治裁判史録』② 1980年 第一法規

この本の209頁~220頁に、菅生事件の簡潔な裁判記録がある。

タイトルは『菅生事件・・・・現職警官の工作・・・』

1952年6月2日に菅生事件が起きるが、この年の3月頃から、市木春秋こと戸高公徳は共産党シンパとして菅生村に潜入する。

菅生駐在所が爆破され、共産党オルガナイザー後藤秀生が現行犯逮捕された時、菅生村には、深夜50人もの警官が待機していて、九州・大分県の県警が事前に情報を収集して準備万端であった。

また当夜菅生村から行方をくらました現職警官は長期にわたり、一時警察大学校にまで避難し匿われていた時期もあった。この間、市木春秋こと戸高公徳に生活費は払われていたので、県より上位のレベルすなわち国家レベルの工作関与が明白な事件であった。

講和条約発効によるアメリカの占領統治が終わったちょうどそのとき、

1952年4月28日

在日米軍パーセル大佐声明 「久住高原、米軍演習地接収したい」

これが、「菅生事件」 の見えない司令塔の見え透いた構造なのだった。

1952年サンフランシスコ講和条約発効で、日本は独立に沸きかえったのだが、吉田茂が講和条約交渉の裏で、日米地位協定・安保関係の交渉中味で指示されたとおり、名目独立後は日米合同委員会が山王ホテルで会議開催され、宗主国からの指示を仰ぐ状態が継続している。

1952年4月28日は。戦後日本の出発点であるどころか、戦後体制・占領統治は終わっていないことを記念すべき日として象徴的に告げたのが、

米軍パーセル大佐声明 「久住高原、米軍演習地として接収したい」 なのである。

戦争に敗北するとは、このこと、永遠に敗北することなのである。

日本がかつて、台湾や、朝鮮や、満州など旧植民地でおこなってきた統治を思い出すだけで分かるではないか、国民の言語を奪い、文化を奪い、人間の権利を奪い、反抗するものは生命も奪ってきた。

戦争による占領統治とはすでにルソーが数世紀も前に喝破していたように、

相手先 「国家の根幹のすべてに打撃を与えること」 なのだ。

日本国民は知ってか知らぬかまるでその自覚がないかのように占領統治のままの現代をやりすごす。覚醒することには耐え難いのか・・・・・

 

続報

正木ひろしの『著作集Ⅲ『を読んでいたら、この著作集の月報のようなしおりに、同じ菅生事件の弁護士仲間の諫山博の書いた文章が掲載してあった。

菅生事件における、正木ひろし弁護士の果たした重要な役割について回想している。短いが要を得て菅生事件の核心に迫っていると思われるので掲載しておく。

ここ ▼

 ▲『正木ひろし著作集Ⅲ』 1883年 三省堂 付録 より

この付録で、菅生事件の弁護士仲間であった諫山博は

「真犯人は駐在所内部に爆発物を仕掛けた警察官であることを、科学の名において認定しました。

「戦後、わが国の裁判所では、いくたの警察の謀略がばくろされ、被告が無罪になっています。だが権力側が真犯人であったことを、菅生事件ぐらい明確に示したものはありませんでした。」

と記している。

この菅生事件が追い風となったのか、事件のあった6月2日から2ヶ月も経たない間に、国会審議のあと、

7月21日に「破壊活動防止法」が施行され、また「公安調査庁」が発足するのだ。

戦後占領時代は、米軍こそが法であり、オペレーションであったのだが、

1952年4月28日をもって、日本は独立を達成した、それも「日米合同委員会」という、魔法の回転ドア付きで。


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                      ・

いまや、現代日本の内閣府の内部全体が犯罪者集団の避難所になっている。

内閣が五回も飛ぶような重大疑惑が続々と発覚しても、警察・検察は全く動く気配もない。

『国家自身による共謀罪』で逮捕されべきなのは、内閣・司法・議会与党・メディアというお粗末。

国家を私物化し、さらにその上、宗主国に国家を丸投げ献上している政府に縄をつけること。

アメリカ憲法には、ちゃんと方法が書いてある。

「悪い政府は打倒することができる」

 

 

つづく



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