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黒井文太郎編集 『謀略の昭和裏面史』 2006年 宝島社 1-2

2016年08月03日 | 戦後秘史・日本占領期

           ▲黒井文太郎編集 『謀略の昭和裏面史』 2006年 宝島社 1-2

 

黒井文太郎編集 『謀略の昭和裏面史』 で紹介していた 松本清張『日本の黒い霧』に関連して 

秦郁彦 『昭和史の謎を追う』 1993年文藝春秋 のち文庫1999年 第35章 

再考「日本の黒い霧・・・・松川事件の真犯人は?」(下)のこと

 

8月1日にこのブログで黒井文太郎編集 『謀略の昭和裏面史』 2006年 宝島社 を紹介したのだが、その中で、黒田文太郎がその本で書いているのだが、秦郁彦が、『昭和史の謎を追う』1993年 文芸春秋 で、松本清張の『日本の黒い霧』を論評する章で、松川事件に中島辰次郎が関わったという証言、松川事件現場には、到着できないとして、松川事件関与否定する見解を述べていると書いていた。

それで、秦郁彦の『昭和史の謎を追う』を探し出して、松川事件に触れた該当部分を読んでみた。

今日は、この中島辰次郎の松川事件関与説の話題について触れる。

私は、退職後しばらくの間書棚の本の整理をしていたのだが、その後例年8月になると、戦後占領期の怪事件下山・三鷹・松川事件など、未解決の事件を解明する糸口がないか、すでに新著の刊行はないものの、これらの事件に触れた本を読み返したり、流布されている解釈などを、括弧にいれて、事件解明の基本事項が何なのか、再考することを夏の課題としていた。

今年もまた、暑い夏がやってきた。

私は、秦郁彦の本は、右派系の日本近現代史研究者の印象が強く、彼の論説を掲載する産経新聞の『正論』や、文藝春秋の『諸君』(今は廃刊)などは、古代史の特集でも組まない限り読んだことも買い求めたこともなかったのである。

今後も秦郁彦の著作に心酔して乱読することはないだろうが、中島辰次郎や、畠山清行についても触れているらしい松川事件についての論は、松本清張の史観に対する彼の思考の形や、思想のありかたものぞかせているだろうと思われる。この章は読んで見よう。

 

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 ▲ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う』 上・下 文春文庫1999年 文藝春秋 初版は1993年上下巻刊行

 

 

松川事件を扱っているのは、下巻に収録されている第35章 (もと『正論』 1991年四月号掲載)

▲秦郁彦 『昭和史の謎を追う』 文春文庫1999年 下巻

 ▲ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う』  下巻 目次 1

 ▼ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う』 下巻 目次 2

▲ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う』 下巻 目次 2

 

 

 

それでは、秦郁彦が『昭和史の謎を追う』で記している松川事件に関する重要点を考えるため、彼の著書から該当部分をスキャナーで読み取って掲げておく。

 

▼ ① キャノン機関の概要を説明している部分、および、事件の無関与説を展開している部分

 

 

▲ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』 (346~347頁)

秦は、上に記しているように、キャノン機関員であった延禎の著書『キャノン機関からの証言』1973年、番町書房と、元キャノン機関員のベイリー・佐伯と1984年に会って聞いたことをもとに書いている。

しかしよく考えてみよう。

日本での陰謀工作を担当したと疑われていたキャノン機関の重要な地位の延禎が、本当のことを書くだろうか?

それもこの著書『キャノン機関からの証言』は、先に畠山清行の『キャノン機関』という著書が刊行されて、キャノン機関の工作情報が漏れ、それに対する米国の情報組織からの反論として意図されたものである。これが、日本の『週刊文春』に掲載されたのは不思議なのだが、秦は、そのことにおかまいもなく、米国にいるキャノン機関員からの情報だけで、陰謀工作機関説を否定している。鶏小屋の鶏がいないのを、鶏小屋の前にいたイタチに、「小屋の中に鶏がいないのはなぜと」、話しを聞くようなものではないだろうか。

秦郁彦は、巻末に、章ごとの参考文献を掲げて、さらに、昭和時代の研究案内を促しているのだが、畠山清行の『キャノン機関』 1971年、徳間書店を参考文献に掲げていない。さらに、畠山清行のライフワークとも言える『陸軍中野学校』シリーズを参考文献として、『昭和史の謎を追う』では一冊も掲げていない。植民地を持っていた帝国各国は皆、情報機関も、陰謀工作機関も持っているというのは、インテリジェンス分野の史料収集の重要性と専門性を身につけていた秦郁彦が知らないはずはない。

この本は、一般向けの雑誌『正論』に連載され、もともと学術的体裁を持ってはいないが、立論もそうだが、一般向けの参考文献にも、ある種の意図的な配慮が見えるのである。

この秦郁彦の『昭和史の謎を追う』は文庫にもなり、多くの読者を得ているようだが、この章の立論の元になった

延禎 『キャノン機関からの証言』 1973年 番町書房 と

畠山清行 『キャノン機関』 1971年 徳間書店

畠山清行 『何も知らなかった日本人』1976年 青春出版社 のち祥伝社文庫 2007年などと

比較検討が必要と思われる

 

② 中島辰次郎の説明では、松川事件現場にたどりつけないと秦郁彦が説明した箇所

 

 ▲ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う』 下 文春文庫版 1999年 (345頁)

上の記述を一通り読むと納得してしまいそうだが、通常運行表と、特別な工作活動に伴う運行表とは、直接関係がない。福島・松川事件でも、庭坂事件でも、愛媛・予讃線事件でも、ダイヤは変更されたり、直前列車運行停止も確認されている。上の説明だけでは、中島辰次郎が、松川事件の現場に到着できなかった十全な説明にはならないのではないだろうか。

すでに、中島辰次郎は、戦時中の日高機関が、日本敗戦後には、中国大陸内で、米軍指揮下に入り、日高機関員が、他の米軍傘下のグループとともに、毛沢東暗殺の計画を中島が立てたと言っているのだから、その後台湾経由で、日本に到着する前に、一足先に戻っていた、日高大佐以下が、キャノン傘下の組織に入っていたというのは、当時のめまぐるしく動く組織の人材登用状況から見て、決して荒唐無稽ではないのではないだろうか。

なお上の引用文の文頭のとは、松本清張のことである。

また、秦郁彦は、松川事件の日、付近の大槻呉服店の破蔵を試みた平間・村上らについても触れている。土蔵破りに失敗した後、松川事件現場を通りかかり、背の高い9人の男たちに出会い、後日松川裁判の法廷にたち、背の低かった赤間被告以下が無実であることの弁護の訴えをしたのだ。

このことに対し、秦郁彦は

「もっとも、証人の二人は犯行を目撃したわけではなく、経歴上からもあまり信用できる人物とは思われず、時流に合わせて適当な目撃談を作り上げた疑いもないわけではない。」

などと、言っている。

平間・村上の両人は、松川事件の証人台に立てば、当日大槻呉服店の蔵破りの自分たちの犯罪行為も証言せざるを得ず、両人にとって、証言しない生き方の方が、楽だったはずである。しかし無実を訴える世論の圧倒的な運動に、彼ら二人は、目覚めはじめ、無実の人々が死刑の判決がされることに納得できず、背の低い赤間らは、事件現場付近で会った人物とは違うと証言したのである。

秦郁彦は、背の高い9人の男に出会ったと言う二人の証言も隠蔽したい雰囲気なのである。

同じく、松川事件現場付近にいた人物たちを目撃した斉藤金作の死についても、秦郁彦は「全面否定する材料もないまま、今ではほとんど無視されているが、」と記している。

斉藤金作の件を無視しているのは、秦郁彦の方であり、それを世論として誘導してはならないはずではないか。

 

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以上、秦郁彦のこの二つの部分の記述からは、中島が松川事件の現場に到着できない理由、また、キャノン機関が、陰謀工作に関わった工作機関ではないという証明にはほど遠いのではないだろうか。

中島辰次郎は、キャノン機関に在籍していた、ツチダ、ミツタという日系米国軍人の名を、松川事件の参加者として、記者会見に立ち会った畠山清行に詳しく語っている。畠山は、中島への取材を何度も試み、テープ録音も相当に残していたはずであるが、畠山も死去し未公開となってしまったのはまことに残念なことである。

中島辰次郎がなにも松川事件に関係ないのなら、なぜ、自ら人生の終わりに近い年齢のとき、家族・子息もいる環境で、自分を犯罪者に貶める不利な証言を記者会見までして訴える必要があるのだろうか。

中島辰次郎は、自著『馬賊一代』のあとがきで、二度毒薬を盛られたことがあると記し、そのうちの1回がCIAからの離脱を決意させたと書いている。

「昭和37年末の寒い日に、当時の南ベトナム大統領ゴ・ジンジェム暗殺命令に真っ向から反対した私に与えられた賞与でもあった。」

と、記しているのだ。これが伏線となって、沈黙させられる前に、やられる前に記者会見をして、松川事件の心からの供養をしたかったのかも知れない。と思うこともできるのでは・・・・・・・・

言うことを聞かなくなった張作霖を関東軍が爆死させたように、戦後冷戦下の力の政治は、1962年冬、まだ、ケネディが大統領で存命中だったはずだが、(ケネディが命を下したかどうかは全く不明であるが) 米国配下の日本機関員に命令を発し、中島は真っ向から拒否したと記していた。

これが、事実なら、恐るべき告白なのだが、中島の著書のあとがきで、触れているのみ。

なお、このブログでは、松本正喜著『そこにCIAがいる 元機関員が告白する謀略と実態』1971年、太田書房という本を紹介したことがある。下の中島辰次郎関連のブログ案内から、クリック一つでアクセスできるので参照されたい。

▲松本正喜著『そこにCIAがいる 元機関員が告白する謀略と実態』1971年、太田書房

そこでは、鹿地亘事件でキャノン機関の工作が国民に知れ渡ることになり、国会でも野党議員から取り上げられ、審議されたこと、隠蔽のためキャノン鹿地亘事件に関わった機関員を米国に送り返す際、親交のあった、松本正喜に、光田二世は、松川事件の事を鬱憤晴らしのように話をしていったのである。松本正喜『そこにCIAがいる 元機関員が告白する謀略と実態』1971年、太田書房(81頁~84頁)に記載されている。そこには、キャノン機関の有力な片腕だったビクター・松井という名も重要な役割を果たした男として登場している。

秦郁彦の『昭和史の謎を追う』 下巻 第35章を読む際には、ぜひとも、

秦郁彦が引用している

延禎 『キャノン機関からの証言』 1973年 番町書房 と

 ▲ 延禎 『キャノン機関からの証言』 1973年 番町書房

 

秦郁彦が、なぜか紹介せず、参考文献からはずしている下記の本を探し出して読んでもらいたい。

畠山清行 『キャノン機関』 1971年 徳間書店

 

▲ 畠山清行 『何も知らなかった日本人』1976年、青春出版社 のち祥伝社文庫 2007年

     ▲ 吉原公一郎 『松川事件の真犯人』 1962年 三一書房 のち祥伝社文庫 2007年


私は、秦郁彦の『昭和史の謎を追う』 下巻 にある、松本清張について論評を加えた第34章、第35章 を読んだだけなのだが、故鬼塚英昭言うところの「田布施マフィア」のプロパガンダ要員・歴史家であると確信できた。

文庫カバーにある著者紹介には、秦郁彦は、東京大学法学部を卒業後、ハーバート大学、コロンビア大学留学、防衛研究所教官・・・プリンストン大学客員教授・・・拓殖大学教授・千葉大学教授を経て、現在は日本大学教授(1999年 文庫版カバー)・・・・と記されている。きら星のような略歴で圧倒しているようだが・・・・・

 

アメリカ中枢の名門大学で、外交史や、米国政治史をしっかり学んで帰日すると、なぜか判で押したようにどうして、親米・臣従の宣伝要員になって帰ってくる人が多いのだろうか。ますます、「田布施システム」のことが気になり始めたのである。ある種の選民思想が、文化遺伝してしまうのだろうか?

キャノン機関、および日本独立後、CIAの日本組織下部要員に所属していた中島辰次郎や、太田正喜が、自らの人生の終わりにあたり、脱出を決意し、身の危険も侵しながら記したことは、なぜ、秦郁彦のような思考回路を持つ人間には届かないのだろうか。

太田正喜はその著書『そこにCIAがいる 元機関員が告白する謀略と実態』1971年、太田書房

のあとがきで記す。

「警察や保健所は、一刻も早く私(太田正喜)を精神病に仕立てようと懸命である。・・・・少なくとも自分の半生の二十二年間やってきたことを悔い改め、、ごく当たり前の人間として生きたいと願った。・・・・

 ・・・・諜報活動がいかに人権を無視して行われているかを具体的に知ってほしい。現にその活動は局員や手先によって日本で白昼堂々おこなわれている。・・・・・・・・・」

また、中島辰次郎の著書『馬賊一代 下 謀略流転記』 1976年 の奥付の著者略歴の破天荒・無茶苦茶な人生遍歴の謎に秦の思考回路で解けるのだろうか。


 ▲ 『馬賊一代 下 謀略流転記』 1976年 の奥付の著者略歴

 

 

 つづく

 

 

 



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