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▲ 『眞相』 1949年 10月号 NO.34 人民社 当時定価50円
三鷹事件をめぐる本1-3ー1
三鷹事件を取材していた当時の雑誌『眞相』、小冊子・パンフレット、占領期の労働運動などの本
三鷹事件をめぐる本1-3ー1
「眞相」とくると、思い出すのが、岡留さんが出していた『噂の眞相』。 1970年代の終わり頃創刊し、2004年に休刊になってからでも、既に12年以上も経っている。今や『噂の眞相』の記憶もない人が当たり前なのだ。
さらにさかのぼって、連合軍の占領時代までいくと、タブーおかまいなしの、権力批判にやたらと元気を集中し、名誉毀損で、一次休刊にまで追い詰められながら、本家『眞相』は、真相に迫っていた。
初代『眞相』誌は、『噂の眞相と同じく、ゴシップ記事も多いのだが、金と権力に対する臭覚と、その攻撃には、時の政府中枢も相当に気になっていたに違いない。占領時代に、醜聞と記者の取材情報は、マスメディアが、占領軍とその支配に臣従していた政府に意のままに使用されていたことを思うと、『眞相』誌が、ぎりぎりの挑戦をしていたのは疑いない。
岡留さんが、敬意を表し、『眞相』の文字を雑誌名の一部にあえて使っていたことが伺える。
学問の香り高い研究者の書く本には、『眞相』誌は、なぜかほとんど登場してこないが、ジャーナリスト的心情を持ち合わせている、現代史家が書いた戦後占領期・昭和30年代半ばまでの戦後史・事件史には、以外と頻繁に登場している。
1980年代に、『眞相』誌は、戦後混乱期・占領期の資料的価値が高まり、三一書房から復刻されているのだが、『眞相』誌は今でも、古書店には、少しだが、時折古書店に出てくる。
三鷹事件について書かれた、前回・前々回で紹介した本の中では、小松良郎 『新訂 三鷹事件』、片島紀男『三鷹事件 1949年夏に何が起きたか』 、梁田政方『三鷹事件の真実にせまる』の3冊が、『眞相』の記者が取材した、三鷹事件直後に失踪したXという人物の不審死について言及している。
▲『眞相』1949年9月号 NO.33
▼ 『眞相』1949年9月号 目次
三鷹事件に関する記事は、「下山・三鷹事件の楽屋裏」の後半部分、12~13頁に記事がある。
事件直後の記事なので、まだ、三鷹事件直後に失踪した人物の記事は出ていないが、事件直前に、民同の牙城八王子管理部から「三鷹電車区の共産党グループにストに入れの指令が出た」という怪情報がでたことを伝えている。
▼『眞相』1949年9月号 「真夏の夜の惨事 三鷹無人電車暴走事件」 の記事
▲ ▼ 『眞相』1949年9月号 「真夏の夜の惨事 三鷹無人電車暴走事件」 の記事
▲ 『眞相』1949年9月号 「真夏の夜の惨事 三鷹無人電車暴走事件」 の記事 (12~13頁)
三鷹事件直後に、「民自党斉藤都議の配下が数十名、早くも赤い腕章をまいて、巡査と一緒に非常線に立ち、民主団体、労組からかけつけたものは中へ入れず、共産党がやったと怒鳴り回っていた。さすがの新聞記者連中もあまりにも手際のよい、この国警の動きに驚嘆したという。」
▼ 『眞相』 1949年10月号 「三鷹事件の真犯人を解く」
▲ 『眞相』 1949年10月号 「三鷹事件の真犯人を解く」 (7~13頁)
▼ 『眞相』 1949年10月号 目次
▲ 『眞相』 1949年10月号 目次
『眞相』誌は、はやくも、この10月号で、三鷹電車区の、民同系の運転士だったXが三鷹事件直後失踪、7月30日夕刻相模湖で死者となって発見されたという記事を、やや詳しく掲載している。
三鷹電車区にかつていたことのある民同系の運転士の突然の失踪と死を、なんら追求調査することなく、大手マスメディアは、一体何をしていたのか。当時占領下のこととはいえ、『眞相』誌が、わずかのスタッフで、記事をものしているのに、どうしたことだろう。
先日亡くなった、むのたけじが、「マスコミは、とっくにくたばっている」 というのは、この、戦争直後のメディアの惨状をみても肯けるのである。
三鷹事件直後失踪した、Xの死を最初に発見したのは、一体誰だったのか?
『眞相』 1949年10月号には、そのことに触れてはいなかったのだが、それは、1955年の『眞相』 2月号にあった。
つづく