野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

継体王権と磐井の乱  いくつかのシンポジウム記録集のこと 

2012年11月30日 | 稲荷山鉄剣・倭の五王・継体・文献
倭の五王の時代の古墳や、稲荷山鉄剣の問題を探索しているうち、また別な疑問がわいてくる。継体以後の王墓が再び、記紀などの古代史料では大和へ戻ることが記されている。これに対し、考古学的にも今しばらく、6世紀末までは王墓が前方後円墳である時代が続く。磐井の乱以後に、王権の機構の整備や王権を支える有力メンバーの変化が現れるのか気になるところである。意識的にはこの時期の史料収集はしてこなかったのだが、前方後円墳の終焉前の前段として、継体・欽明王権のことも視野にいれよう。いくつか、シンポジウムの記録集を読んでいたはずだった。整理しながら、今後の読書計画を練ろう。 . . . 本文を読む

倭の五王の時代の文献抄録 その2 1973年以降

2012年11月23日 | 稲荷山鉄剣・倭の五王・継体・文献
倭の五王の時代の文献抄録 その2は 1973年の笠井倭人『研究史倭の五王』1973、吉川弘文館以降の文献。 詳細は、日韓歴史共同研究委員会第一分科会報告 石井正敏作成の「倭の五王」研究文献目録2005を参照していただきたい。10頁以上の目録なので、今後とも私が入手することはないと思われる文献は省き選択した。また、最初掲載された論文が、のち論文集などに収録され入手したものなどについては、気がついた限りそのことに触れている。目的は、網羅的な資料作成ではなく、五世紀の王墓・王権、巨大古墳などの解明のため前提となる基礎について、自分なりにまとめるため備忘録として作成するもの。またできるだけ、経済的に資料収集したいので、大学リポジトリなどに無料ダウンロードできる論文があれば、発見時に資料追加し、更新予定。 . . . 本文を読む

倭の五王の時代の文献抄録 その1 1945年以降1972年まで

2012年11月22日 | 稲荷山鉄剣・倭の五王・継体・文献
『日本書紀』の編纂の頃、日本にはかなりの「漢籍」が将来されていて、中国の「正史」も、そこにはあったはず。森博達の『日本書紀の謎を解く』1999中公新書を読むと、執筆者には漢文のつくりかたからみて、中国人・中国の音韻使用者もいると見ている。そうなると、日本書紀の作成にあたり、倭の五王のことを記述した中国正史を参照する機会はあったことになる。ではなぜ、百済などの古文献はかなり利用しているのに、倭王の続柄や系譜が記された「宋書」などを、日本書紀に活用されなかったのだろうか。謎は深まる。ある意味では、宋書には倭王の続柄を含む記述があることは知っていたし読んでいた。しかし正史日本書紀には採用しなかった。「一説には」という注記すら記載できなかった意味というものがあるのかも知れない。だから「倭の五王」に関するわが国最初の批評は、隠蔽という意味も含めて『日本書紀』であったと考えることもできるのではないか。今回は笠井倭人著の『研究史倭の五王』1973年吉川弘文館刊行までの手に入りやすい、戦後の倭の五王関係の1972年までの文献史中心のリスト。1980年以降は、考古学関連の王墓に関わるものが、激増するので、それを読み解くとなると、1972年までは、このあたりにとどめておく。もっと詳細な倭の五王関連の戦後の文献目録が欲しい方は、坂元義種『古代東アジアの日本と朝鮮』1978年吉川弘文館に引用参考文献表があるほか、『論集日本歴史1大和王権』原島礼二編1973年有精堂、鈴木靖民『増補古代国家史研究の歩み』1983年新人物往来社に多くの文献が載っている。少し古い年代のものまでであるが、『論集日本文化の起源』全5巻1961~1984年平凡社も巻末に文献表があった。笠井倭人著の『研究史倭の五王』1973年吉川弘文館刊行以降の倭の五王関係の文献目録は財団法人日韓文化交流基金により作られた日韓歴史共同研究委員会の成果報告書第1期2005年に石井正敏作成のきわめて詳細な研究文献目録が掲載されている。ぜひどうぞ。ただ石井正敏の文献表には私にはこれからも手に入れられないような高価な論文集に含まれているものも掲載されているので、それらを省いた、一般者に比較的入手しやすい1973年以降の文献抄録は、倭の五王の時代についての文献抄録その2として近いうちにUP予定。 . . . 本文を読む

松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 下』 謀略流転記を読む その1

2012年11月18日 | 戦後秘史・日本占領期
『何も知らなかった日本人』の著者畠山清行は戦後史の調査でキャノン機関にいた韓道峰と、あるきっかけで情報交換する仲となり、その関係から中島辰次郎とも知り合いとなった。死後公開するという条件で十数巻にも及ぶ中島へのインタビューをとっていたのだが、畠山の説得で、中島は生前に発表することとなり、1970年夏に、記者会見をおこなった。「私は行く先を告げられず松川事件に関係させられた」「しばらく隔離させられ新聞・報道からも遠ざけられていたので、私が関係したのが松川事件だったことを数年後に知った」『アサヒ芸能』がスクープ記事を掲載した。この発表は、全国紙三紙には完全無視され、国民にほとんど知られることはなかった。その夏第63回国会、法務委員会で青柳委員がほんのすこしこのことに触れただけであった。中島の証言は、畠山の『何も知らなかった日本人』に証言として掲載されている。中島は、佐世保に引き揚げ船で、着くとすぐにあるところへ連れていかれるのである。そこはどこ、彼はなにをしたのか(させられたのか)!中島の記述と畠山に語った十数本の録音内容とのずれのこと、あるいは畠山と中島の二人で、記者会見発表前に記憶検証のため訪れた松川事件現場での中島の証言のこと。数少ない貴重な記録を読もう。 . . . 本文を読む

『松川事件の犯人を追って』 大野達三著 1991 新日本出版社 付箋チェック

2012年11月17日 | 戦後秘史・日本占領期
下山事件をめぐって書かれた平成三部作のもとになる、週刊朝日の記事「下山事件ー50年の真相」連載の頃、1999年頃のことだが、1949年の占領下の「下山・三鷹・松川事件」関連の本を古本屋の店頭で見つけては買い求めていた時期があった。事件から50年がたち、多くの同時代の証言者がいなくなった。さらに事件後60年の2009年には、まだ少し新しい発見があるかと思っていたが、2009年には、佐藤一の旧作の再刊などがあるだけだった。もうこれ以上新しい証言は出そうにないようだ。それでは以前に読んで、付箋を貼っていた関連著作の事項をもう一度読み直すとしよう。まだ何か発見できるはず。 大野達三の『松川事件の犯人を追って』1991は、事件当時現地に飛んで調査取材しその後の裁判闘争も踏まえて書いたもので、なかなか他の著作にはない事実に触れている。特に松川事件は、長い裁判闘争になり、占領下の時期から、独立後にも裁判が及び、占領下では黙していた人々、あるいは黙さざるを得なかった人たちが、胸の奥底に溜まっていたものを語り出していた時期である。私が付箋を貼っていたある証言とは? . . . 本文を読む