いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

みんなの党が500人擁立するというが・・・「みんな」の党には根源的な疑問がある。

2011年01月29日 23時43分43秒 | 日記

 みんなの党が、次期衆院選に500人の候補者を立
てたいという。

  しかし、「みんな」の党には、根源的な疑問を感じる。
  「みんな」とは何か。
  「みんな」というのは成立しないのではないか。

  高校2年生のとき、生徒会に立候補した。学園紛争
の波を受け、制服の自由化、廃止が大きな問題になって
いた。その状況で、制服を担当する風紀委員長に立候補
した。ふつう、風紀委員長というと規律を担当するから、
制服を守る立場になる。しかし、当時の流れの中では、
風紀委員長は制服の自由化を担当する役割になった。
立候補にあたり、公約を作って大きな模造紙に書い
て掲示板に張り出してくれということになった。
公約かあ。
何を書こうか。
正直、その時点では、まだ、制服の自由化に向けて
の展望がなかった。
一緒に選挙運動をする仲間から、公約を早く決めよ
うといわれ、よし、それなら・・・ということで、その
場で決めたのが、
「みんなで考える会」を作ります
というものだった。

とにかくいま最大の問題は制服の自由化だ。
それを、学校のみんなで考えよう。
そういう会を作ります。

とまあ、そういう趣旨だった。

選挙運動をしながら考えた。
「みんなで考える会を作る」というのは、風紀委員
長に立候補した本人が、明確な方針を持っていないとい
うことだ。
自分自身が、明確な方針を持っていれば、「みんなで
考える会」を作ろうと言ったりせず、
「私はこう考えます」
「私はこうしたい」
「私はこうします」
という公約にしたはずだ。

「みんなで」「みんなの」というのは、そういうこと
だ。「みんなの」というのは、リーダーとして、絶対にこ
うしたいという強い意志を持っていないということだ。

もちろん、「みんな」を大事にするのは、当たり前だ
し、大切なことだ。そんなことは言うまでもない。
しかし、あえて誤解を恐れずに書くが、何か、事を
起こそう、事を成そうというときに、必要なのは、どう
してもそれをしたいという本人あるいはリーダーの意志
ではないのか。
そういうときに「みんなの」「みんなで」と言ってい
たら、結局、何もできないで終わるのではないか。

「みんなの党」には、その意味で、根源的な疑問が
ある。
みんなの党が、10人ぐらいの党である間はいい。
しかし、20人、30人となって、なお「みんなの党」
と言い続けるのか。

方針が何もないとき、強い意志がないとき、そうい
うときに「みんなで」というのは、便利な言葉であり、
それは一種の逃げだ。

スポーツは話が違う。
サッカーでアジア杯に出場するとき、みんなの意志
はもう誰の指示を受ける必要もなく、「勝つこと」だ。
「みんな」の目指すべき道は、たったひとつだ。
だから、「みんな」はひとつに団結できる。

しかし、政治、政党は、スポーツではない。
本来なら、考え方を同じくする者同士が作るのが政
党である。

「みんなの党」というのは、ありえない。
「みんな」というのは、明確な方針がないからつけ
た名称だとしか思えない。

「みんな」としておけば、政治的信条や考えの違う
人も、入ることができる。彼らも「みんな」だから。
10人ぐらいなら、それもよかろう。
しかし、せいぜい、そこまでだろう。
それ以上の人数になると、意見の違いが出てきて、
分列が始まる。
「みんな」という名前をつけた瞬間から、実は、せ
いぜいミニ政党にとどまるということが確定してしま
ったのではないか。

500人の立候補という意欲は買う。
しかし、「みんな」とした時点で、みずから限界を定
めてしまったのだ。







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