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●恐れていたことが
私ばかりではなく、多くの人に共通していえることがあります。
それは、潜在意識のなかに存在している、「恐れ」です。
例えば、家族にしても、社員にしても遠方へ出かけるとすると
「気をつけて行ってらっしゃい」という言葉が自然に出てきます。
当たり前といえばそれまでなのですが、では、「何に気をつけて」と言っているのでしょうか。
交通事故やその他の事故に巻き込まれないようにとか、健康を害さないようにとかが、一般的にその「何に」該当しているように思います。
つまり、悪いことが起きないように、という思いが「気をつけて行ってらっしゃい」という言葉を発している根本にあるのです。
逆にいえば、いつも「何か悪いことが起きるかも知れない」という、得体の知れない恐怖という存在を、潜在的な意識下に内在しているということなんです。
これが、人の弱さの源泉であるし、無茶な考えや行動を抑制する働きでもあると考えられます。
したがって、一概に悪いものととらえてしまうのは問題があるかもしれません。
しかし、人生を希望に満ちた有意義なものにしようと考えるのであれば、このようなネガティブな潜在意識は持ちたくはないですね。
では、これをどう扱ったらよいのでしょうか?
私は、信仰者ですから、このような場合は祈りによってこれを沈めようとします。
旧約聖書に「ヨブ記」というのがあります。
このブログでも紹介したことがありますが、要約すると、ヨブと言う、資産家で裕福な家庭に、ある日突然悲劇が襲います。
それは、多くの羊を奪われたばかりではなく、愛する子どもたちをも殺されるというものでした。
聖書を読んでいる読者には、この悲劇のいきさつがすべて明かされています。
それは、天で行なわれた会議から始まっているのです。
会議では、サタンが神に対し、神がヨブを必要以上に祝福しているから、ヨブは神を信じ、むくな信仰者でいる。
だから、ヨブが悲劇にみまわれれば神を呪うに違いない。
と主張しました。
これに対し、神は、「ではヨブを好きなようにするがよい、ただし、命だけは奪ってはならない。」とサタンに言われたのです。
それが、ヨブを襲った悲劇の実態なのですが、地上に生きるヨブはそのようなことは一切知りません。
その後さらにヨブに悲劇が襲います。
それは、同じようにサタンが、人間の生命が脅かされれば人は必ず神を呪う。ということを主張したところから始まりました。
今度は、ヨブの全身に吹き出物ができて、その苦しみのあまりヨブは全身をかきむしるような事態に追い込まれたのです。
しかし、ヨブは神を呪うようなことはしませんでした。
死んだ方が楽になれる。というヨブの妻に対して、こういったのです。
「おまえまでが何を馬鹿な女のようなことを言うのか、神より恵みをいただいたのだから、苦しみもいただこうではないか」といって信仰を捨てませんでした。
このあと、神と人間、人間の罪とその報い、に関して、見舞いに来た友人達とヨブとの間で論争が繰り広げられ、最後には神みずからがヨブに現れ、ヨブを慰めるのではなく、人間の神を理解する信仰の不足を明らかにしていきます。
しかし、ヨブにはその後失った財産を2倍にして祝福され、子供達も授けられたのです。
さて、この有名な「ヨブ記」を引用したのは、悲劇にあったヨブが語った、次の言葉を明らかにしたかったからです。
それは、「恐れていたことが、起こった」とヨブが、こころの中で語ったひとことです。
神学的に、これをどう解釈するかは、ここでは書きません。
あくまでも私の個人的な感じ方を、書いてみたいと思います。
悲劇が自分に降りかかることを臨んでいる人は、おそらく一人もいないでしょう。
しかし、どんなに些細であっても、悲しみや苦しみをともなう悲劇は、必ず起こります。
そして、多くの人は、「好事魔多し」という言葉を知っているように、よいことが永遠とは続かない。
むしろ、今が恵まれすぎていて、何か悪いことでも起きてしまうことを「恐れ」ているのです。
この「恐れ」は、いったいどこから来るのでしょうか。
自分の心をよく見つめてみると、なぜ恐れるのかわからないのです。
確かに、突然襲ってくる(実際には起きていない)不慮の悲劇的な事柄が襲ってきたとき、それにすぐに対処できる、「心がまえ」を持っていたい。
それを、乗り越えていきたい。
という想いはあります。
しかし、それが本質とは思えないのです。
確かに備えは必要かもしれませんが、起きてもいない悲劇に備える生き方なんて信じられません。
もっと、違う何かが働いているようです。
それが、ヨブがいだいていた、「恐れていたこと」と同じものかどうか分かりませんが、本質的に人がいだく「恐れ」といえるかもしれません。
この頃思うところは、この恐れを沈めるよりは、祈りによって抜け出てしまう。
突き抜ける、という感触を持ちたいと思うようになりました。
思いがけないこと、いやなこと、悪いことは人間には起きうる。
それは、起こるのである。
だから、そういうことで心を煩わせない。
そういう生き方をしたいと思うのです。
◆今日の祈り
全能なる御父天の神様、あなたの豊かな恵みと祝福にこころから感謝申し上げます。
主の御前にあって愚かで弱く、罪深い私ですがどうかお許しくださいますように。
主の御恵みは、この愚かなしもべに溢れるほどに注がれています。
それは、主がこころから絞りだすような、祈りには答えてくださるという真実を持って知ることができます。
今しもべを激しく苦しめるものがあります。
納税の督促、社会保険等の諸費用の納付の督促は、激しくしもべの心を痛めつけます。
もとより、これらはしもべの経営能力の不足に端を発したものであり、誰それを責めるべき性質のものではありません。
納付を迫る彼らは、仕事に忠実なのです。
しかし、しもべには現在のところ、彼らの望むだけの納付をする力がありません。
どうか主よ、この愚かなしもべを助けてください。
あなたの御心がなりますように。
この祈りと願いとを、尊き御子主イエス・キリストの御名前を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン
私ばかりではなく、多くの人に共通していえることがあります。
それは、潜在意識のなかに存在している、「恐れ」です。
例えば、家族にしても、社員にしても遠方へ出かけるとすると
「気をつけて行ってらっしゃい」という言葉が自然に出てきます。
当たり前といえばそれまでなのですが、では、「何に気をつけて」と言っているのでしょうか。
交通事故やその他の事故に巻き込まれないようにとか、健康を害さないようにとかが、一般的にその「何に」該当しているように思います。
つまり、悪いことが起きないように、という思いが「気をつけて行ってらっしゃい」という言葉を発している根本にあるのです。
逆にいえば、いつも「何か悪いことが起きるかも知れない」という、得体の知れない恐怖という存在を、潜在的な意識下に内在しているということなんです。
これが、人の弱さの源泉であるし、無茶な考えや行動を抑制する働きでもあると考えられます。
したがって、一概に悪いものととらえてしまうのは問題があるかもしれません。
しかし、人生を希望に満ちた有意義なものにしようと考えるのであれば、このようなネガティブな潜在意識は持ちたくはないですね。
では、これをどう扱ったらよいのでしょうか?
私は、信仰者ですから、このような場合は祈りによってこれを沈めようとします。
旧約聖書に「ヨブ記」というのがあります。
このブログでも紹介したことがありますが、要約すると、ヨブと言う、資産家で裕福な家庭に、ある日突然悲劇が襲います。
それは、多くの羊を奪われたばかりではなく、愛する子どもたちをも殺されるというものでした。
聖書を読んでいる読者には、この悲劇のいきさつがすべて明かされています。
それは、天で行なわれた会議から始まっているのです。
会議では、サタンが神に対し、神がヨブを必要以上に祝福しているから、ヨブは神を信じ、むくな信仰者でいる。
だから、ヨブが悲劇にみまわれれば神を呪うに違いない。
と主張しました。
これに対し、神は、「ではヨブを好きなようにするがよい、ただし、命だけは奪ってはならない。」とサタンに言われたのです。
それが、ヨブを襲った悲劇の実態なのですが、地上に生きるヨブはそのようなことは一切知りません。
その後さらにヨブに悲劇が襲います。
それは、同じようにサタンが、人間の生命が脅かされれば人は必ず神を呪う。ということを主張したところから始まりました。
今度は、ヨブの全身に吹き出物ができて、その苦しみのあまりヨブは全身をかきむしるような事態に追い込まれたのです。
しかし、ヨブは神を呪うようなことはしませんでした。
死んだ方が楽になれる。というヨブの妻に対して、こういったのです。
「おまえまでが何を馬鹿な女のようなことを言うのか、神より恵みをいただいたのだから、苦しみもいただこうではないか」といって信仰を捨てませんでした。
このあと、神と人間、人間の罪とその報い、に関して、見舞いに来た友人達とヨブとの間で論争が繰り広げられ、最後には神みずからがヨブに現れ、ヨブを慰めるのではなく、人間の神を理解する信仰の不足を明らかにしていきます。
しかし、ヨブにはその後失った財産を2倍にして祝福され、子供達も授けられたのです。
さて、この有名な「ヨブ記」を引用したのは、悲劇にあったヨブが語った、次の言葉を明らかにしたかったからです。
それは、「恐れていたことが、起こった」とヨブが、こころの中で語ったひとことです。
神学的に、これをどう解釈するかは、ここでは書きません。
あくまでも私の個人的な感じ方を、書いてみたいと思います。
悲劇が自分に降りかかることを臨んでいる人は、おそらく一人もいないでしょう。
しかし、どんなに些細であっても、悲しみや苦しみをともなう悲劇は、必ず起こります。
そして、多くの人は、「好事魔多し」という言葉を知っているように、よいことが永遠とは続かない。
むしろ、今が恵まれすぎていて、何か悪いことでも起きてしまうことを「恐れ」ているのです。
この「恐れ」は、いったいどこから来るのでしょうか。
自分の心をよく見つめてみると、なぜ恐れるのかわからないのです。
確かに、突然襲ってくる(実際には起きていない)不慮の悲劇的な事柄が襲ってきたとき、それにすぐに対処できる、「心がまえ」を持っていたい。
それを、乗り越えていきたい。
という想いはあります。
しかし、それが本質とは思えないのです。
確かに備えは必要かもしれませんが、起きてもいない悲劇に備える生き方なんて信じられません。
もっと、違う何かが働いているようです。
それが、ヨブがいだいていた、「恐れていたこと」と同じものかどうか分かりませんが、本質的に人がいだく「恐れ」といえるかもしれません。
この頃思うところは、この恐れを沈めるよりは、祈りによって抜け出てしまう。
突き抜ける、という感触を持ちたいと思うようになりました。
思いがけないこと、いやなこと、悪いことは人間には起きうる。
それは、起こるのである。
だから、そういうことで心を煩わせない。
そういう生き方をしたいと思うのです。
◆今日の祈り
全能なる御父天の神様、あなたの豊かな恵みと祝福にこころから感謝申し上げます。
主の御前にあって愚かで弱く、罪深い私ですがどうかお許しくださいますように。
主の御恵みは、この愚かなしもべに溢れるほどに注がれています。
それは、主がこころから絞りだすような、祈りには答えてくださるという真実を持って知ることができます。
今しもべを激しく苦しめるものがあります。
納税の督促、社会保険等の諸費用の納付の督促は、激しくしもべの心を痛めつけます。
もとより、これらはしもべの経営能力の不足に端を発したものであり、誰それを責めるべき性質のものではありません。
納付を迫る彼らは、仕事に忠実なのです。
しかし、しもべには現在のところ、彼らの望むだけの納付をする力がありません。
どうか主よ、この愚かなしもべを助けてください。
あなたの御心がなりますように。
この祈りと願いとを、尊き御子主イエス・キリストの御名前を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン