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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 89 滝川一益の反撃

2022年12月10日 17時37分02秒 | 貧乏太閤記
 12月、北陸路の雪だよりを聞くと秀吉が動き出した
信孝がいつまでも三法師を信雄に渡さぬことを理由に、西から秀吉、尾張から信雄が合計7万という大軍を美濃に向けた。
信孝の支城を次々と落とした、そして旗を明確にしていなかった森長可、その舅の池田恒興、美濃の大物、稲葉も秀吉方についた
こうなると包囲された信孝は降参するしかなかった、抵抗戦をすることなく母親をはじめ家族を人質にして開城した。
信雄は人質と三法師の奪回がなったことで岐阜城は接収せず、信孝をそのまま
住まわせた。
こうした戦は、ほぼ秀吉の采配で行われ、信雄を「お屋形様」と祭り上げていても、それが飾り物に近いことは生き抜くことに全知を働かせている武将たちには良くわかる。
信雄の「お屋形様」は信長の時のそれとはまったく重みが違った、秀吉も徳川家康も絶対逆らえない威厳と恐怖心を信長は持っていた。
それが信孝、信雄には全く感じられない
こうなると長男信忠が信長と共に討ち死にしたのが織田家にとっては痛かった
もし信忠が、叔父の織田長益同様に京から逃げ出していれば、その後の動きは違った展開になっていたはずだ。
信忠は2月に、武田勝頼を滅ぼす遠征軍の総大将として信濃から甲斐に攻め込み、見事に勝頼を討ち取り、武田家を滅ぼした。
それには信長は参戦しておらず、信長は光秀を従えて、信忠の後を物見遊山の体でのんびり追っていただけだった。
 信長は10万の大軍を率いて立派に采配を振る信忠の成長に満足した、その2年くらい前から信忠には自分の代理の総大将として本願寺攻め、播磨、丹波攻めなど各地の戦場に派遣している、その都度、間違いなく成果を上げた
諸将も信忠が信長の後継者であることに同意していた、信長亡き後でも、信忠が号令すれば秀吉も柴田も否応なく従ったと思われる
それほど信忠には気迫がみなぎっていた、信雄や信孝には無い長男としての責任感とプライドを持っていた。
織田家の力は本能寺の変以後衰えていくが、信忠の死がそれを許したのであった、信孝、信雄をはじめ織田一門にとってはそれが不幸であった。
本能寺以後も信長の兄弟、従弟、子は数多いたのであるが戦人として何とか名を残したものは信雄と信孝と信包くらいで、それも秀吉や家康の前では子ども扱いであった。

 秀吉の中に、自分が織田信長に代わって織田旧臣を束ねるという意識が芽生えたのはいつであろうか?
小説などでは高松城水攻めの最中に、信長死すの報が入り、泣きわめいて絶望した秀吉を、黒田官兵衛が「泣いている時ではありませぬぞ、天下が殿のもとに転がり込んでくるかもしれませぬ、急いで毛利と和睦して大坂へむかうべし!」と言ったとか。
まさか、あの瞬間に天下取りなど考えるゆとりはないと思う、ではいつだろうか?

 さて、穏やかでないのは伊勢の滝川一益であった、30万石近い領地が逃避行のさ中に織田信雄に接収されて、かってに国人らに分配されてしまったのだ
織田信孝と柴田勝家に泣きついて一部を返されたが15万石にも足りない。
そして秀吉が岐阜の信孝を攻めて降参させたと聞くと、次は信孝の同盟者である「自分が信雄に攻められるのでは」という危機感を持った。
滝川も信長が存命中には秀吉、明智、柴田、佐久間と並ぶ信長自慢の5大軍団長の一人だった男だ、このくらいの困難に負けるような男ではなかった
北伊勢の自分の城を拠点にして、かっての家臣団や土豪、そして雑賀、伊賀の者たちと連携して周囲の織田信雄方の城を次々と落とした。

「おのれ一益め」信雄は怒った、
「情けをかけて主要な城を返してやったものを、それを拠点にして儂の城を奪うとは許せん!」
しかも長島からは清州も近い、ほおっておけば滝川のことだから何をやりだすかわからない、尾張の兵を長島に出した
しかし滝川と信雄では采配が違う、兵数は少ないが滝川は用兵の妙を駆使して逆に信雄方を破って、ますます勢いに乗って来た。
困った信雄は秀吉に泣きついた
(さすがは滝川じゃ、信雄殿の手に追えるような相手ではないようじゃ、だが感心ばかりしてもおられぬ、もし伊勢全土を奪えば2万の兵を持つことになる、そうなれば志摩、鳥羽の九鬼ら水軍が滝川につくことになる恐れが出てくる、これはすぐに手を打たねばなるまい)
秀吉は滝川攻めの準備に入った、こうなると信孝を許したことが悔やまれる
柴田勝家と信孝と滝川の連合軍が同時に三方から近江と尾張に攻め込めば面倒なことになる
2月になると準備が整った秀吉は、自ら3万を率いて桑名城を目指した
尾張(愛知県)の信雄には岐阜城の信孝を牽制させながら長島方面の防備を固めさせた
一方、近江甲賀方面からは、蒲生氏郷を大将にして堀久太郎など近江の与力をつけて峠越えで進軍させて亀山城を攻撃させた。
しかし滝川は予想以上に手強かった、2月半ばになっても滝川の支配の城は一つも落とすことができない
「案外、秀吉も大したことがないわ、これなら北条の方がよっぽど手強い」
滝川は笑った、そして「今のうちだ、岐阜と越前に遣いを出して同時に立ち上がるよう要請しろ」

 滝川からは「儂が伊勢で秀吉軍を引き付けているうちに、柴田殿には北近江から打って出てもらいたい、秀吉が慌てたところを岐阜から信孝殿に横やりを入れてもらって近江、伊勢、伊賀、大和、山城まで一斉に押し出そうではないか」
という要請である、柴田勝家は考えた
「たしかに秀吉のやることはこづらら憎いことばかりじゃ、だがここで儂と秀吉が戦となれば毛利に利を食われはせぬか、徳川殿とて信長様が亡き後、今までのような忠誠を信雄や信孝様に示すであろうか、ここは冷静になって織田家の将来も考えねばならぬ」
そこで秀吉と仲が良いという前田利家ら、もとの府中三人衆を秀吉のもとに送り、秀吉の戦意と内心を探る様に使者として送った
もちろん万一に備えて軍備の点検も始めたが勝家には「織田家を支える」という大番頭のような気持ちしかない、信雄らに取って代わろうという野心はない、なにより妻に向かえた市が悲しむようなことはしたくない
だからこそ織田家の存続を願う気持ちは誰より強い、前田らを使いに出したのは油断ならぬ秀吉の真の心を知りたいがためである
もし織田家の上に行こうという野心が見えたら「これは打ち滅ぼさねばならぬ」と思っている





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