この時、すでに甲州勢は越後勢に槍を入れて火花を散らして打って懸かる
越後勢、新発田尾張守が甲州勢に横槍を入れれば、小山田、横田勢は崩れ去る
柿崎和泉守は飫冨勢に打ち入れば、武田方の討死は増えるばかりであった
これを見た甲州勢の二陣の備え、どっと越後勢に向けて走り出るところ、飫冨、小山田より凡そ五十騎が遮って、軽々と味方を備えに戻した
まことに見事な引き際であれば、越後勢殿の長尾政景も甲州勢の振る舞いを見て、軍を止めて静々と引き上げる。
話を少しばかり戻す
小山田左衛門尉は、板垣弥冶郎の軍と桔梗が原に於いて陣を敷いたが、法福寺の合戦で敗れた小笠原勢引き上げの時、これを挟み撃ちにして滅ぼす千載一遇の機会とみて板垣に出陣を促したが、板垣は病と称して軍を動かさなかった。
小山田は仕方なく一手に小笠原勢を討たんとしたが、原加賀守、島田外記の監察使に阻まれて、せっかくの機会を逃してしまい悔しがった
この度、晴信は法福寺の合戦で手柄を立てた諸士を褒め、桔梗が原での諸軍の怠慢を怒り𠮟責した
そして小笠原勢をみすみす逃した小山田、板垣及び、監察使の島田、原をしばし謹慎させておき、金丸筑前守、春日源五郎、飫冨源四郎に命じて諏訪上下の町人百姓十人ばかりと塩尻峠番手の長坂左衛門尉の同心、二三騎を召し連れて
桔梗が原筋を任された小山田、板垣ならびに原、島田の監察使を召されて、両将の動向を尋ねた。
次に小山田左衛門尉を召し出して、金丸、飫冨、春日の三人が尋ねて怠慢を責めると、小山田が申すには「桔梗が原にて、敗れて逃げる小笠原を一挙に滅ぼさんと板垣陣に申し伝えたところ、支度中と称して七日まで出陣しなかった、追々、催促したところ今度は病と称して出陣しないので、我ら一手にて小笠原に攻めかからんとしたところを、原加賀守、島田外記が堅く制して出陣を許さなかった、改めて出陣願を強いたけれども『某ら、後日死刑になっても出陣は許せぬ』と言い張るので仕方なく取りやめたのでござる、九月十八日に下諏訪に参着して、その後彼の地にてむなしく日々を過し、ようやく当月になって塩尻まで出張ったところに、御大将海野平にご出陣ましまし、長尾と対陣の事を真田弾正忠からの飛脚で知ったところに、飫冨兵部少輔より下諏訪まで引き退けとの君の命を伝え聞いて引き取ったのである」と詳しく述べた
小山田が申したことは、すでに聞き取った飫冨、金丸、春日の三人が調べ歩いたこと、島田、原の口上、町人百姓が申したことと少しも違わないので、小山田の怠慢は無かったと判明して、郡内に帰陣を仰せつけられて甲州へ発った。
ここに板垣弥治郎の逆心の事、ほのかに晴信の耳にも入っていたが、父、板垣駿河守信方の忠義を思い、あえて罰することはせず、そのままにしておいた。