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半島国家と島国国家の政権

2018年09月15日 21時41分48秒 | 日本史

日本人は大和朝廷、京へ遷都、鎌倉時代、、秀吉の大坂政治、江戸時代、いかなる場所で、いかなる者が

政治を行っていても、この国は日本(倭)であり、住民は日本人(倭人)で2000年続いてきた

 

中国も4000年間、大陸の中原は国名が唐、宋、明、中国と代わっても、住民は漢が政権を取って以来

ずっと漢民族である

 

だが半島国家は小さいけれど、統一した国名も統一した民族名も不明で何と書いて良いかよくわからない

韓民族というが、朝鮮民族という名もある、韓は半島の三国時代以前に馬韓、辰韓、弁韓の三韓という

のが半島の南縁にあった

そして日本に統合された1910年以前に大韓帝国が少ない年数存在した、だがそれ以外で韓という国名

民族は聞かない

韓は韓国語で「ハン」と読む、これは恨「ハン」に通じ、朝鮮人の心の根には「恨」が潜んでいると言う人も居る

日本の国民音楽「演歌」は、語りから始まった楽曲と言うが、青江三奈、森進一に代表されるように夜が似合う

男女の甘いムード歌謡「艶歌」、その逆の人生の底辺を語る「怨歌」は「恨」に似ている。

 

 

朝鮮とか朝鮮人というのが一般的でもっともわかりやすいが、朝鮮とは1392年に高麗の将軍、イ.ソンゲが

高麗王家を皆殺しにして滅ぼした易姓革命で作った国家で、その国名は大陸の宗主国「明」に選んでもらったのだ

という。 朝鮮、朝鮮人というのはここが起源だから、それ以前には半島には朝鮮も朝鮮人も存在しなかった

今は半島の北半分は朝鮮で(北朝鮮とは韓国を南朝鮮と区別する時の便宜上の言い方)

南半分は韓国になっている(韓国では朝鮮を朝鮮と言わず北韓と呼ぶ、朝鮮という言い方は嫌いとのこと)

国際的にはコリアと呼び、サウスコリア、ノースコリアとなっている

先のピョンチャン冬期オリンピックでも半島全図の統一旗をかかげチーム名(国名)も統一コリアだったと思う

コリアは高麗の英語読みだと思う。 この半島に相応しい統一表記があるとすれば高麗、高麗人が一番

良いのかもしれない。 半島人には高麗の原型、高句麗がもっとも華々しくもっとも大きな国家の時代だった

高句麗は大陸の隋が滅ぶほど勇戦し、唐とも互角に渡り合っていた強国であった。

 

 

それぞれの政権の流れ

日本  天皇による直接政治-藤原氏の摂関政治-天皇及び院政-源氏~北条氏の鎌倉幕府政治

-後醍醐帝の短期帝政ー足利氏の室町幕府政治-戦国乱世-豊臣氏による政治-徳川幕府

ー明治維新王政復古ー東亜.太平洋戦争敗戦.アメリカ主導の民主主義政治のはじまり

 

朝鮮半島  古代朝鮮-新羅.高句麗.百済の三国時代ー新羅ー高麗ー朝鮮ー日本併合時代

ー日本敗戦で独立ー朝鮮戦争の結果、朝鮮と韓国の二国時代

 

日本人の起源は北方、朝鮮半島、南方から渡ってきた様々な民族の混じりが長い年月の間に原日本人と

なって、やがて南からやってきた倭によって淘汰され、新日本人(大和民族)となったのではないだろうか

そして畿内に天皇を中心とした朝廷を構えて政治が始まった

 

半島では南に原半島人の三韓民族、南東部に新羅、南西部に百済、北半分に高句麗が有り、三韓は

新羅に統一される

三国はそれぞれに王が居て、王政国家であるが、高句麗は今の北朝鮮に旧満州を加えた、広大な国家であった

民族も、おそらく純粋な半島人では無く、半島人種や満州族、北方の遊牧民、漢民族、あるいは西方のアジア系、

海岸部の民族、沿海州方面の民族など多彩な集合体あるいは混血だったのでは無いだろうか。

やがて、漢民族の唐の支援を受けた新羅が、百済、高句麗を滅ぼして半島の統一国家を完成させたが

満州から遼東半島は唐に帰属して、現在の北朝鮮南部と韓国を合わせた程度の国家になった。

新羅金王朝の誕生、新羅の歴史は長いが、統一新羅は約250年続いて高麗王、王権に譲位する

新羅が統一国家となった頃、滅びた高句麗の一族大祚榮が、唐と新羅の間で支配者が定まらず混沌としていた

旧高句麗の地を次第に奪って「渤海国」を建国した、その領土は、今の北朝鮮北部~ロシアの沿海州に広がる

広大なものだった

新羅と唐は対立もあったが、主に友好的で有り、渤海と対立していたので、危機感を感じた渤海は倭国(日本)に

使者を送って友好を求めた、倭国もこれに答えて友好関係を結んだ

百済がまだ健在で新羅と戦っているときも倭国は友好国の百済を応援して援軍を送っていた

一方で倭国は唐にも遣唐使を送って友好を維持していた

このように7世紀~10世紀は、半島と倭国は大陸も含めた大きな土壌の中で、戦争や友好による深い繋がりを持っていた

 

日本は12世紀の終盤まで天皇中心の朝廷政治が行われていたが、平清盛が後白河天皇に取り立てられてから、

武家の地位が一気に上昇して、1192年には貴族化した平氏を滅ぼして源氏(源頼朝)が鎌倉に幕府を開き、実質的な

政権運営を始めた

武家政治の始まりである、朝廷貴族政治、あるいは帝政から遥かに身分卑しき者だった武家に政権が移ったのは驚くべき革命

といえよう。

 

半島では9世紀の末になると新羅の貴族政治は乱れ、弱体化した。地方で2つの強力な勢力ができた、それぞれが後百済、

後高句麗を名乗って新羅の領土を侵略した、特に南部でできた後百済は直接的に新羅を攻撃して、ついに新羅の都を攻撃した。

一方、後高句麗では専制的な指導者クンエを部下の王権(ワンゴン)が討って、後高句麗の指導者となった

風前の灯火の新羅王は、ワンゴンに政権を委譲して新羅救援を要請した。 ワンゴンは要請に応えて、後百済のスンホン軍を

撃退した

その後は後高句麗と後百済は一進一退の戦闘を繰り返していたが、後百済の王スンホンは、息子の反乱で別腹の

息子たちを殺され自らも命の危険にさらされた。 なんとスンホンが選んだ道は仇敵だったワンゴンに救いを求めたのだった

ワンゴンは快く応じ、スンホンの案内で簡単に反乱軍を壊滅させた。 スンホンはワンゴンの後高句麗の半島統一を認めた

ワンゴンも親の年齢のスンホンを手厚くむかえて生涯の面倒を見た。

こうしてワンゴン(王権)は高麗王国を宣言して、新羅に代わる統一王朝を完成させた、936年の事である。日本では次々と

天皇に娘を妃として送り込む権力者藤原氏による摂関政治の真っ只中であった。

 

この頃、半島の北の満州付近では渤海が遼に滅ぼされ、遼は金に滅ぼされ、金はモンゴル族の元に滅ぼされた

元は大元国と名乗って、その騎馬軍団を南方に進めて、唐のあとにできた中華大陸の宋を攻めて滅ぼした

同時に半島の高麗にも攻め寄せて数十万を虐殺し、王族をはじめ数十万の民を捕らえて元へ送った

高麗の王子を元風に洗脳して高麗に送り返して王位を継承させた、王名も元風のものに変えさせて隷属させて

支配した。

これは元がヨーロッパまで攻め込んで人類史上最大の領土を得たのち分裂して、弱体化するまで続いた

1274年、1281年の二回、元は高麗軍や宋の降伏軍を先頭に大軍で海を渡り、日本の九州博多に攻め込んだ

このときの日本の為政者は源氏のあとを継いだ執権北条氏(北条時宗)であった、元の降伏命令に従わず九州武士団は

勇敢に戦って、二度とも撃退した、元の大軍は二度とも運悪く海上で大嵐に遭遇して壊滅的な損害を被った

しかし北条時宗はこの時の心労などがたたって30数年の若さで亡くなった、そして鎌倉北条幕府も次第に弱体化して

1334年、王政復古を目指す後醍醐天皇と、尊皇の士の軍によって滅んでしまう