八十路徒然なるままに

早稲田かりほすなど、とりあつめたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。徒然草より

原発の収束に従事している人人に感謝。

2011年04月04日 12時02分44秒 | Weblog
4月になったのに、寒い。この大震災と、原発の事故に、追い討ちをかけられているのだろうか。震災4日目の14日、午後に、古井戸からくみ上げた水だが、高台にいる妹は、いらないという。弟のところは、介護しているのと、津波で娘ら一家4人がいるという。行ってみると、留守。「どこへ出かけたんだっぺえ」っと、その時は、既に避難をしてしまったという。普段ならば、買い物で賑わうス-パ-付近も、人も、車もいない。体を動かしている時は、気もまぎれていた。しかし、夜になって、テレビを見ると、原発は、まだまだ収束するには、到っていないようだ。なんか悪い方へ、悪い方へなのかと、不安になってしまう。人も車も見えないのは、みんな避難をしてしまったのか。取り残されているのかと。「もしかして、爆発」。「万が一」ないと、思っても、不安だった。爆発は予告はないのだから、自己判断かあぁ。薄暗くなって、車の燃料をと、走ったが閉店。避難するには、燃料は、片道分しかない。不安が増してしまう。床に入っても、時々、激しくゆれる余震に眠られない。15日になって、市役所に、何か連絡事項があればと、資料を取りに行く。隣組に配布したお知らせは、*原発の情報で、屋内退避仕方の知らせ。*給水場所。*久ノ浜大久地区住民の避難移動についてだ。テレビの報道では、屋内退避なのだが、予防的措置で常磐と内郷地区の避難所にバスで移動とある。平地区の学校、公民館、集会所は既に原発の地区からの避難の人で満杯の状況だった。それに大津波での避難もかさなり、どこも満杯だった。原発から30キロの外なので、まずは大丈夫と思っていた。県外に本社のある事業所では、急遽、退避命令、中道りに移動することって伝わってきた。ただ事でないぞぉって、家族では、避難する、避難しないって。昼過ぎになって、避難することにした。仕事で使う、ハイエ-スのバンに必需品を積みこむ。廊下に持ち出すものを並べ、一気に車に積む。97才のばあちゃんを車いすのまま、車輪をロープで固定をして午後4時頃、家を離れた。
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