下手の横好きで書いてみたが、たいへん、おこがましいと、思っている。「心とは、なんぞや」と、自分に問いかけてみたが、「――――ん、わからない」。辞典、大樹林を開いてみた。そこからの引用です。人間の体のなかにあつて、広く精神活動を、つかさどると、考えられるもの。喜怒哀楽、快不快、美醜、善悪などを、判断し、その人の人格を決定すると、考えられるもの、とある。やはり、小生には、おこがましいなぁと、感じた。
震災前は、白い砂浜が広がっていた。昨年末の、初冬の、海岸。災害復旧の、工事の重機が、ちらっと見える。「気候変動は歴史を変える」平成六年刊。ちょつと、引っ張りだして、ぺらぺらと読んでみた。「おわりに」という項目の一文に、「原発の利用は危険だから、禁止すべきであるという主張がある。人口が少ない時代ならば、これも許されることであるが、現状では、これは生活水準を下げることを、意味する」とある。大震災と原発事故から、二年になる。事故の前、原発の建屋を、真近かに、二、三回見たことがある。事故が起きた当時、テレビの映像を見ていた。あの建屋が、爆発で破壊するというので、そんなことはないだろうと、信じなれなかった。もしも、もしもだが、原発の本体が爆発をしたら、180キロ圏内は、避難をしなくてはならないのかもと、後々に聞いた。気候の変動が、災害を発生させるのかも。大地震も、原発事故も、二度とないことを、願っている。
日中、ふっかけ雪が、舞っていた。ひな祭りも近い。桃の節供になるのだが、桃の花は、まだまだ先だ。桃からの連想で、桃から生まれた桃太郎の、話しもある。「桃割れ」という、少女の髪型もある。今の時代には、古いなぁと思っている。桃の字は、木へんに、兆をあわせたものという。「兆」は、今年の予算は、なん兆円だとか、報道でみる。「兆」は、辞典に、「きざし」という意味があるとある。桃の意味には、春のきざしかあるのかも。今年は寒冬のようだ。寒い冬なので、喜んでいる業界もあるだろうし、早く春にならないかなぁと、思っている業界もあるのだろう。昔ぁし、読んでいた本に、異常気象によって、物の値段が上がると、いうこともある。値段が上がるというのは、インフレということなのかぁなぁ。お天気は、暑い、寒いは当たり前。暑い、寒いの、四季がある。仕事をしていた時は、お天気の長期予報、エルニ―ニョ現象、ラニ-ニャ現象、旧暦の季節区分、日々の気温の変化、業界でいう経験則とかを、考えて、季節の巡り来るのを考えていた。昨今は、野菜や果物で、「旬」の季節をみることもなくなった。たまぁ-に、食糧品の買い出しに、つきあって行くが、売り場に、大量にあって、値段が安価の時が、「旬」の物なのだろうと、思っている。異常気象によって、インフレにならないことを、願っている。
佳気が高堂に満ちている。高尚な言葉。へそ曲りの小生は、「いいことが、いっぱいあるよぉって、高い堂、国会議事堂で、言っているよぉ」と、曲解している。この歳になれば、平穏無事がありがたい。若い方々には、いいことがいっぱいある世の中になってほしい。いいことずくめの世の中には、よくないことも、表裏一体だと思う。一年ぶりに、筆をだしてみた。まずは、心落ち着けてと、すずりで、墨をすりだしてみたか、こりゃだめだぁってやめて、液体の墨を使った。時々、筆と墨と紙を使ったパホーマンス書道が、見られる。「いいぃなあぁ」って、うらやんでいる。下手の横好きだがと、誰にも迷惑をかけるわけではないから、いがっぺぇと、載せました。「これ見てたら、飯がまずくなるぅ」って、てすかぁ。これは、また、失礼しましたぁ。
デジカメを固定して、撮つたもの。遠目からだから、定かではないが、杉林なのかも。童謡の「お山の杉の子」を思い出す。前段があつて、「――――、丸々坊主のはげ山は いつもみんなの笑いもの これこれ杉の子起きなさい お日さまニコニコ声かけた声かけた」。いつの頃の歌なのか、杉の木を植林した歌なのかも。悪名高い、杉の花粉のほか、海のむこうの遠い国から、なにやら大気汚染の物質が、飛来するとか。屋外で、「大きく息を吸ってぇ」なんて、やれない昨今のようだ。
画像は、去年の11月に撮ったもの。毎々、街の中で撮ったもの。ちょっと前の、三橋美智也の歌に、「夕焼けトンビ」という歌がある。街をでて、川べりにても行くと、「夕焼け空が真っ赤っかぁ、トンビがぐるりと輪をかいた」という、歌詞の情景が見られるのかも。日々の雑事に追われ、川べりの残照の、美しさを眺める「ゆとり」もないなあぁ、って、またまた、自嘲をしている。
「夕暮れどきの徐々にあたりが暗くなっていく様子」-新明解より-。ちょっと前、立春のころの空をパチリしたもの。夕暮れも、「秋の日は釣瓶落とし」とは違って、やわらかく、ゆっくりと暗くなっていく。テレビでも、南のほうから、梅の開花、つくしが穂を出したと見る。雪下ろしの様子も見る。冬と春の、二月だ。「光の春」が、もうすぐ、春の訪れになるようだ。今年は、季節は、順調に訪れると思う。
画像は、99年生きてきた手。週に二回点滴の針をさす手。大好きな饅頭をつまんで食べる手。月に一度か二度、認知症のスイッチが、入ってしまうと、ご機嫌伺いに、顔をのぞくと、素早く、拳骨を飛ばす手。こんな時は、興奮をさせないよう、ひとりぼっちにしておく。ばあちゃんのストレス、解消の日だ。まだまだ、元気。前回の続き。ごっくんと、飲み込めばいいのだが、その飲み込む舌の動きを、思い出させるのに、二人がかりだった。ひと匙入れるその時、のどぼとけをなでたり、下あごのくぼみを押したり、こめかみを押したりした。やわらかいものだが、自分の口で、噛んで食べる。脳の働きにはいいのだと思う。甘いものは、脳にもいいのかも。ご飯のおかずは、舌でくだける食材が、形のままでお膳にでるので、食べたいものを指さす。食べれることが、長生きできるもの。点滴は、念のために、水分の補給をしている。あのときから、一年になるなぁって、思い出している。
外は冷たい風が吹いている。気持ちよさそうに、眠ってしまった。ちょっと、話し相手をしたら、「なんとか、かんとか、おねえぇがあぁぃしぃまあぁ-すぅって、云ったんだぁ」って、云っていた。なんのことかわからなかつた。「カステラ、食べっけぇ」と、云われたようだ。「おねえぇがあぁいしぃまあぁ-すぅ」って、抑揚をつけて、真面目顔で話しをした。ばあちゃん曰く、「うめぇがぁら、ありがぁてえぇんだぁ」って。食べるのが、楽しみで、待っている。ある時は、孫が「ばあぁちゃん、メロン買ってきたよぉ」って、メロンを見せて、「あとで、切ってくっからぁ」と、見せたようだ。午後のヘルパ-さんが来たときは、べそをかいていたようだ。ヘルパ-さんが、「どうしたのぉ」って、聞くと、「メロン持ってかれっちゃつたぁ」って、云うので、ヘルパ-さんが、大笑いしたという。一年前は、もしかしたら、ばあちゃんは駄目になっかなぁって、思った時があつた。飲み物も、食べ物も、舌で押し出してしまう口の動作が、続いていた。一年前のある朝、ばあちゃんの朝ご飯の時をのぞいた。介護をしている巳年生まれの娘が「それ飲め、それ食べろ」と。寅年生まれの、それもなんとか寅といって、言い出したらどうにもならないばあちゃんに、無理強いをしていた。すぐにやめさせた。まえまえから、ばあちゃんは、少ししか飲まない、少ししか食べないと、聞いていた。スプ-ンで、口に入れても駄目。舌で押し出してしまう。このしぐさを、忘れせることが、先決だと、思ったが、どうしたらいいのか、試行錯誤をした。まず、眠らせること。しかし、認知症のなかなか寝つかれない症状だ。脱水状なので、うつろな目をしたり、気力もなく、疲れて眠りはじめて、そのまま、眠り続けていた。時々声をかけても、反応がない。眼覚めさせて、無理に、水分を補給しようとしても、舌で押し出してまうと、どうしたものかと苦慮をした。声をかけても、反応がない。おむつ替えの時、介護をしている娘とふたりで歌っていた大好きな歌を、ばあちゃんの耳元で、「かぁらぁすう、なぜなくのぉ、からすはやぅまぁにい、かわいい七つのこがいるからよぉ」って、歌ってみた。ばあちやんが、かすかに、頭でうなずいたので、これなら大丈夫だと、安堵をした。-続く-。
数日前の雪。当地方は陽が差し始めると、溶けてしまった。唱歌の「雪やこんこん あられやこんこん―--」の情景はない。季節が巡って、旧の正月になる。ちょっと、うきうきした気分になるが、大震災があった三月がくる。あの日は、天変地変だった覚えがある。車で帰りを急いだが、渋滞と混雑。空が一転かき曇り、雪がふっかけてきた。いつもは、どんよりと曇りはじめ、やがて、ふっかけてくる。あの日の、あのときは、墨いろの雲が、覆いかぶさり、暗くなった。大地震から、約一時間過ぎたころなので、大津波が襲った時刻ころだったと、記憶をしている。日本各地の雪の被害が報じられている。一口に雪といっても、いろいろな、思い出がある。気候も安定をと願うのだが、今年はどうなるだろう。
ただ持っていた、ずうぅつと昔しぃの手本の本の、一ペ-ジ。基本の点書筆法。それぞれにに名前がついている。楷書、行書、草書の、それぞれにの基本のもの。筆で文字を書いて、何かを表現する目的があれば、それもまた、楽しみでもある。数年前のブログに、色紙にへたくそな字を書いて、載せていた。今、思えば、恥さらしだった。ひとりよがっていれば、いいことだ。迷惑をかけたのは、拙いものを、読んでくださっている皆さんだと、承知をている。すずりで、墨をする時間が、心静まるのだろう。たまあぁには、墨をすって、心に、ゆとりのある日々を、過ごしたいと思っている。