前回、表計算の使い勝手のいい事を載せた。パソコンを使い始めた時は、マイツールという統合ソフトを搭載したコンピーターだった。立ち上げるには、まず、フロッピーで、システムディスクをを読み込ませ、辞書フロッピーを読み込ませ、プログラムフロッピーを読み込みんで、コンピューターが、動き始めた。毎朝、三台を立ち上げてていた。こののち、この作業がないハードディスクのに、買い替えた。その頃の自作の表を基に、行や桁を加えたり、桁数を替えたりして、今でもその表は、基本の表としている。その後、ウインドウズというOSのコンピューターを使い始めた。数年を経て、エクセルの時代の到来で、エクセルを勉強した。でも、自作した表のデーターを移し替えるのは、困難だなぁなぁとして、エクセルの勉強を断念をした。時々、エクセルは、表計算が容易いと、理解している。マイツールという前時代の昔し話をしたと、ご了解いただきます。画像は、旧暦からみた、当たり外れの気温の予測をしている。その発生した気温の値が、基データーとして入っている表です。画像に収まらないのが、あと四列ある。この表からは、全部の列の合計をして、その平均を求め、その平均の値の小さい準に並び替えをする。その値の最小の日を、仮に三月一日とした。旧暦での、一年間の日毎の平年値を割りだした。これらの計算の作業は、サブページで行い、画面の入力画面の表を、うっかりして消えるのを防いだ。エクセルならば、マウスですべて作業ができるようだ。老いの繰り言、昔し話しで、ご容赦のほど。
11月も終わりになる。気温を書き入れをしなくてはと、表をパソコンの画面に出した。画像はその表。パソコンの画面は、罫線は無し。2列目と3列目の空欄は、手書きしてある表から埋める。赤印の最高と最低の欄は、日々の値を、ネットから入手して、記入をする。はるか昔しから、毎朝の新聞から、気温の表で、毎日、値を手書きはしている。仕事をしていた時の記入表は、旬と半旬の平均値を計算をする基準の列があった。今は、日々の値も、旬と半旬の値も、ネットから入手している。独自の、旧暦での、旬と半旬の値は、画面の右から、2列目と三列目が、キー列として、五日毎と十日毎の平均値を計算をした。今では、必要が無い。でも、右端の旧の最高気温を書き入れるのに、プログラムで、別のページの値を、移し書き替えるのに、列指定を固定しているので、名残で残ってある。マイツールというソフトを使っている方だけしか、分からないと思う。ご容赦。「コンピューター、ソフトが無ければ、ただの箱」とか、マイツールというソフトに使い始めて、月次決算をしたが、決算の数字の付け合わせは、会計事務所の仕事と割り切った。もっと先々の事が分かるものはと、まずは、日々の気温表を作った。旧暦の日々の値は、どうだろうと考えたのが始まり。パソコンにある13年間の日々の値から、旧暦の一月一日の値を割りだし、旧暦の毎日の値を計算をした。当時の表の作成は、とりあえず、日と最低気温と最高気温の、三つの事を書き入れたのが、始まり。後は、これかなあと思う、基準の列を付け足し、データーを移し書き入れる。なけなしの頭で、考えたことができる表計算ソフトを、活用をした。
前回、我が家の紅葉として載せた。出猩々を、購入したのしは、三年前だった。ミニ盆栽で、下駄箱の上に置いていた。秋の寒さが、紅葉を鮮やかにする。秋の時期の水やりも忘れることがある。水苔をたっぷり載せてあればいいのかも。秋の肥料は、十月ころというので、今からは遅いかなぁ。落葉をしてから、植替えて、剪定すればいいようだ。大きい鉢ならば、根張も大きくなるのだろう。当然、枝はりも勢いがいい。無精者の手入れで、適当にバサッバサッと枝払いするかなぁ。恰好がいい鉢は、どうするかなぁ。購入したころは、ヘルパーさん、看護師さんなどが、出入りしていたので、ちょっとでも、いい振りをしていた。今は、下駄箱の上は、サボテン系のが、四種ある。二種は、手入れなしでも、三輪、四輪だけ、花が咲いている。別のこと。「下駄箱」とは、古い。小生、戦中、戦後の、通学は、下駄履きだったと思う。定かの記憶はなくなっている。今の時代は、夏の風物詩の、七夕祭りや燈籠流しには、浴衣姿に下駄を履いた、女性や子供の姿が見られた。辞典をめくると、「下駄」の項は、「〓」、「下駄を預ける」、「下駄を履かせる」、「下駄と焼き味噌」とかがあり、「〓」は、印刷業の専門語のようだ。いやはや、乙に思ったことと、野暮なことでした。
画像は、ミニ盆栽だった、出猩々、購入時の鉢は、握りこぶし大、昨年、どんぶり大の鉢に植え替えた。ここの所の寒さで、真っ赤になった。でも、枝を適当に切ったので、盆栽として眺められないなぁと、「もみじ」の歌を口ずさみした。二番の歌詞は、「溪の流れに散り浮くもみじ 波にゆられてはなれて寄って 赤や黄色のいろさまざまに 水の上にも織る錦」。はるか昔に子供会の世話をした時。夏の行事で、磐越東線の江田駅まで乗車。山間部になり、眩しい景色から暗いトンネルをくぐり、車窓からの新緑の山野に、車窓の真近くの木々に、車中は大歓声。下車して、背戸峨廊へ。苔むした奇岩怪石の肌に、谷川の流れが木道を洗う所もあった。六年生が一年生の手をひいて、しぶきが洗う木道を渡ったり、はしご状の階段を登ったりだった。所々には、父兄が見守っていた。途中から引き返して、河原で飯盒飯。五昔し前は、三個の飯盒を拝借するのに、苦労をした。その間、父兄等は、芋煮と飯米で、昼食を準備した。三個の飯盒飯は、あたりの笹竹を箸にして、おこげに醤油をふりかけ、香ばしさが、ご馳走。河原で笹舟の競争、流れの緩急に大歓声。谷川に、笹舟のゆらゆらと流れる情景が、「溪の流れにーーー」なった。十二個のミニ盆栽のことは、数年前に拙いブログに載せた。半分は枯れ、後の半分の樹々は、地植えにし、勢いよく枝をのばして、落葉をしている。昨日今日の大風で、枯れ木状になった。背戸峨廊は、先の大地震のあと、一昨年まで、立入禁止だったかも。間違っていたら、ごめんなさい。
画像は、クラス会の交流誌に綴りこんだもの。ペーギー葉山が唄った「学生時代」の二番。歌詞の一部省略です。これを書いて、交流誌の頁を増やした。学生時代の事は、遠い昔のことで、あえての事は、中学校の同級だつた女子の一人が、当時、男子高校だっと時に、初めて、女子六名と共に入学して、高校で同じクラスになった。若かりし頃の、たまあーにのクラス会には、出ていた。昔の事を書くのは、老化現象と承知。近年は、「老害」とか、「シン、老人」とかの文字が、目にする。「シン」は、漢字は「真」のようで、なけなしの脳では、分かろうとすると、痛みだす。またまた、支離滅裂。
今日は、勤労感謝の日。我が家では、幣束祭りで、神棚と、別の所の井戸と、屋敷神に、赤飯を供えた。年末までの節目に、感謝するのもいい。別の事。拙いブログに、太陰太陽暦からの、季節の巡りを、当たり外れは、ご容赦と、載せている。旧暦での十月は、小春日和という、穏やかで暖かな天気が多い。当地方は、降雪があるのは、春先が多い。本格的な寒さは、十二月十三日頃からになるのかも。これが、当たりかなぁ。この太陰太陽暦は、明治五年に改暦するまで、使っていた。あちらこちらを、ぺらぺらめくって読んでみた。明治政府は、世界との外交上で、共通の暦が必要になったと、読んだ。別のこと。お役人への給与は、年俸だったが、月給制に変更になったと。改暦は、明治五年12月3日を、明治6年1月1日にすると、改暦をした。明治六年は、太陰太陽暦で、閏年で、13か月、月給を13か月分、支給しなければならなかった。改暦で、それが免れたという。またまた、あっちゃこっちゃでした。
画像は、前記のクラス会の交流誌に、綴り込んだもの。能面は、毎日新聞社昭和49年刊の「能」より借用した。この冊子の前は、何とか投稿があった。七十歳を過ぎると、綴る材料がなく、ちょっと書いてみつかぁで、下手なりに、まとめてみた。クラス会は、2012年に、六名で楽しんで、最終回とした。数年後に、隔年開催の、在京人の同期会に、クラスメートから、是非に出席するようにで、出席をした。そのクラスメートが、同期会の交流誌を作るべぇと、ぶち上げた。他人事と思っていたら、クラス会誌を作っているから、出来ると、ぶちあげた。結局引き受けてみた。100冊作った費用は、ぶち上げたクラスメートから、少額届いた。同期会の小冊子にも、画像の、「おやじ先生」を綴った。昭和時代を懐かしんで、載せました。
画像は、8年前に作ったクラス会の、第六号の小冊子。手助けはするからという、ひょんなことで幹事をした。昭和25年度の中学校の卒業時のクラス。それぞれが、定年後に、それなりにしていて、出席が12名。地元は、小生だけ。現在は、5人が健在かも。この歳になっては、懐かしいというより、どんな病いだったのかなぁだ。二回目からの作成した冊子には、級友から届いた、俳句や、読書感想文、近況報告など、コピーをして、綴り込んだ。ある時の、ある一人は、脳梗塞が発症し、右半身マヒ、失語症だが、娘さんが代筆で、礼の手紙が届いた。ある時は、クラス会への誘いを連絡したとき、死亡していると、誘いを楽しみにしていたことを、書き添えての返信や、認知症が進んだと、家族からの便りが、二人あった。ある時は、北海道に定住している、帰郷は、できていないと、ことのほかの寒さだと、電話があった。中学校を卒業後は、散り散りに、それぞれの定年後に、地元を懐かしくなって、クラス会を楽しみにしていたのかも。今回、年賀の挨拶は、どおするかなぁで、広げてみことです。
23日は、勤労感謝の日。我が家では、幣束を掲げる。画像の右は、本幣で、神棚と屋敷神と台所とトイレに、真ん中は、片幣で、門と玄関に、左側の青幣は、井戸にお祀りをする。神棚と屋敷神と井戸には、赤飯を供える。画像には無いが、赤幣があり、台所、火を使う所に、お祀りする。五穀豊穣という、その年に収穫された穀物に感謝することという。先祖からの、「忘れないで、やれ。赤飯を供えて、からからにならないうちに、下げろ」が、続いている。父親の代になってからは、神社から幣束をうけている。その前は、自作していたのかも。「勤労感謝の日」は、1948年、昭和23年に、国民の祝日と定められたという。書物をぺらぺらとして読むと、稲作が始まったころから、穀物に感謝することからと読んだ。明治時代になって、皇居の行事として、「新嘗祭」があり、終戦後に、「勤労感謝の日」になつたと読んだ。太陽太陰暦では、11月は冬至月で、太陽が復活する月なので、「一陽来復」の冬至祭と、稲の収穫に感謝する祭りが、合わさったと、読んだ。毎日食べている主食の米に、ちょっとだけでも、ありがとさんだなあ。別のこと。今日は、北風が吹き荒れている。年賀はがきや、拙い冊子の大筋や、冊子のレイアウトなどを、なけなしの脳で、考える。まぁ「尻に帆がかかる」ようだ。
画像は、亡ばあちゃんの百歳の宴で、皆の話を聞いていた。前回に続いて、唄ったのこと。「からぁすぅ なぜ泣くのぉーー」は、子育ての時は、終戦の前後で、戦後は、生活のお金より、物で、嫁入りに持ってきた着物を、食べ物に交換をしていたという。残ったのは、娘時代の銘仙織の、二枚と云っていた。こんなことが頭に残っていたようだ。表題の「七つの子」。九十五歳のころ。脳梗塞になって一年が過ぎた。左手と左足にマヒが残った。夏の間、うちわをもたせていた。うちわに黒い鳥が描かれて、それをカラスと云っていた。日曜日は、妻がオムツを替えで、ふたりで唄っていた。ばあちゃんは、「かぁらぁぅすう なぜ泣くのぉ カラスは山ぁにぃー 可愛い七つの子がいるからよぉーー」、このあとから、物語をする。「可愛ぃくて ちんちぇくて めんごいの 五、六っ羽いるからよぅ おつぱいちょうだい おっぱいちょうだいって 泣くんだよぉ なんで めんごいの置いて、きちゃったんだっぺぇなぁ 早ぇく帰ぇってやれよぉ 早ぇく帰ぇってやれよぉ」。ひとしきり物語をして、目をつむり、涙がにじんできた。「すぐぅに帰ぇってやれよぉ」と。「なんでめんごいの、置いてきたんだっぺぇなぁ。おっぱいのませっから えさ探しにきたんだっぺぇなぁ」。「ばあちゃんの子どもも、おっぱいちょうだいって、云ってんのげぇ」と聞くと「んだぁ、んだぁ」って。何歳になっても、子どものことを、思っているのだろう。食べ物が、無い苦しみは、消えないのかも。これは以前にも載せてます。最近になって分かったのは、亡ばあちゃんの夫の給与は、昭和19年は、 年俸で、80円、翌20年は、年俸で、100円との、書付があった。その年は終戦になり、解雇になったようだ。
画像は、亡ばあちゃんの、百歳の宴が終わって帰るとき。満足気のようだった。記念の冊子に綴り込んだのを、再掲載しました。九十五歳ころのこと。表題が、「ばあちゃんが唄った」。二月に雪が降った時、ガラス戸をあけ、車椅子に乗せたまま、雪が降るのを見せた。じいぃーっと見ていて、物思いにふけるように、静かに歌いだした。ー雪やこんこん あられやこんこん 降っては降っては ずんずん積もる 枯れ木のこらず 花が咲くー。歌い終わっても、じいーっと見続けていた。すると、また、歌いはじめた。ー雪やこんこん あられやこんこー。ばあちゃんのテンポに合わせて、一緒に歌った。すると、「そおだぁ」って。「寒いなぁ」と、ガラス戸を閉めようとしたので、部屋に戻した。テレビでも、降雪を報じていた。それを見て、また、歌いはじめた。ばあちゃんのテンポとメロディだが、よく思い出したと思う。上品な時は、たいしたもんだが、脳のスイッチが入り違ってしまうと時がある。虫の居所が悪いので、見境がなくなる。そんな時、落ち着かせようとー雪やこんこん あられやこんこんーと、耳元で歌ってみた。すると、「馬鹿ぁぁ あほぉぉ 雪降ってんのがぁ そんなの 幼稚園生ぇぇだぁ」。いやはや 大声がでるもんだなぁと、笑ってしまう。あるときに聞いた。すると、「せいせいすんだぁ」って。元気だったころのことでした。
画像は。亡ばあちゃんの百歳の祝いに、三家族と甥ごさんと、総勢十二人で、近くの宴会場へ行くところ。市役所と福島県と社会福祉協議会からの祝いは、係の方から戴いた。三枚の褒状を読み上げて渡し、記念の品も、説明をして、手にさせた。お祝金の入った大きなのし袋も、右の利き手に持たせた。係の方に礼を申し上げて、退席された。お祝いの熨斗袋は、時々思い出していた。亡ばあちゃんは、祝いの会場に行くことは、理解して機嫌が良かった。別のこと。96歳の頃のこと。百歳の記念の小冊子に綴り込んだものです。表題の「お喋り」。たまーぁにベットから、「だれが、いねぇのげぇ」って、人恋しく呼んでいる。夕ご飯の介助をしながら、お喋りをした。月に一度、往診をしていただいている先生が、入院をした。そのことが頭にあったのか、「先生が入院しちゃては、しょうがねぇなぁ」。「お医者さんなのに、なんだっぺぇなぁ」。「「なんの病気なんだっぺえなぁ」。「「お見舞いやったのがぁ」。「「八十になったのがぁ。まだ、若けぇのになぁ」。「おれは、九十六だぁ。七、八、九、百だぁ。四年ちゅうのは、たいへんだなぁ」。「四年生きられんのがぁ」。「「手術してくれた先生は、百まで大丈夫だと、言ってたなぁ」。「百まで生きっと、ご褒美もらえんのげぇ。ほぉーぉ、なにもらえんのがなぁ」。ちょっと寂しげ。この時はに限らず、目をつむっている時は、何かを考えているようだった。
画像は、百三才頃の、亡ばあちゃん。94歳頃は、左手足が麻痺していたが、口は達者で、ひとり置きされて、よくしゃべっていた。何かで、頭のスイッチが入れ違うと、罵声、暴言が響いて、賑やかだった。そんな時、どおしたのぉと、顔をだすと、頭を持ちあげて、噛みつかんばかりだった。ストレス発散だぁと、相手をしていた。聞きとれないことがあるが、断片的に書きとめて置いた。それをつなぎ合わせて、書き出してみました。不適切は、ご容赦のほど。バァカァッ!。アッホォォゥ!。オタンコナス!。オタンチン!。アンポンタァン!。アンポンタァーンの吊るし柿ぃ!。トォーナスカボォチャー !。カボッチャヤロォッ!。オカメキツチョウ!。コノアマァー!。鼻ったらしぃー!。鼻ぴっしゃげぇ!。真っ黒ぉ鼻どぉ!。鼻どねぇのがぁ!。こじぃぎぃ!。乞食ぃのこぉー!。山の乞食ぃ!。あんぽんたん乞食ぃ!。あほんだら乞食ぃ!。どっこい乞食ぃ!。とろはちぃ!。ひょうろくだぁまぁ!。ひょっとこ ひょっとこ ひょっとこだぁ!。鼻くそまるめてセイシンタン!。馬鹿よろ乞食はどこにいんだぁー!。馬鹿よろ乞食はここにいんだぞぉー、なぁ!。罵声を浴びせられて、笑い出すと、ますます大声になる。そのうち疲れて、眠りになることもある。ストレス発散だぁと、相手をしていた。看護師さんや、ヘルパーさんも、笑いながら相手をしてました。その節は、すみませんでした。
画像は、NHKが刊した、20世紀の主な出来事の、音声の記録。日本で最初に録音した、乃木希典の、自己紹介から、長野五輪、ジャンプ団体優勝までの、45の事が聴ける。写真は、ジャケツトを拡大コピーをしました。個々のことは、TVで映像付きで、アーカイブの時に、見られて聴いていると思います。ナレーションで、20世紀の前半は、戦争、戦争のこと。終戦時の、天皇陛下の玉音は、長めに聴いた。後半は、経済のこととある。「神武景気」「岩戸景気」「いざなぎ景気」という好況があつたり、「なべ底不況」「平成不況」があったりだった。ある時期は、主食の米が、無くなり、外国産の米が、販売された。買占めの防止のためか、販売数の制限があったとか。CDのことは、さておき、我が身のことの100年と思うと、88年が過ぎた。小生の定年は78歳で、最後の10年間は、事後整理。現在は、無為状で過ごしている。今の願望は、PPKーぴんぴんころりーだ。なるかならぬかは、分からない。PPKの願望は、5%の確率での達成と読んだ。願望の達成は、なんて考えると、まずは、元気にしてること。でも、老化して劣化していく。あれこれと考えてみても、結局「なるようになるさぁ」で、「食後の一睡、万病円」でいる。意味は、「食事をしたあとのひと眠りは、からだにとてもよいというたとえ」、「万病円は、江戸時代、万病に効くといわれた丸薬」、現代版の万病円は、何かないのかなぁなんて、都合のいい事を考えている。
画像は、現代用語の基礎知識の、「マイナンバー問題総点検」からです。なるほど、いろいろあるもんだと、読んでみた。マイナンバーカードで、印鑑証明書を、コンビニから二回取った。カードをとってから、すぐの時に、急ぎ自転車で市役所へ。交付の係の方が、「近くのコンビニでとれますよ」、「あっそうですねぇ」と、汗を拭きながら、笑ってしまった。近々、戸籍関係のものが必要なので、コンビニへ行く。医療関係の窓口でも、受付るようだが、今も保険証と診察カードを、出せばいいので、まだ使っていない。何かと便利になるようだ。「なりすまし顔認証」ー「暗唱番号不要のマイナンバーカード」という項目もある。「認知症の高齢者などを対象にーー」という。家族のを、代理で済ますには、暗唱番号も使えればなんて、思っている。便利になればなったで、不都合の所もあると思う。別のことたが、「ニュースのおさらい」という編もあり、そうだったのかぁと読んでみた。「ニュースのおさらい」でも、今年も続いている。「どうした」「そもそも」「どうなる」と、解説があるので、ニュースを見たときに、なるほどなるほどと、読むことにする。巻末の、「新語、流行語大賞」全記録で、その時代の事も、思い出している。