私も「子どもに教えられました」。母の介護がんばります

2014-09-01 11:07:30 | 日記

   私も「子どもに教えられました」。母の介護がんばります

 出かけた先で、一瞬方角を忘れ、呆然とした知人の例を取り上げ「瞬間的痴呆」ということを書いたのが昨日のブログである。

 そして、本日は暖かい話を聞いたので報告したい。

 生ごみの搬出の日である。そこで一人の男性と話をすることになった。 この男性の母親は近くに住んでいる。夫に先立たれ一人暮らしである。今日も、定期的に世話をするために出かける途中である。

 「今日も母親のところですか、大変ですね」と声をかけた。その彼が次のような言葉を返している。「私もね、以前は癇癪をおこし、看ていられるかという気持ちを持っていました。しかし、登校する子どもの見守りに参加して教えられましてね」というのである。

 学校に向かう子どもたちが「おはようございます」といって通り過ぎる。その笑顔を見ていると、この子どもたちにも、育てる親がいて元気に今日も学校に通う。順繰りなのだなあという思いを強くしたという。以来、私は変わったと述べている。

 彼の母親は私も知っている。むしろ亡くなったご主人との付き合いが深い。逢う度に、ご主人は私に言っていた。「女房に痴呆が出てきてね、時折パジャマのまま外に出て行く。困ったことだ。この女房をおいて先に逝けない」と。しかし、残念なことにそれが逆になってしまった。このことは「痴呆の妻をおいて先に逝けない」というブログを1年前に書いたことがある。

 この道端での立ち話しであるが、彼は、最後にもう一度「子どもに教えられました」と言葉を残して母親のもとに向かった。くり返された、この最後の言葉が私の心に強く残った。

 親の育児放棄、親子の間での悲しい事件。そのようなニュースが多くなっている今日。「順送りなんですよね。子どもに教えられましたよ」という言葉に、あらためて暖かさを感じたのである。

 とは言え、これからの高齢者介護や看護は簡単なものでないことも事実である。

 かつて、介護保険制度の導入にあたり、その制度設計に「税方式」か「保険方式」かの論争があった。税方式は、それまでの行政が運営する「措置制度」に連なる懸念がある。現に、施設の入所にあたっては、行政の有力者の縁故を必要とするケースもあった。

 介護の社会的責任と「受ける権利」を明確にする意味で、「保険方式」にすべきというのが私たちの主張であった。「保険をかけることで安心を得る権利」である。

 しかし、この「いつでも、だれでも、どこでも、必要な介護を受ける権利」が、今侵されようとしている。

 このことも併せて考えた朝のひと時である。