ひでさんの思いつき日記

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四国八十八ケ寺の27番から29番の札所に行って来ました。(2021-11-20 後半分)

2021-12-01 | お出かけ

11/20の朝早くに出発して午前中に室戸市の四国八十八ケ寺の24番から26番の札所にお参りして、
午後からは香南市・
南国市の25番から29番の札所にお参りして、宿毛市のホテルに泊まりました。

 左の画像は11/21に行った
 四国八十八ケ寺の24番から
 29番の札所の地図です。

 午前中に24番から26番の札所
    にお参りして、昼食は室戸市
 の「駒季」というお店に
 行きました。午後からは27番の
 最神峯寺がある安芸郡安田町へ
 行った後 香南市の28番大日寺
 南国市の29番国分寺に行き
 宿毛市の秋沢ホテルで宿泊
 しました。


       
下の画像は四国88カ所24番最御崎寺・25番津照寺・26番金剛頂寺
        ・27番神峯寺・28番大日寺・29番国分寺です。

        


        下の画像は四国88カ所 27番神峯寺です。
 
        
    

   第27番札所 竹林山 地蔵院 神峯寺

 神峯寺の歴史・由来

 神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。
 幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、息子の出世を祈願し
 往復20kmの道のりを21日間日参したという話は、いまも伝わっている。

 縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。 
 聖武天皇の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。 
 その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。

 明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、
 本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。
 明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。
 だが寺格がないため、大正元年、茨城県稲敷郡朝日村の地蔵院を移して認可を得るなど、
 苦難の道を歩んで今日にいたっている。

 昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、
 夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例がある。

        

   

                      

   

      

         

    

        

   

      

         


         下の画像は四国88カ所 28番大日寺です

         

   第28番札所 法界山 高照院 大日寺

   

 大日寺の歴史・由来

 境内には四季折々の花が咲き、巡拝者の目を楽しませてくれる。
 早春にはサンシュユの花、3月彼岸ごろにはしだれ桜、本坊前のコブシの花、
 10月中旬から十月桜や万両が見頃を迎える。

 縁起によると、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、
 堂宇に安置して開創されたと伝えられる。
 その後、寺は荒廃したが、弘法大師が四国を巡教された弘仁6年、末世の人々の安泰を祈り、
 楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。

 以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間からは 
 土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。
 明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した
 本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。

 行基菩薩作とされる金剛界大日如来坐像は、高さが約146㎝の寄せ木造りで、四国では最大級。
 また、脇仏の聖観世音菩薩立像は智証大師作と伝えられ、これも高さ約172㎝と大きく、
 ともに国の重要文化財に指定されている。
 また、大師ゆかりの楠の霊木は「爪彫り薬師」と呼ばれ、奥の院とされている 。
 その楠は明治初めの大風で倒れたが、跡地に一堂を建てて安置している。
 この霊木は、頭、眼、鼻、耳、顔など首から上の病に霊験があらたかとされている。
 薬師堂の脇には、土佐名水40選にも選ばれた大師御加持水が湧く。

大日寺の見どころ 本堂・大師堂
            ・野市百人衆(武将・長宗我部軍の遺臣たち100人を使って水田を開拓させた。 
             彼らは土佐郷士の初めとなった。)
            ・龍河洞(日本三大鍾乳洞のひとつ。全長4km。)

   

      

        

        

        


       下の画像は四国88カ所 29番国分寺です

       

   第29番札所 摩尼山 宝蔵院 国分寺

   

 国分寺の歴史・由来

 土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之が浮かんでくる。
 とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることは
 あまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国衙は、国分寺から北東1㎞ほどの近くで
 「国分寺共々土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・経済・文化の中心地であった。

 聖武天皇が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。
 土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。
 歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。

 縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年のころで、
 毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。
 その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた 。
 以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。

 本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部国親元親親子が、永禄元年に再建。
 外観は柿葺き、寄棟造りで天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、
 室町時代の特色が見られる。現在国の重要文化財に指定されている。
 また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で建立され、
 現在の仁王門は昭和の初めに再建され、二層造りである。
 1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史跡に指定され、
 杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれる。

 国分寺の見どこ

 国指定文化財・金堂・庭園、句碑(本堂を背にして、春は桜・牡丹、初夏には紫陽花、
 秋には萩と、心やすまる参道、創建当時の七重塔の心柱をささえた礎石、杉苔の美しい庭園が広がる。

   

      

        

           

   

      

    


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