Google アートプロジェクト(Google Art Project)は、Googleのパートナー・ミュージアムが
所有する美術品を、高画質で鑑賞できるサービスで、アドレスは
http://www.google.com/culturalinstitute/project/art-project です。
最初の画面は以下のようなもので、コレクションは美術館の名称・アーテイストが画家の名前から
検索できるようになっています。
コレクションの検索欄に「MoMA, The Museum of Modern Art」(ニューヨーク近代美術館)と
入力すると 以下のように作品のリストが表示され それらの作品を見ることができます。
アーテイストの検索欄に「北斎」と入寮すると 以下のように作品のリストが表示され
それらの作品を見ることができます。
江戸時代に活躍した浮世絵画家調べて
作品数の多い画家5人を年代順に
まとめてみました
江戸時代の画家の年表をインターネット
調べて編集しました。
今回 Picasaウェブアルバムに江戸時代の浮世絵画家 5人の作品を
インターネットから取り込んで Picasaウェブアルバムに登録しました。
☆画像をクリックすると Picasaウェブアルバムにリンクします。
喜多川 歌麿、(1753年頃? - 1806年10月31日)は、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。
国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。
繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家であ
る。
歌麿はそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き、顔を中心とする構図を考案した。
これにより、美人画の人物の顔の表情や内面を詳細に描くことが可能になった。
歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、
歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、
歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。
1804年 豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵を描いたことがきっかけとなり、
幕府に捕縛される。
これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに
加え、将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったとも言われている。
この刑の後、歌麿は非常にやつれたとされる。
しかし歌麿の人気は衰えず版元からは仕事が殺到したとされ、
その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。
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葛飾 北斎(1760年10月31日 - 1849年5月10日)は、江戸時代後期の浮世絵師。
化政文化を代表する一人。
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
葛飾派の祖となり、後には、フィンセント・ファン・ゴッホなどの印象派画壇の
芸術家を始め、工芸家や音楽家にも影響を与えている。
浮世絵以外にも、いわゆる挿絵画家としても活躍した。
黄表紙や洒落本・読本など数多くの戯作の挿絵を手がけた。
数ある号の一つ「葛飾北斎」を名乗っていたのは
戯作者の曲亭馬琴とコンビを組んだ一時期で、
その間に『新編水滸画伝』『近世怪談霜夜之星』『椿説弓張月』などの作品を発表し、
馬琴とともにその名を一躍不動のものとした。
読み物のおまけ程度の扱いでしかなかった挿絵の評価を
格段に引き上げた人物と言われている。
嘉永2年4月18日、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。
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歌川 国貞、〈1786年 - 1865年1月12日〉は、江戸時代の浮世絵師。
のちの三代目歌川豊国。
面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。
豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、
作品の数は浮世絵師の中で最も多い。
その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。
歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、
三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。
天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、
改革の抑圧が緩和すると、嘉永頃にはその反動で彫り摺りの技術は
一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる
浮世絵版画が作られるようになっていった。
1865年に79歳で死去。
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歌川 広重、(1797年) - (1858年10月12日)は、浮世絵師。
本名安藤鉄蔵。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、
その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重とも呼ばれたが、
安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、
広重自身もそう名乗ったことはない。
また、ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに、
青色、特に藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青は藍の色であり、
欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルーになぞらえて
「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、
アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、
当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている。
安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。
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歌川 国芳、〈1798年1月1日〉 - 〈1861年4月14日〉は、江戸時代末期の浮世絵師。
画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、
浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した
絵師である。
師・豊国没後の1827年頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という
『水滸伝』のシリーズが評判となる。
“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。
『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵にも優れており、
美人画や役者絵、狂画にも多くの力作を残している。
水野忠邦が失脚した後、国芳は待ってましたとばかりに江戸の人々の度肝を
抜く武者絵を世に送り出していった。
国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれたまるで
大スペクタル絵画である。
武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。
桁違いの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝え、
国芳を称える声が満ち溢れた。
実は国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を集め、
遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。
国芳が56歳の時、新たなシリーズの製作に取り掛かった。
それは47人の志士が揃う忠臣蔵である。
国芳はこの作品を新しく学んだ西洋画の技法で描いた。
江戸の 浮世絵 博士に なれますね~!!
ご丁寧に お調べ 戴いて~!!
知らない事 ばかりでしたね~!!
少しは 偉そうに 話せるかもね~!!