一昨年の暮れから昨年の初めに 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書きました。
(タイトルをクリックするとブログにリンクします。)
1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ:香川川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
3回目は2015-01-07のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷
4回目は2015-01-29のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞
5回目は2015-02-05のブログ:四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんが多度津の人と知りました。
・香川の偉人-久米通賢(くめ・みちかた)
香川県東かがわ市馬宿 生まれ。
安永9年(1780)-天保12年(1841) 62歳
江戸時代後期の技術者・科学者。
マルチな才能をもった「塩田開発の父」「坂出塩田の父」。
船舵職人の子に生まれ、栄左衛門と称した。
子供のころから天文と地理に興味を持ち、手先が器用で粘土細工などが上手で、大阪見物にいったときには時計の修理をして困った人
を助けたという話しが残る。
19歳のとき大坂の間重富の門に入り、4年間、数学・地理・天文・測量を学ぶ。
文化3年(1806)高松藩から領内測量を命ぜられてこれを完成した。
そのときに使われた測量器械には、すべて久米栄左衛門(通賢)の名が入っており、
自らが製作したものであった。
文化5年(1808)に行われた伊能忠敬の四国測量に際して高松藩領の案内を勤めた。
文化6年(1809)には、高松藩「天文測量方」になり、「久米」を名乗るを許された。
海防に関心をもち、たまたま文化4年(1807)のロシア兵の択捉島侵略に 刺戟されて造兵に意を注ぎ全流水軍術に工夫を加え火器を備えた
戦艦の構想をまとめて 「戦船作積之覚」を藩庁に提出した。
また、銃器の改良についても従来の火縄銃に代えて燧石に接した鋼輪の回転によって
発生する連続火花によって点火する方法を考案し、輪燧佩銃・無敵鎗間銃を作った。
さらに天保10年(1839)には雷汞を完成して生火銃と称する雷管銃を 藩主に献上するまでになった。
技術者として通賢が製作したものとして、星眼鏡・地平儀・オクタント
・象限儀・風銃・水揚器・百敵砲などが知られている。
藩の財政の立て直し、測量技術を生かした干拓工事や塩田開発、
砂糖製造業者の保護育成、港の工事などのほか、マッチや精米機の考案なども手がけた。
とくに、わが国最大の製塩地よいわれる坂出塩田は文政9年(1826)
通賢の努力によって開発されたのがはじまりである。
財政難の高松藩に財政立て直しの計画書を提出し、その中心事業が塩田開発であり、藩はこの計画を採用し、通賢は普請奉行(開発責任者)に任じられる
しかし開発費用が藩からの資金では不十分で、通賢は私財を投じ、自分や親戚の財産がなくなるほどの努力で、工事の完成を迎えた。
文政12年に完成した坂出塩田は、高い技術と独自の工夫をこらした「久米式塩田」とも呼べるもので、通賢の名を藩外にも広め、「塩田開発の父」と称された。
私財を使い果たし貧困の中でも技術者として様々な研究を続け、国産マッチの先駆けともいえる「ドントロ付木」などの発明品が今に伝わっている。
久米通賢生誕地(香川県東かがわ市馬宿) 旧宅は四国村(四国民家博物館)に移築されている。
塩釜神社・香川県坂出市常盤公園内に上記の銅像がある。
鎌田共済会郷土博物館で 通賢の業績や発明品を見ることができる。
久米通賢墓所(香川県東かがわ市馬宿)のそばには紀功碑が建てられ、近辺には「久米通賢通り」という通りがある。
・香川の偉人-向山周慶(さきやま・しゅ
うけい)
1746年に讃岐国大内郡湊村(香川県東
かがわ市湊)生まれ
1819年に74歳で死去。
讃岐糖業の始祖として白砂糖作りを確立
し、「讃岐糖業の父」と称される。
高松藩医・池田玄丈について医術を学ん
だ。
その頃、第5代高松藩主・松平頼恭は、
砂糖生産に注目し、
玄丈に研究を命じていた。
16歳で周慶は、玄丈から砂糖精製の研究を託され、
以後30年間にも及ぶ苦難の歳月を経て、
1790年はじめて白砂糖の精製に成功
した。
1803年白砂糖の製法を確立し、
大坂で讃岐の和三盆糖として名声を高め
た。
左の画像は高松市松島町にある向良神社
です。
向山周慶さんと関良助さんから一字ずつとっ
て、神社の名前がつけられました。
関良介さんは薩摩の人で、医者の向山周慶
さんが関良助を助けたことに
恩義を感じた良助が国禁の砂糖キビの苗を
持ちだし、周慶のもとへとどけ、
砂糖きびが讃岐の国に根づいたと伝えられ
ています。
向山周慶の記念碑 関良介のお墓
・香川の偉人-玉楮象谷(たまかじぞうこ
く) 高松市に1806年に生まれ、
明治2年(1869)に64歳で亡くなりました。
玉楮象谷は、中国の彫漆を模した技法や、
南方漆器の技法を 独自の技法に消化した
作風を開拓、象谷塗・讃岐彫とよばれる
今日の高松漆器の源流をつくりあげ、
今日特産品として名高い 高松漆工芸の
基礎を築き
「香川漆芸の父」と称されます。
讃岐漆芸は、高松藩の漆彫司 玉楮象谷に
始まる。
当時、江戸や京都では蒔絵が主流であった
が、象谷は父からうけついだ篆刻の技術を
ふるい、あえて蒔絵によらず、京都の東本
願寺や大徳寺に伝来していた堆朱、堆黒、
存清など中国から舶載した 唐物漆器、あ
るいは茶人の間で珍重された《キンマ手》
とよばれる南方渡来の藍胎漆器に着目し、
これらを摸して地方色豊かな漆器を作り出
した。彫漆(ちょうしつ)、萄醤(きん
ま)、存清(ぞんせい)の三技法が その
特色であり、彫漆は、色漆を厚く塗ね、
文様を彫り表す技法。 萄醤は、剣と称す
る彫刻刀で文様を彫り、その彫り口に色漆
を埋め、平らに研ぎ出す
存清は、色漆で文様を描き、輪郭や細部に線彫りを加える手法である。
象谷の最高傑作一角印籠
天保十年(1839)象谷が34歳のときに高松藩9代藩主松平頼恕に献上した印籠は「一角印籠」と呼ばれ、彼の神業的な彫りの技術を現しています。
高さ8.6cm、幅5.5cm、厚さ2.9cmの偏円筒形鞘に、1,086点の彫刻をしてあるのです。
鞘には池に生えた蓮の絵を彫っていますが、中に彫刻してある生物の種類と数は、蓮の葉55枚、
花が30、大湖石2個、池の中や石の上に亀が343匹、かに443匹、蛙41匹、ひきがえる4匹、
葉や茎にかたつむり27匹、とんぼ24匹、蝿9匹、蜂4匹、蝶26匹、玉虫2匹、いなご3匹、
こおろぎ2匹、かまきり4匹、くも18匹、けら2匹、むかで5匹、
かぶと虫1匹、このほかに雀19羽、鷺7羽、ひすい10羽、せきれい2羽、がちょう3羽です。
なんと生物だけで999の多数にのぼり、すべてを合わせると1,086点になります。
このように細かな細工のできる人は、全国でも珍しいはずです。しかも象谷のけし粒ほどの動物たちは、
一つ一つが生き生きとしていて今にも動き出しそうなのです。
この一角印籠は現在重要美術品に認定され、象谷の彫りの技能を代表する作品となっています。
しかし、象谷の真価は、微細な彫刻よりも独特の塗りの技能にあるともいわれます。
香川漆器(かがわしっき)は、讃岐漆器あるいは高松漆器とも呼ばれることがある。
現在では彫漆、蒟醤、存清、後藤塗、象谷塗の5つの技法が国の伝統的工芸品に指定されている。
確立した香川漆芸は彫刻刀や剣による彫りの技術と色漆の使用が特徴であり、
蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)「香川の3技法」といいます。
・香川の偉人-大久保 諶之丞(おおくぼ
じんのじょう)
1849年に三豊市財田町で 大地主であった
大久保森冶の三男として生まれる。
1891年(明治24年)、42歳で死去。
1872年(明治5年)、財田村吏員、その後郡
吏員等を経て、1888年(明治21年)に
愛媛県会議員、翌年、香川県が愛媛県から
分離し香川県会議員となる。
私財を投じて道路・橋梁を整備、奨学資金
の貸付け、病院建設への資金の寄贈等又、
讃岐鉄道・北海道移住などを提唱・実行す
る。道路開発に情熱を傾け「四国新道開発
の父」と称される。
北海道移住・開拓などにも私財を投じ、
北海道洞爺湖町では「開拓の父」と称され
る。
北海道開拓移民には自ら資金を出し、毎年
数百人を 北海道に移住させた。
左の画像は財田「たからだの里」に建つ
諶之丞の胸像
大久保が育った財田は、阿讃山脈のふもとに位置しています。
隣の徳島県や高知県に行くためには、険しい猪ノ鼻峠を越えていかなければなりませんでした。
大久保は幼い頃から、人々が踏みわけ道程度の曲がりくねった道を苦労して峠越えしている様子を見て
育ちました。
讃岐の発展、四国の発展のためには、人々が容易に往来することができる道をつくることが必要であるとの
大久保の思いはこうして形成されました。
香川県財田町と北海道洞爺村とのつながりは、明治20年(1887 年)5月10日、洞爺村開拓の父と
慕われる大 久保之丞が心血を注い だ「北海道移民計画」に共鳴し、香川県財田村を中心とする22戸
76 名の一団が 原始の洞爺に移り住んでから約120年、これらの人たちの 努力が実を結び、原始の大地は今は、豊かで美しい土地に姿を変え、人々 はいきいきと暮らしています。 開拓の第一歩が印されて以来、洞爺村には財田町との縁故の人達も数 多く、これらの方々にあっては途切れることなく交際がもたれていまし たが、両町村の組織的な交流は行われていませんでした。
このような状況のなかで昭和49年に財田町から町長と町議一行が 来村され、
「祖先を同じくする縁故を基にして、
今後さらに友好を深め 産業、教育、文化その他の交流を図りながら両町村発展のため、
友愛に よる姉妹町村の盟約を結ぼう」との話がもち上がり、洞爺村議会で「盟 約調印」が決議され、
昭和50年4月1日に姉妹町村盟約の調印を行い、 財田町と洞爺村の姉妹の契りが結ばれ、
以後30有余年にわたり活発な 交流活動がなされてきました。
・香川の偉人-景山甚右衛門(かげやま・じんうえも
ん)
安政2年(1855)4月14日-昭和12年(1937)10月18
日 83歳
香川県仲多度郡多度津町の回船問屋に生まれた。
明治から大正時代の実業家、政治家。
「讃岐鉄道の父」と称される。
19歳で家業を継ぎ、明治23年(1890)に
讃岐鉄道(現JR四国)を、
翌年には香川県内最初の多度津銀行を創設。
また、四国水力電気(現四国電力)の社長を務めた
ほか、衆院議員としても活躍した。
20歳のとき上京して見た新橋~横浜間の鉄道に驚愕し、
香川にも鉄道を開業するという構想を立て、
丸亀~多度津~琴平に至る讃岐鉄道を設立して、
開業させた。
■讃岐鉄道
横浜で蒸気機関車を見た甚右衛門は、これからは乗客や物資を「速く・大量に・時間通りに」運べる鉄道の時代であることを痛感、讃岐鉄道を興します。
この甚大なプロジェクトの資金を支えたのは、多度津七福神を中心とした多度津の豪商たちでした。
景山甚右衛門は、七福神の一人ではあったものの年若く、資金の面というよりも、
都会からの情報と実務を請け負い、資金あつめにも奔走したようです。
が、なにぶんにも、まだ、海のものとも山のものともわからない「鉄道事業」に対し、
理解をえるためには相当な苦労があったようで、船とか、馬車とか、既存の交通機関からの妨害もありました。
■多度津銀行
明治24年、、甚右衛門は多度津七福神の資金を集め、それを運用して事業を推進するために作られた
「多度津銀行」の頭取となります。多度津銀行は、昭和16年 国の政策により、
百十四銀行と合併されるまで手堅い経営を続けたそうです。
■讃岐土木株式会社
明治30年、当時、田圃が広がるまちだった善通寺に「陸軍第11師団」の建設が決まり
甚右衛門は土木会社を作り、土地造成、建設工事まで一貫してできる組織作りをし
善通寺に西洋建築を作っていくわけですが現場は地元の棟梁たち。
初めてみる西洋建築に、なかなか技術がついていかず、何度も工期延期の届けをだしながらの作業だったとか。
このレンガを使った大規模な西洋建築づくりによって、観音寺にレンガ工場ができさまざまな産業が根付いていきます。
■四国水力電気
エネルギーの供給に対する思いは強く、明治29年、坂出の鎌田勝太郎らと讃岐鉄道沿線に電力供給の申請をしていました。
同じエリアにあった西讃電灯の営業成績がふるわないと見た甚右衛門は、明治40年、自ら社長となって
多度津七福神とともに経営にのりだし、明治43年「四国水力電気」と改名、福沢桃介を社長に迎え
(福沢桃介は、四国電力はもとより、木曽川の水力発電、中部・関西地区での電力事業を展開
「日本の電力王」と呼ばれる)自分は副社長となって辣腕をふるいます。
■屋島登山鉄道株式会社
鉄道-銀行-近代建築-電力と進めていった多度津の甚右衛門が次に考えたのが「高松」。
大正8年、多度津七福神、坂出の鎌田勝太郎、高松の細谷宗次郎たちと
高松に、讃岐鉄道よりも早く、高松からこんぴらに参拝客を運ぶための準備をはじめます。
昭和2年には、屋島登山鉄道株式会社をつくりケーブルカーが走ります。
甚右衛門は、高松市周辺に高速電車(コトデンの前身)とケーブルカーを運行させ、
人々が大きく動き、さぬきが繋がっていくプロジェクトを始動させますが当時の技術では、なかなか実現することは難しかったようです。
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