ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

香川県(讃岐)の偉人 「明治期の政治家」大久保 諶之丞について調べました。

2015-01-29 | パソコン

昨年の暮れから 香川県(讃岐)の偉人についてインターネットで調べてブログに書き始めました。
1回目は2014-12-24のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「坂出塩田の父」久米通賢
2回目は2014-12-30のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「讃岐糖業の父」向山周慶
回目は2015-01-07のブログ:香川県(讃岐)の偉人 「香川漆芸の父」玉楮象谷

今回は 明治初期に四国新道・香川用水・瀬戸大橋を提唱したことで知られる
大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう)について、インターネットで調べました。

 大久保 之丞は1849(嘉永2年)に三豊市財田町の
 大地主であった大久保森冶の三男として生まれる。
 1872(明治5年)、財田村吏員、その後郡吏員等を
 経て、1888年(明治21年)に愛媛県会議員、翌年、
 香川県が愛媛県から分離し香川県会議員となる。
 1891(明治24年)、議会での演説中に倒れ、
 42歳で死去。

 私財を投じて道路・橋梁を整備、奨学資金の貸付け、
 病院建設への資金の寄贈等又、讃岐鉄道・北海道移住
 などを提唱・実行する。

 道路開発に情熱を傾け「四国新道開発の父」と称される。

 北海道移住・開拓などにも私財を投じ、
 北海道洞爺湖町では「開拓の父」と称される。
 北海道開拓移民には自ら資金を出し、毎年数百人を
 北海道に移住させた。

 左の画像は財田「たからだの里」に建つ之丞の胸像


大久保 諶之丞の功績を記す碑が各地にあります。財田町と北海道の洞爺村にある碑の文面を

WORDからPDFにして、PDF-VIEWERというソフトを使って画像に変換しました、

  

 

 


大久保が育った財田は、阿讃山脈のふもとに位置しています。
隣の徳島県や高知県に行くためには、険しい猪ノ鼻峠を越えていかなければなりませんでした。
大久保は幼い頃から、人々が踏みわけ道程度の曲がりくねった道を苦労して
峠越えしている様子を見て育ちました。

讃岐の発展、四国の発展のためには、人々が容易に往来することができる道をつくることが
必要であるとの
大久保の思いはこうして形成されました。
  


香川用水は、水源が十分ではない香川県の慢性的な水不足を解消するために建設された多目的水路です。
香川県では降雨量が少なく、大きな河川が少ないため、水不足は深刻で、
満濃池など多くのため池を築いてきたが
十分な用水の確保は出来なかった。
また一方、徳島県も吉野川では大きな洪水による被害が度重なった。

そのため吉野川流域の安全と水の安定供給を目的とした吉野川総合開発事業が計画され、
早明浦ダム、池田ダムとともに
計画の一環として香川用水は建設されることとなり、
開発事業の発表から24年後の1974年に完成した。

香川用水の水源は吉野川にある早明浦ダムで、蓄えられた水は池田ダムから
讃岐山脈を貫通しているトンネルを経て
香川県に導かれ県内一円に
農業用水、水道用水、工業用水を供給している。

            早明浦ダム                    満濃池

  


 讃岐鉄道は多度津の景山甚右衛門が、地元においても 
   鉄道敷設の必要があると判断し、多度津港から、
 金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立した。
 発起人には計画に協力した香川県議会議員の
 大久保 之丞も名を連ねていた。
1888年(明治21年)
    起工された。1889年(明治22年)、通した年に讃岐鉄道
 の初の営業区間である丸亀駅 - 琴平駅間を開業させた。

 日本全国で9番目、四国で伊予鉄道に次ぎ2番目の
 開業となった。
讃岐鉄道の開通式の祝辞で、大久保は 
 瀬戸大橋の構想を
発表しました。
 坂出市番の州の瀬戸大橋記念公園内に大久保諶之丞
 の
銅像があります。


香川県財田町と北海道洞爺村とのつながりは、明治20年(1887 年)5月10日、
洞爺村開拓の父と慕われる
大久保之丞が心血を注い だ「北海道移民計画」に共鳴し、
香川県財田村を中心とする22戸76 名の一団が
原始の洞爺に移り住んでから約120年、
これらの人たちの 努力が実を結び、原始の大地は今は、豊かで美しい土地に姿を変え、

人々 はいきいきと暮らしています。 開拓の第一歩が印されて以来、洞爺村には財田町との縁故の人達も
数 多く、これらの方々にあっては途切れることなく交際がもたれていまし たが、
両町村の組織的な交流は行われていませんでした。

このような状況のなかで昭和49年に財田町から町長と町議一行が 来村され、
「祖先を同じくする縁故を基にして、
今後さらに友好を深め 産業、教育、文化その他の
交流を図りながら両町村発展のため、友愛に よる姉妹町村の盟約を
結ぼう」との話がもち上がり、
洞爺村議会で「盟 約調印」が決議され、昭和50年4月1日に姉妹町村盟約の調印を行い、

財田町と洞爺村の姉妹の契りが結ばれ、以後30有余年にわたり活発な 交流活動がなされてきました。

洞爺湖の画像に大久保諶之丞の画像の切抜きを貼りつけてみました。


 桜の頃に、毎年恒例で行われる財田町のお祭り「諶之丞まつり」
 が
財田町の道の駅たからだの里/戸川ダム公園で行われます。

 1985年、財田町をもっと活力のある、生き生きとしたものにする
 方策は
ないかと町役場に委員会が設置されました
 なかなか結論がでない中、重なる討議の結果、
 『之丞の先見性と実行力を学ぶ村おこし運動』という
 位置づけで
町民の手で、『諶之丞まつり』をやろうと
 いうことになったそうです。