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司馬遼太郎語録

2019-07-19 | 名言の心理学



心理学で読み解く司馬遼太郎の世界(その2)




「脳の局在論」
蔵六(大村益次郎)は、間仕切りのありすぎる頭脳、もしくは精神を持っている。ーーー
間仕切りの1つ一つが絶対の空間になっている。
花神、p348
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脳の局在論は、いまでは古典なのかもしれないが、
それでも、こんな心理状態のとき、脳のどこそこが働いている
というたぐいの話はあいかわらずある。
ただ、昔の局在論と違うのは、
脳全体をネットワーク的にとらえるようになったところ。
脳のある部位の損傷がある行動、心理障害に直結することもあるが、
もう一つは、ネットワーク機能の不全にも目がいくようになった。

医学、軍事技術に特化した頭脳を持つ蔵六に
イネという女性を対面させるところは、圧巻。
どうしてもイネを受け入れる間仕切りがないのだ。



陽気な舞手ならば、
舞手自身がわが芸を大肯定しているがために
少々下手に舞っても
観衆はその陽気にまどわされ、
つい欠点に目がゆかず、
長所にのみ目がゆく。
(司馬遼太郎「新史 太閤記 下」)

「思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的にも飢え、精神的にも飢えている状態に必要なのですね。飢えているからこそ、壮大なフィクションの中に入ることができ、信じることができ、酔いが回ります。回っている間、人間というのは幸福であります。」(司馬遼太郎全講演1、朝日文庫、p110)

慶喜の行動は慶喜自身がつねに支持し、
自分ひとりが支持しているだけで
慶喜はもう自足しているようであった。
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精神の自足主義をひとは美化して剛情と言い、
(慶喜を)剛情公とよんでいる。
(司馬遼太郎「最後の将軍」より)
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才に溺れた最後の将軍なのかもしれない。
才の豊かさは、必ずしもよいことばかりではない。
周りはすべて自分より劣る
したがって、
周りの意見に耳を傾けない
結果としてとんでもない方向へ組織を導いてしまう。
むしろ、愚鈍なリーダーにも活路がある。
反面教師的な機能
周りの自発性を引き出す機能
慶喜が才に溺れて破れ
朝廷の愚鈍さが薩長の力を引き出したのかも<<素人維新論でした。


---あまり小利口小才子では、眼前の物事に眼がうつりすぎて、かえって、身も事もあやまる。---」(司馬遼太郎「竜馬がいく」3(文春文庫))


物事の原理性に忠実である以上、
その行動は狂たらざるをえない」
司馬遼太郎
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原理の最たるものは宗教
宗教は救いの女神であるが
残虐、狂の暴君でもある

最も個人的な原理性は、信念であろう
どんなに陳腐で奇妙奇天烈でも
女神にも狂の暴君にもなる。


革命は3代で成立する
(幕末を例にとれば)

初代は思想家(吉田松陰)
2代目は闘争家(高杉晋作)
3代目は実務家(伊藤俊輔、山形有朋)
(司馬遼太郎)


希望なき社会は、思想なき社会でもあります。
なぜなら、希望が寄せ集まり、昇華し理論化したものが思想になるからです。
歴史小説家・司馬遼太郎氏もこんなことを言っています。
「思想というフィクションは、人間の飢えを必要とします。物質的にも飢え、精神的にも飢えている状態が必要なのですね。飢えているからこそ、壮大なフィクションの中に入ることができる」


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロイン文の兄
吉田松陰を、司馬遼太郎がこんな風に評しているのを紹介して、
起きます
「この若者、吉田松陰は、つねに失敗するために努力をしている。」

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若くして,刑死した松陰
先の見通しもなく信念に従って
学び
行動し
諭す
結果として失敗するのだが、
これが薫陶力なのか、あるいは後ろ姿で導くということなのか
大成する塾生が続出する。


「わかりやすい、だれにでもわかる文章というものには、ごまかしが入る場合があります。自分の知らないこと、自分がちょっとぼんやりしていることをごまかすことがある」(司馬遼太郎全講演集1、p170)


井上馨は、理屈べたの仕事上手。伊藤博文は、理屈上手の仕事下手
(司馬遼太郎)
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職人に多い
理屈はいいからやってみな」
やりながら覚えるのが仕事」
というわけである

時間がかかるが、確実に身につく学びである。
しかし、消えつつある学びでもある

理屈は万能ではないが、強力ではある
理屈と学歴はほぼ連動するが、
それでも個人的な資質も微妙に絡んでくる。


二流、三流の人間にとって
思想を信奉するほど
生きやすい道はない
(司馬遼太郎)
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思想、信念は、思考を怠惰なものにするが
それを補うかのように行為には馬力がつく。
だから、行為の馬力が必要なときは、
2流」3流」の人間が世の中を先導することになる。

認識はわけ知りをつくるだけであった。
わけ知りには、志がない。
志がないところに、社会の前進がないのである。
司馬遼太郎「菜の花の沖」p199
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知と志。
別物であると思う研究者は、ノーベル賞はもらえない。
志ある知的探求こそ研究者の王道だが、
最初から志をもって研究する研究者もまた少ない。
一方、志は研究者を壮大な誤りにも導くリスクがある。

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