19歳で日本に逃れてきた金時鍾は、日本語での詩作活動ばかりではなく、済州島にいたときと同様にコミュニストとして活動をはじめ、日本共産党にも入党した。当然のように、アメリカの傀儡である李承晩韓国政権ではなく、朝鮮民主主義人民共和国を支持する。
俺は義憤を覚える。
俺の歩みは早くなり
服の色が襟元からだんだん赤く染まってくる。
そして俺は人民共和国公民としての肩をはる。
アメリカきらいの
李承晩きらいの
民団きらいの
日本きらいの
これでようやくまともな民族主義者になれたわけ。
「カメレオンの歌」(『日本風土記II』)部分 (II、pp. 166-167)
四肢のほとんどを折られたまま
奴がにじり寄っていうのだ。
"外国人登録を見せろ〃
"登録を出せ"
"登録を出せ〃
俺はすなおに答えて云った。
生れは北鮮で
育ちは南鮮だ。
韓国はきらいで
朝鮮が好きだ。
日本へ来たのはほんの偶然の出来事なんだ。
つまり韓国からのャミ船は日本向けしかなかったからだ。
といって北鮮へも今いきたかあないんだ。
韓国でたった一人の母がミイラのまま待っているからだ。
それにもまして それにもまして
俺はまだ
純度の共和国公民にはなりきってないんだ―・・
「種族検定」(『日本風土記II』)部分 (II、pp. 175-176)
在日の若い詩人たちと「ヂンダレ」という詩誌を立ち上げた。その時代、「社会主義リアリズム」なるくだらない芸術論が席巻していて、多くの芸術家が左翼党派からの政治的干渉に苦しめられていた。若い頃に夢中になって読んでいた詩人のなかにも共産党から除名されたり、自ら党を離れた詩人が何人もいた。
金時鍾はじめ「ヂンダレ」に拠る詩人たちも政治的干渉・批判を受けることになる。上記の二つの詩が収められている『日本風土記II』は、そのような政治的妨害によって発刊不可能になった詩集を、『金時鍾コレクション』を編む際に四散した詩編を採集して復元した貴重な詩集となっている。そのような事情を、詩人自身が語っている。
では「『ヂンダレ』批判」に見るような当時の私の置かれた政治的組織的状況と、『日本風土記II』が立ち消えになつたいきさつをかいつまんで話すとします。
私の第一詩集『地平線』は一九五五年十二月に刊行されましたが、同じ年の五月、在日朝鮮人運動もそれまでの民戦(在口朝鮮統一民主戦線)から朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)へと、組織体が成り変わっていました。まるで中央本部内の宮廷劇のような、ある日突然の運動路線の転換でありました。
朝鮮民主主義人民共和国の直接の指導下に入つたという朝鮮総連の組織的権威は、祖国北朝鮮の国家威信を笠に辺りを払わんばかりに高められていきました。「民族的主体性」なるものがにわかに強調されだして、神格化される金日成元帥さまの「唯一思想体系」の下地均らしに、「主体性確立」が行動原理さながらに叫ばれだしたのです。組織構造が北朝鮮そのままに改編され、日常の活動様式までがこの日本で型どおりに要求されだしました。民族教育はもちろんのこと、創作表現行為のすべてにわたって、認識の同一化が共和国公民として図られていきました。私はそれを「意識の定型化」と看て取りました。
在日世代の独自性を意に介さないどころか、問答無用に払いのけていく朝鮮総連のこのような権威主義、政治主義、画一主義に対して、私は「盲と蛇の押問答」という論稿でもって異を唱えました。一九五七年七月発行の『ヂンダレ』一八号に載ったエッセーです(本コレクシヨン第七巻に収録予定)。蜂の巣をつついたような騒ぎになり、私はいきおい反組織分子、民族虚無主義者の見本に仕立てられていって、総連組織挙げての指弾にさらされるようになりました。ついには北朝鮮の作家同盟からも長文の厳しい批判文「生活と独断」が『文学新聞』に掲載され、金時鐘は「白菜畑のモグラ」と規定されました。即ち排除されなければならない者として批判されたのでした。もちろん日本でも、総連中央機関紙『朝鮮民報』に三回にわたって転載されました。これで私の表現行為の一切が封じられました。『ヂンダレ』ももちろん廃刊となり、会員たちも四散しました。
思想悪のサンプルとなった私は逼塞を余儀なくされていましたが、ほどなくして始まった北朝鮮への煽られるような「帰国事業」熱の隙間を衝いて、私の第二詩集『日本風土記』は前述のように刊行されました。「組織」を見返したい私の、意地の突っ張りでもあった出版でした。立ち消えになった『日本風土記II』の結末は、そのような私への組織的見せしめの処置であったことは明らかでした。
「立ち消えになった『日本風土記II』のいきさつについて」(II、pp276-278)
「生れは北鮮で/育ちは南鮮」の金時鍾は、こうして南からは「共匪」として追われ、北からは「反組織分子、民族虚無主義者」として拒否されることになる。二つに分かれた祖国のどこにも詩人の帰る地、許される場所はなくなったということである。
もとより、祖国を二つに分けることになった北緯三八度線は詩人の心を離れることはなかったろう。第1詩集『地平線』に次のようなフレーズがある。
父と子を割き
母と わたしを 割き
わたしと わたしを 割いた
『三八度線』よ、
あなたをただの紙の上の線に返してあげよう。
「あなたは もう 私を差配できない」 (『詩集 地平線』)部分 (I、pp. 221-222)
詩人の意志する、あるいは希求する『三八度線』が「ただの紙の線」になる日は来るのだろうか。三八度線へ思いは、北への帰国事業が始まることでいっそう強いものとなる。
でも、総連が始めた帰国事業は、僕が組織からの批判を受けることで帰国者対象から外された。新潟の帰国事業センタ—にも出入りできないような立場になっちやった。ですから結局、自分の国に帰る、父の本籍地つまり父祖伝来の地に帰るためには三八度線を越えなくちゃならないのに、自分の国でだめだったし、日本まで来て日本からも三八度線を越えるわけにはいかなかった。
三八度線を越えるだけなら、知ってのとおり北緯三八度線は東に延長すれば新潟市の北側を通っているので、新潟巿を日本海へ抜ければ三八度線は越えられるわけですね。「ではその三八度線を越えたとして、おまえはどこに行くのか」という、とどのつまりの問題に突き当たることになる。
「インタヴュー 宿命の緯度を越える」(II、p. 354)
三八度線への想いはこらえがたく、詩人はその緯度の東の延長線上近くの新潟、北への帰国船が出る新潟港へと向かう。その想いは、長編詩集『新潟』に結実する。
北への帰国事業が始まるずっと以前、祖国へ帰国する船の第1便はおそらく1945年8月15日の終戦直後、8月22日に青森県大湊から舞鶴港を経て帰国する予定だった三千人を超える帰国朝鮮人が乗った浮島丸だったろう。だが、浮島丸は何者かに爆沈されて舞鶴港沖に沈み、三千余名の祖国への帰還はならなかった。
新潟沖を航行していったであろう浮島丸と祖国への帰還を喜んでいたであろう朝鮮同胞への想いの詩も『新潟』には納められている。
ひしめきあい
せめぎあった
トンネルの奥で
盲いた
蟻でしかなくなった
同胞が
出口のない
自己の迷路を
それでも
掘っていた。
山ひだを
斜めに
穿ち
蛇行する
意志が
つき崩す
ショベルの
先に
八月は
突然と
光ったのだ。
なんの
前触れもなく
解放は
せかれる
水脈のように
洞窟を洗った。
人が
流れとなり
はやる心が
遠い家鄉目ざして
渚を
埋めた。
狂おしいまでの
故郷を
分かちもち
自己の意志で
渡ったことのない
海を
奪われた日日へ
立ち帰る。
それが
たとえの遍路であろうと
さえぎりようのない
潮流が
大湊を
出た。
炎熱に
ゆらぐ
熱風のなかを
蛸壷へ吸い寄る
章魚のように
視覚を
もたぬ
吸盤が
一途に
母の地を
まさぐった。
袋小路の
舞鶴湾を
這いずり
すっかり
陽炎に
ひずんだ
浮島丸*が
未明。
夜の
かげろうとなって
燃えつきたのだ。
五十尋の
海底に
手繰りこまれた
ぼくの
帰郷が
爆破された
八月とともに
今も
るり色の
海にうずくまったままだ。
*浮島丸=終戦直後、帰国を急ぐ朝鮮人のために輸送船に仕立てられた軍用船。一九四五年八月二二日、青森県大湊から強制徴用による朝鮮労務者三〇〇〇余名と、便乗した在留朝鮮人家族ら、合わせて総数三七三五人が乗り合わせて釜山へ向け出港したが、水、食品等の補給のためと称し舞鶴沖に投錨したまま、八月二四日午後五時ごろ時限爆弾によって爆沈された。確認された遺体は乳幼児を含む五四二人で、乗船者の約半数以上が確認できない犠牲者となった。現在も東京目黒区の祐天寺には、一一八五体の遺骨が一三〇〇余柱の朝鮮人軍人、軍属の遺骨とともに、引き取り手のないまま、今もって置き忘れた遺失物のように保管されている。
「II 雁木のうた 1」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 118-124)
三八度線近い新潟の地で西に延びて朝鮮半島の分断線となる三八度線、分けられた二つのどちらの国へも帰ることのできない詩人の悲しみや絶望は、私の想像のはるか彼方にあるばかりだ。
すでに人跡を絶った
有史前の
断層が
北緯38度なら
その緯度の
ま上に
立っている
帰国センターこそ
わが
原点だ!
ああ船が見たい!
豪雪の下を
雪国びとが
千年にわたって
編んできた
雁木道を
くぐり
海へ
出た。
この人たちこそ
道
というものを
あらかじめ
持っていた人たちだろう。
あの人は行ったわ!
かくまきの奥で
いたずらっぽく
ほほえんでいる
眼。
あいつは
またしても
ぼくをだし抜いたか!
「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 101-103)
ぼくこそ
まぎれもない
北の直系だ!
入江の祖父に聞いてくれ――。
祖父?
いぶかる頤に
髭が長くのびている!
ぼくです!
宗孫の時鐘です!
叫びが
一つの形をとって落ちてくる瞬間が
この世にはある。
わしの孫なら山に行ったよ。
銃をとってな―・・
冷ややかな
この一瞥(いちべつ)。
ああ
肉親にすら
俺の生成の闘いは知らぬ!
その祖国が
銃のとれる
俺のために必要なんだ!
「III 緯度が見える 3」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 223-224)
誰に許されて
帰らねばならない国なのか。
積みだすだけの
岸壁を
しつらえたとおり去るというのは
滞る貨物に
成りはてた
帰国が
ぼくに
あるというのか
もろに
音もなく
積木細工の
城が
崩れる。
切り立つ緯度の崖を
ころげ落ち
平静に
敷きつもる
奈落の日日を
またしてもくねりだすのは
貧毛類のうごめきだ。
「III 緯度が見える 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (pp. 245-246)
新潟にそそぐ
陽がある。
風がある。
堆(うずたか)く
雪に閉ざされる季節の
と絶えがちな道がある。
いりまじる電波にさえ
いりまじる電波にさえ
ぼくの帰国を
せめて
埠頭に立てるだけの
脚にしてくれ。
瞼に打ちつけて
くずれる波に
とびかう地平の
鳥を見よう。
海溝を這い上がった
亀裂が
鄙びた
新潟の
巿に
ぼくを止どめる。
忌わしい緯度は
金剛山の崖っぷちで切れているので
このことは
誰も知らない。
ぼくを抜け出た
すべてが去った。
茫洋とひろがる海を
一人の男が
歩いている。
「III 緯度が見える 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (pp. 249-251)
「ぼくこそ/まぎれもない/北の直系だ!」という詩人の願いは三八度線を越えることだが、それが叶わない身であれば「その緯度の/ま上に/立っている/帰国センターこそ/わが/原点だ!」と心に決するしかない。
「ぼくを抜け出た/すべて……」のなかに、「またしても/ぼくをだし抜いた……」男がいて、「茫洋とひろがる海を」渡っていくのである。海の向こうにつながる北緯三八度線を越えて祖国へ帰るべく、幻影の人となって海を渡っていくのである。幻影人ともなれば、浮島丸の三千余名の霊といっしょに祖国に帰ることができるのではないか。
街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)
日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫