かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

〈読書メモ〉 二つの祖国(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年))

2024年09月29日 | 読書

 19歳で日本に逃れてきた金時鍾は、日本語での詩作活動ばかりではなく、済州島にいたときと同様にコミュニストとして活動をはじめ、日本共産党にも入党した。当然のように、アメリカの傀儡である李承晩韓国政権ではなく、朝鮮民主主義人民共和国を支持する。

俺は義憤を覚える。
俺の歩みは早くなり
服の色が襟元からだんだん赤く染まってくる。
そして俺は人民共和国公民としての肩をはる。
アメリカきらいの
李承晩きらいの
民団きらいの
日本きらいの
これでようやくまともな民族主義者になれたわけ。
 「カメレオンの歌」(『日本風土記II』)部分 (II、pp. 166-167)

四肢のほとんどを折られたまま
奴がにじり寄っていうのだ。
"外国人登録を見せろ〃
"登録を出せ"
"登録を出せ〃
俺はすなおに答えて云った。
生れは北鮮で
育ちは南鮮だ。
韓国はきらいで
朝鮮が好きだ。
日本へ来たのはほんの偶然の出来事なんだ。
つまり韓国からのャミ船は日本向けしかなかったからだ。
といって北鮮へも今いきたかあないんだ。
韓国でたった一人の母がミイラのまま待っているからだ。
それにもまして それにもまして
俺はまだ
純度の共和国公民にはなりきってないんだ―・・
 「種族検定」(『日本風土記II』)部分 (II、pp. 175-176)

 在日の若い詩人たちと「ヂンダレ」という詩誌を立ち上げた。その時代、「社会主義リアリズム」なるくだらない芸術論が席巻していて、多くの芸術家が左翼党派からの政治的干渉に苦しめられていた。若い頃に夢中になって読んでいた詩人のなかにも共産党から除名されたり、自ら党を離れた詩人が何人もいた。
 金時鍾はじめ「ヂンダレ」に拠る詩人たちも政治的干渉・批判を受けることになる。上記の二つの詩が収められている『日本風土記II』は、そのような政治的妨害によって発刊不可能になった詩集を、『金時鍾コレクション』を編む際に四散した詩編を採集して復元した貴重な詩集となっている。そのような事情を、詩人自身が語っている。

 では「『ヂンダレ』批判」に見るような当時の私の置かれた政治的組織的状況と、『日本風土記II』が立ち消えになつたいきさつをかいつまんで話すとします。
 私の第一詩集『地平線』は一九五五年十二月に刊行されましたが、同じ年の五月、在日朝鮮人運動もそれまでの民戦(在口朝鮮統一民主戦線)から朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)へと、組織体が成り変わっていました。まるで中央本部内の宮廷劇のような、ある日突然の運動路線の転換でありました。
 朝鮮民主主義人民共和国の直接の指導下に入つたという朝鮮総連の組織的権威は、祖国北朝鮮の国家威信を笠に辺りを払わんばかりに高められていきました。「民族的主体性」なるものがにわかに強調されだして、神格化される金日成元帥さまの「唯一思想体系」の下地均らしに、「主体性確立」が行動原理さながらに叫ばれだしたのです。組織構造が北朝鮮そのままに改編され、日常の活動様式までがこの日本で型どおりに要求されだしました。民族教育はもちろんのこと、創作表現行為のすべてにわたって、認識の同一化が共和国公民として図られていきました。私はそれを「意識の定型化」と看て取りました。
 在日世代の独自性を意に介さないどころか、問答無用に払いのけていく朝鮮総連のこのような権威主義、政治主義、画一主義に対して、私は「盲と蛇の押問答」という論稿でもって異を唱えました。一九五七年七月発行の『ヂンダレ』一八号に載ったエッセーです(本コレクシヨン第七巻に収録予定)。蜂の巣をつついたような騒ぎになり、私はいきおい反組織分子、民族虚無主義者の見本に仕立てられていって、総連組織挙げての指弾にさらされるようになりました。ついには北朝鮮の作家同盟からも長文の厳しい批判文「生活と独断」が『文学新聞』に掲載され、金時鐘は「白菜畑のモグラ」と規定されました。即ち排除されなければならない者として批判されたのでした。もちろん日本でも、総連中央機関紙『朝鮮民報』に三回にわたって転載されました。これで私の表現行為の一切が封じられました。『ヂンダレ』ももちろん廃刊となり、会員たちも四散しました。
 思想悪のサンプルとなった私は逼塞を余儀なくされていましたが、ほどなくして始まった北朝鮮への煽られるような「帰国事業」熱の隙間を衝いて、私の第二詩集『日本風土記』は前述のように刊行されました。「組織」を見返したい私の、意地の突っ張りでもあった出版でした。立ち消えになった『日本風土記II』の結末は、そのような私への組織的見せしめの処置であったことは明らかでした。
  「立ち消えになった『日本風土記II』のいきさつについて」(II、pp276-278)

 「生れは北鮮で/育ちは南鮮」の金時鍾は、こうして南からは「共匪」として追われ、北からは「反組織分子、民族虚無主義者」として拒否されることになる。二つに分かれた祖国のどこにも詩人の帰る地、許される場所はなくなったということである。
 もとより、祖国を二つに分けることになった北緯三八度線は詩人の心を離れることはなかったろう。第1詩集『地平線』に次のようなフレーズがある。

父と子を割き
母と わたしを 割き
わたしと わたしを 割いた
『三八度線』よ、
あなたをただの紙の上の線に返してあげよう。
 「あなたは もう 私を差配できない」 (『詩集 地平線』)部分 (I、pp. 221-222)

 詩人の意志する、あるいは希求する『三八度線』が「ただの紙の線」になる日は来るのだろうか。三八度線へ思いは、北への帰国事業が始まることでいっそう強いものとなる。

 でも、総連が始めた帰国事業は、僕が組織からの批判を受けることで帰国者対象から外された。新潟の帰国事業センタ—にも出入りできないような立場になっちやった。ですから結局、自分の国に帰る、父の本籍地つまり父祖伝来の地に帰るためには三八度線を越えなくちゃならないのに、自分の国でだめだったし、日本まで来て日本からも三八度線を越えるわけにはいかなかった。
 三八度線を越えるだけなら、知ってのとおり北緯三八度線は東に延長すれば新潟市の北側を通っているので、新潟巿を日本海へ抜ければ三八度線は越えられるわけですね。「ではその三八度線を越えたとして、おまえはどこに行くのか」という、とどのつまりの問題に突き当たることになる。
 「インタヴュー 宿命の緯度を越える」(II、p. 354)

 三八度線への想いはこらえがたく、詩人はその緯度の東の延長線上近くの新潟、北への帰国船が出る新潟港へと向かう。その想いは、長編詩集『新潟』に結実する。
 北への帰国事業が始まるずっと以前、祖国へ帰国する船の第1便はおそらく1945年8月15日の終戦直後、8月22日に青森県大湊から舞鶴港を経て帰国する予定だった三千人を超える帰国朝鮮人が乗った浮島丸だったろう。だが、浮島丸は何者かに爆沈されて舞鶴港沖に沈み、三千余名の祖国への帰還はならなかった。
 新潟沖を航行していったであろう浮島丸と祖国への帰還を喜んでいたであろう朝鮮同胞への想いの詩も『新潟』には納められている。

ひしめきあい
せめぎあった
トンネルの奥で
盲いた
蟻でしかなくなった
同胞が
出口のない
自己の迷路を
それでも
掘っていた。
山ひだを 
斜めに
穿ち
蛇行する
意志が
つき崩す
ショベルの
先に
八月は
突然と
光ったのだ。
なんの
前触れもなく
解放は
せかれる
水脈のように
洞窟を洗った。
人が
流れとなり
はやる心が
遠い家鄉目ざして
渚を
埋めた。
狂おしいまでの
故郷を
分かちもち
自己の意志で
渡ったことのない
海を
奪われた日日へ
立ち帰る。
それが
たとえの遍路であろうと
さえぎりようのない
潮流が
大湊を
出た。
炎熱に
ゆらぐ
熱風のなかを
蛸壷へ吸い寄る
章魚のように
視覚を
もたぬ
吸盤が
一途に
母の地を
まさぐった。
袋小路の
舞鶴湾を
這いずり
すっかり
陽炎に
ひずんだ
浮島丸*が
未明。
夜の
かげろうとなって
燃えつきたのだ。
五十尋の
海底に
手繰りこまれた
ぼくの
帰郷が
爆破された
八月とともに
今も
るり色の
海にうずくまったままだ。
*浮島丸=終戦直後、帰国を急ぐ朝鮮人のために輸送船に仕立てられた軍用船。一九四五年八月二二日、青森県大湊から強制徴用による朝鮮労務者三〇〇〇余名と、便乗した在留朝鮮人家族ら、合わせて総数三七三五人が乗り合わせて釜山へ向け出港したが、水、食品等の補給のためと称し舞鶴沖に投錨したまま、八月二四日午後五時ごろ時限爆弾によって爆沈された。確認された遺体は乳幼児を含む五四二人で、乗船者の約半数以上が確認できない犠牲者となった。現在も東京目黒区の祐天寺には、一一八五体の遺骨が一三〇〇余柱の朝鮮人軍人、軍属の遺骨とともに、引き取り手のないまま、今もって置き忘れた遺失物のように保管されている。
 「II 雁木のうた 1」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 118-124)

 三八度線近い新潟の地で西に延びて朝鮮半島の分断線となる三八度線、分けられた二つのどちらの国へも帰ることのできない詩人の悲しみや絶望は、私の想像のはるか彼方にあるばかりだ。

すでに人跡を絶った
有史前の
断層が
北緯38度なら
その緯度の
ま上に
立っている
帰国センターこそ
わが
原点だ!
ああ船が見たい!
豪雪の下を
雪国びとが
千年にわたって
編んできた
雁木道を
くぐり
海へ
出た。
この人たちこそ

というものを
あらかじめ
持っていた人たちだろう。
あの人は行ったわ!
かくまきの奥で
いたずらっぽく
ほほえんでいる
眼。
あいつは
またしても
ぼくをだし抜いたか! 
 「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 101-103)

ぼくこそ
まぎれもない
北の直系だ!
入江の祖父に聞いてくれ――。
祖父?
いぶかる頤に
髭が長くのびている!
ぼくです!
宗孫の時鐘です!
叫びが
一つの形をとって落ちてくる瞬間が
この世にはある。
 わしの孫なら山に行ったよ。
 銃をとってな―・・
冷ややかな
この一瞥(いちべつ)。
ああ
肉親にすら
俺の生成の闘いは知らぬ!
その祖国が
銃のとれる
俺のために必要なんだ!
 「III 緯度が見える 3」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 223-224)

誰に許されて
帰らねばならない国なのか。
積みだすだけの
岸壁を
しつらえたとおり去るというのは
滞る貨物に
成りはてた
帰国が
ぼくに
あるというのか
もろに
音もなく
積木細工の
城が
崩れる。
切り立つ緯度の崖を
ころげ落ち
平静に
敷きつもる
奈落の日日を
またしてもくねりだすのは
貧毛類のうごめきだ。
 「III 緯度が見える 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (pp. 245-246)

新潟にそそぐ
陽がある。
風がある。
堆(うずたか)く
雪に閉ざされる季節の
と絶えがちな道がある。
いりまじる電波にさえ
いりまじる電波にさえ
ぼくの帰国を
せめて
埠頭に立てるだけの
脚にしてくれ。
瞼に打ちつけて
くずれる波に
とびかう地平の
鳥を見よう。
海溝を這い上がった
亀裂が
鄙びた
新潟の
巿に
ぼくを止どめる。
忌わしい緯度は
金剛山の崖っぷちで切れているので
このことは
誰も知らない。
ぼくを抜け出た
すべてが去った。
茫洋とひろがる海を
一人の男が
歩いている。 
 「III 緯度が見える 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (pp. 249-251)

 「ぼくこそ/まぎれもない/北の直系だ!」という詩人の願いは三八度線を越えることだが、それが叶わない身であれば「その緯度の/ま上に/立っている/帰国センターこそ/わが/原点だ!」と心に決するしかない。
 「ぼくを抜け出た/すべて……」のなかに、「またしても/ぼくをだし抜いた……」男がいて、「茫洋とひろがる海を」渡っていくのである。海の向こうにつながる北緯三八度線を越えて祖国へ帰るべく、幻影の人となって海を渡っていくのである。幻影人ともなれば、浮島丸の三千余名の霊といっしょに祖国に帰ることができるのではないか。



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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (13)

2024年09月27日 | 脱原発

2015531

 採択されたデモの集会アピールには「沖縄への連帯をこめて」という言葉が添えられていた。沖縄・辺野古は、日本の民主主義の闘いの最も突出した現場であり、もっとも鮮烈な象徴の場所である。
 石川為丸という詩人がいる。本土で生れ、沖縄で暮らし、悲しみと憤りを言葉にした詩人だ。私が初めて手に入れることができた1冊の彼の詩集『島惑ひ 私の』は、石川為丸の最後の詩集であった。

仏桑華の赤は あくまでも鮮やかに 島での悲しみはまだ、
終わってはいけないとでもいうかのように 降りそそぐ
ひかりのなかに、顕つひとが見えていたのだ 樹の宿題を
残したままの島惑い 私はそのとき、どこにも属すると
ころのない 異風な声の、なにものかによばれているよう
だったから

       「樹の宿題」(部分) [1]

 20141116日の日曜日、沖縄県知事選挙の日、オール沖縄の闘いが実って翁長雄志さんが勝利した日、沖縄県民の喜びが沸騰し、新たな闘いに踏み出した日、その記念すべき日に、那覇の自宅で石川為丸はこの世を去った。沖縄の闘いに連帯し続けた64歳の孤独死だった。
 沖縄は遠いが、集会のなかで石川為丸の詩の言葉を少しばかり反芻していた。あいかわらず、デモが進む日曜日の一番町は祝祭のように賑わっている。蕩尽の祝祭と言ったら、すこし民俗学ふうで意味ありげに聞こえるが、ただの消費の祭りだ。沖縄の現在とどうイメージを繋げばいいのだろう。

八月の園芸は 水やりが毎日の作業となる
鉢植えの花木は 一日でも水やりを忘れると
強烈なダメジを受けることになる
だから土砂降りが待たれるのだ
雨乞いの祈り
二ューギニアのどこそこの部族には
必ず雨が降るという方法があるそうだ
それは続けること 雨が降るまで祈りを続けるということ
沖縄の八月
空から雨の降らない日は続くけれど
空から異様なものが落ちてくることがある
米軍のへリコプターだ
二〇〇四年八月一三日 大型輸送へリコプターCH53D
沖縄国際大学の構内に墜落
今年二〇一三年八月五日 HH60ペイブホーク
キャンプハンセン敷地内に墜落
にもかかわらず、欠陥機の垂直離着陸輸送機オスプレイは
強行配備され訓練飛行しているのだ
雨乞いの祈りはそれを続ければよかったが
では米軍機の墜落を避けるにはどうすればよいか
簡単だけれど難しい
難しいけれど簡単なこと
米軍機を飛行させないことだ
沖縄の園芸家は額を上げる
怒りに燃えるようなホウオウボクの花々!
沖縄の八月は
今日も水やり
明日も水やり
つづけることだ

       八月の園芸家」(部分) [2]

発芽抑制物質をとばす方法を 内地の人に教えたうえで
園芸家はガジュマルの種子を配布する
受けとった諸君は
播種して七日めにはとても小さな双葉を発見するだろう
生まれたものの弱々しさと
生きようとする意志の不敵なひらめきを諸君は見るだろう
そして そのとき 諸君の耳に
はてしなくつづく芽の行進のどよめきが
かすかにきこえるだろう
そう 沖縄の地から発せられる 芽の行進のどよめきが

     「四月の園芸家」(部分) [3]

 私たちのデモ、アピール行進は、「沖縄の地から発せられる芽の行進」に連なっているだろうか。私たちのコールは、「芽の行進のどよめき」を伝えることができただろうか。
 連なっていると思いたいし、伝えることができたと信じたい。たとえ、そうでなくても、「今日も水やり/明日も水やり/つづけることだ」。それはきっとできる。

[1] 石川為丸(石川為丸遺稿詩集刊行委員会編)『島惑ひ 私の』(榕樹書林、2015年) pp. 8-9
[2]
同上、pp. 97-9
[3]
同上、pp. 110-1

 

2015731

 古い友人から暑中見舞いが届いた。東北大学理学部を卒業し、東京で職業人を終え、今は故郷の北九州で暮らしている。厳しく労働運動を生き抜いた友人らしい葉書だ。涼しげな花火模様の暑中見舞葉書の中央に朱文字で書かれているのはたった2行だけだ。

 安保法制断固反対
 原発再稼働許さじ

 暑中見舞などほとんど書いたことのない私は、さてどんな返事にしたものか思案中だが、この2行以外はすべからく枝葉末節に思えてしまうのが辛い。
  (中略)
 広瀬通りを渡ると、フォーラス前でSEALDs_TOHOKUのメンバーが街宣していたのだが、顔見知りがさきほどのチラシを配っていた。どちらかといえば「ミドルズ」なのだが、応援を買って出たらしい
 SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)が主催する「戦争法案に反対する国会前抗議行動」が圧倒的な動員力を発揮し続けている。それをきっかけに学生を初めとする若者たちが全国各地で声を上げ始めた。
 仙台でもSEALDs_TOHOKUが発足し、89日(日)に最初の抗議行動を起こす。私はミドルズをさらに越えていて「ジールズ」とでも呼ばれるべき年齢だが、せめて後方からでも応援したくて花京院緑地公園には行ってみるつもりだ。
 SEALDsのめざましい動員力をマスコミが積極的に報道するようになったせいか、一方でSEALDsに対する卑劣な中傷、恐喝が始まっている。ネトウヨ市議がSEALDs に参加する学生は就職が難しいなどという脅迫じみた内容をフェイスブックに投稿したり、堀江貴文なる人物が「私なら採用しない」などと、その脅迫投稿に便乗したような発言をしている。挙句の果てに、SEALDs は革マルから資金提供を受けているなどいうデマを政権中枢で口走っているというニュースまで流れている。
 こうした動きは、自公政権がSEALDs を初めとする広範な国民の反対行動に恐れをなして、焦っているためだろうというのが大方の見方である。その辺のことは、730日付けの朝日新聞や31日付けの日刊ゲンダイが取り上げている。
 朝日新聞の記事では企業の人事採用担当者がデモに参加することと人事採用とはまったく関係がないと断言しているし、日刊ゲンダイの記事はこのような権力サイドの誹謗中傷で国民の抗議行動を抑えるのは難しいというコメントで締め括っている。いずれにせよ、安倍自公政権ないしはその周辺の悪あがきに過ぎない。
 私も定年間近の2年間、学科の就職担当教授なるものを引き受けて、多くの企業の人事担当者と話をしたり、就職活動する学生の推薦書を書く仕事を担当いたことがある。その経験から言えば、SEALDsのような活動を立ち上げたり、それに参加するような学生ほど就職に有利だとしか思えないのである。
 優良な企業ほど学生を見る眼がしっかりしていて、学生の社会性、積極性、自発的な解決能力などを高く評価する傾向にある。そして面接などを通じてそのような人材を見抜く目を持っている。短期的に使い捨てるような人材なら何も考えないような学生でもいいだろうが、長期的な視野を持つ会社ほどその傾向が強い。
 多くの人間を組織し、社会のルールに則った抗議行動を企画し、そのうえで自治体や警察ときちんと交渉して公園の使用許可やデモの許可などをもらうという一連のことができる能力を持つ学生をまともな企業が放っておくはずがないのだ。
 証券取引法違反で自らも有罪判決を受け、ライブドアを上場廃止にした堀江貴文が、抗議活動をするような学生を「私なら採用しない」と言ったことは、学生を送る側の立場からは歓迎すべき発言なのだ。そのような経営者がいる企業に優秀な学生を就職させたくはないのだから、経営者の方で採用しないというのはたいへん喜ばしいのである。ブラック企業に就職したい学生なんていないのだから。


 


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(18)

2024年09月25日 | 脱原発

2014年11月21日

 選挙の話はいつでも楽しくないのだが、沖縄知事選は久しぶりに良いニュースだった。自民党(の一部)から共産党まで辺野古基地反対のオール沖縄が、自民党の現職知事を大差で破った。勝ったことよりも、オール沖縄という布陣ができたということの意味が大きい。それぞれの政党、団体が狭隘な党派性を乗り越えられたという意味は大きい。

 沖縄からはさらに良いニュースが届いた。22日の沖縄タイムスの記事である。

国政野党の社民党県連、共産党県委員会、生活の党県連は、知事選で辺野古反対の翁長雄志次期知事を誕生させた県政野党や那覇市議会保守系の新風会などによる「建白書」勢力の枠組みを衆院選でも維持。1区で共産が赤嶺政賢氏(66)、2区で社民が照屋寛徳氏(69)、3区で生活が玉城デニー氏(55)の前職3氏を擁立し、4区は新人・無所属で元県議会議長の仲里利信氏(77)を擁立する方針。 

 沖縄全ての選挙区で知事選のオール沖縄の枠組みで選挙協力が実現するというのだ。このような政治におけるきわめて現実的な決断は、沖縄の苦難の歴史なしには実現できなかっただろう。苦しみと悲しみが沖縄の人びとを鍛えたに違いないのだ。
 それに比べ、わがヤマトンチュウはどうだろう。沖縄を犠牲にしてノホホンと生きてきて、「よりましな政権のために選挙協力を」と「信頼できない政党と組む野合は間違っている」という争いの真っ最中なのである。
 うんざりするが、諦めてはいられない。今日のFBでも、次のようなやりとりがあって、私は元気づけられるのである。

Hiroshi Matsuura いいですね、肝に銘じたいです。否定的なことを言わない。不屈のオプティミストであるべきですよね。
小野寺 秀也 Matsuuraさん 「不屈のオプティミスト」、いいですね。使わせてもらっていいですか。「不屈のオポチュニスト」にならないように気をつけますので……
Hiroshi Matsuura もちろんです。しかし、「不屈のオポチュニスト」って面白い表現ですね。断固として「長いものに巻かれる」「勝ち馬に乗る」…… 考えて見ると、日本人のメンタリティーそのものですね。


2014年12月21日

 しばらくぶりで本屋に出かけた。そこでまだ読んでいなかったアガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』 [1] を見付けた。ついでに仙台市民図書館に寄って、1ヶ月ほど前に読んだスティグレールの『象徴の貧困』 [2] をもう一度借り出した。そのときアルチュセールの『マルクスのために』 [3] という本を見付けた。この本は、昔、『甦るマルクス』というタイトルで出版されていたものの再刊だというが、何十年ぶりかで読んでみようと思い立ってこれも借りてきた。家に帰って、スティグレールの本に関連するだろうと、納戸を掻き回してボードリヤールの『象徴交換と死』 [4] を探し出した。
 アガンベンの本は、アウシュヴィッツに収容された人びとの「証言」を取り上げて、歴史的な極限状況について言葉による証言の可能性(不可能性)を論じたものだが、そこに「der Muselmann」と呼ばれる収容者についての証言が紹介されている。
 ムーゼルマンは直訳すれば「回教徒」という意味だが、一般のモスレムではけっしてない。人間としての心を失い、飢えと病気で死に絶えんばかりの肉体がモスレムの祈りの姿のように地面にうずくまる姿勢からそう呼ばれたのだという説がある。
 ムーゼルマンは、「あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人」であり、「よろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎ」 (p. 51) ない囚人である。ムーゼルマンは「ゴルゴンを見た者」 (p. 67) だ。ゴルゴンを見た者は人間ではなくなり、死に至り、 決して人間の側へ戻ってくることはない。
 ムーゼルマンのことを読みながら、気になる一節があった。日本の選挙の時期に、選挙のことどもを連想するというあまりに卑近な私の妄想を少し恥じ入りながら、あえて紹介しておく。W. Sofskyの著作からの引用である。

回教徒は絶対権力の人間学的な意味をきわめてラディカルな形で体現している。じっさい、殺すという行為においては、権力はみずからを廃棄してしまう。他者の死は社会的関係を終らせるからである。反対に、権力は、みずからの犠牲者を飢えさせ、卑しめることによって、時間をかせぐ。そして、このことは権力に生と死のあいだにある第三の王国を創設することを可能にさせる。死体の山と同様に、回教徒もまた、人間の人間性にたいする権力の完全な勝利のあかしなのである。まだ生きているにもかかわらず、そうした人間は名前のない形骸となっている。こうした条件を強いることによって、体制は完成を見るのである。 (p. 60)

 アガンベンも本の後半で論じているように、ナチスがアウシュヴィッツで成し遂げたことは、ミシェル・フーコーの「生政治」の極限の形態である。権力は人民の生殺与奪の権利として定義される。かつての専制権力は殺す権力であったのだが、近代の生政治は「生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる」 (p. 109) のである。
 私がSofskyの言葉から想像したのは、ムーゼルマンの過酷な運命でもなく、ましてや生政治に関する深遠な思想的考察でもない。「ムーゼルマン」は現代日本社会におけるいわゆる「D層」ではないか、そう思ったのである。

日本社会の階層図(ブログ「WJFプロジェクト」からの借用)

 上の図は、小泉内閣の政治戦略マーケティングのためにある広告会社が考えた日本社会の階層を表わしている。横軸を「新自由主義に肯定的(否定的)」とすればもう少し一般性が高まるだろうが、縦軸はもう少しなにか適切な基準があるかも知れない。
 IQは「生活年齢と精神(知能)年齢の比」として定義されるので、小学生レベルの漢字の読み書きに難のある60歳と74歳のIQはかなり低いと判定される。にもかかわらず、その二人がA層のもっとも象徴的な内閣総理大臣と副総理大臣だというのはこの図の信頼性を貶めている。もちろん、このようなカテゴライゼーションには例外が必ず存在するが、例外として首相と蔵相をA層から放逐したら政治的報復の怖れはないのか。
 憎まれ口はさておき、選挙を左右しているのはマジョリティであるB層だというのは間違いないだろう。そして、D層こそは、近代生政治によって「生かしながら死ぬがままにして」おかれた人びとだろう。D層の人びとは、湯浅誠が描く [5] ように、貧困と生活に追われて政治参画などは考えようがない。いわば、貧困によってあたかも政治からも社会からも隔離されるように生きている層ではないのだろうか。
 そして、安倍政権は「雇用が増えた」と誇るが、じっさいは正規雇用が減って非正規が増加しているということに過ぎない。つまり、安倍政権はB層の人びとをD層に押し出す政策に奔走しているのである。今、日本の社会はアウシュヴィッツのような生政治の極限に向かって走っているというしかない。
 にもかかわらず、将来のD層予備軍であるB層の人びとによって自公政権は衆議院選挙で勝つのである。どう考えても自殺行為だ。「時の権力のイメージ戦略のままに死の崖に突っ走るレミングの群れ」というのはさすがに言い過ぎで心苦しいが、B層こそが私たちがいつでも呼びかけるべき層であることは間違いない。現状の社会ステムでは、マジョリティであるB層が変わらない限り、政治状況を変えられないのだから。 

[1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)。
[3] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。
[4] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年)。
[5] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。


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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(9)

2024年09月23日 | 脱原発

2015年5月1日

 福島第一原発事故以降、低線量被曝による小児ガンのリスクは欧州でも関心を呼んでいる。こうした中、スイス・ベルン大学が2月末に発表した研究は、低線量でも線量の増加と小児ガンのリスクは正比例だとし、「低線量の環境放射線は、すべての小児ガン、中でも白血病と脳腫瘍にかかるリスクを高める可能性がある」と結論した。毎時0.25マイクロシーベルト以下といった低線量被曝を扱った研究は今でも数少なく、同研究はスイスやドイツの主要新聞に大き く取り上げられ反響を呼んだ。

 このような書き出しで始まるきわめて重要なニュースが「swissinfo.ch」に掲載された。ベルン大学社会予防医学研究所のグループは、スイス全土の宇宙線と大地放射線、及びチェルノブイリ事故後のセシウム137を4平方キロメートルごとに測定してマッピングした「Raybachレポート」を用い、1990年から2008年までの小児ガン患者1782人の住んでいた場所の環境放射線による毎時の放射線量と生まれたときから調査時までに浴びた総線量の両面からガンにかかるリスクを分析した。

 その結果、数値としては「生まれたときから浴びた総線量において、総線量が1ミリシーベルト増えるごとに4%ガンにかかるリスクが増える」を結果として提示した。

 スイス国民が受ける環境放射線量の平均は109nSv/hr(約0.1μSv/hr)、山岳部には0.2μSv/hrを超えるところもあって、この地域差はガン発生リスクに反映されている。チェルノブイリ由来のセシウム137による被ばくは約8nSv/hr(約0.008μSv/hr)に過ぎない。
 この結果は、福島の帰還区域の年間被ばくを20mSvとすることが、いかに国民の生命、健康をないがしろにする決定であるかを証明している。もちろん、100mSv(あるいは200mSvや500mSv)以下なら健康に影響がないとする「閾値仮説」がでたらめであることも証明している。いま、世界の趨勢は、発ガンや遺伝子異常は被ばく線量に正比例するという「直線閾値比例仮説」に従うようになっている。
 原発推進の国々に主導される国際放射線防護委員会ですら、一般人の年間被ばく限度を1~20mSvとして各国の裁量で定めるよう勧告しているのは、「閾値仮説」を採用できないことの証左でもある。閾値が存在するなら。その値を勧告すればいいのであるが、それができないということだ。
 「自然には放射能が存在しているのだから、低線量の被ばくは問題ないのだ」という俗説が流布している。文科省が作製した『小学生のための放射線副読本 ~放射線について学ぼう~』には、「放射線は、宇宙から降り注いだり、地面、空気、そして食べ物から出たりしています。また、私たちの家や学校などの建物からも出ています。目に見えていなくても、私たちは今も昔も放射線のある中で暮らしています」という、あたかも放射線は空気か水のようなものと思わせるような記述がある。そして、自然から受ける年間の被ばく線量が2.1mSvだと記している。
 これは、数mSvという放射線被ばくは何でもないことだという印象操作(悪く言えば「洗脳」)にしか思えない。「総線量が1ミリシーベルト増えるごとに4%ガンにかかるリスクが増える」のであれば、1mSvか2mSvかはとても重要な因子のはずだ。
 ベルン大学の研究が明らかにしたことは、自然放射線もまた発ガンや遺伝子異常のはっきりした原因となっているということだ。つまり、宇宙線や自然放射線も生命にとっては「危険因子」だということである。宇宙線や自然放射能は存在しない方が望ましいのである。残念ながら、生命はこのような地球に発生し、放射線を含むさまざまな種類の危険因子にもかかわらず生き延びることができたのである。
 原発推進論者の一部のホメオパシー信者が言うように「少量の放射線は体にいい」だとか、「自然放射線があるから健康なのだ」などというのは、「大地震や津波があるから人類は生き延びたのだ」というに等しいほどの愚劣な主張である。
 私たち人類は、大地震や津波の被害にもかかわらず生き延びてきたのだ。自然放射線にもかかわらず生き延びてきたのだ。大地震や津波と同じように、自然放射線も人類(生命)にとっては危険因子なのだ。ないほうがいいに決まっている。
 そして、人類はどれくらいの平均被ばく線量の増加に耐えて遠い将来まで生き延びることができるのか、現在の科学はその知見をまったく持っていないのである。


2015年10月2日

 『nature』523巻7558号に「放射線業務従事者を対象とした大規模研究で、低線量放射線が白血病のリスクをわずかながら高めるという結果が」報告されたというレポートが掲載されている。科学的な立場からはとくに驚くほどのニュースではないが、原発推進の学者の中には困ってしまう人間もいるのではないかと思う。「低線量被曝のリスクが明確に」と題する『natureダイジェスト』から抜粋、引用する。

国際がん研究機関(IARC;フランス・リヨン)が組織したコンソーシアム……は、バッジ式線量計を着けて仕事をしていたフランス、米国、英国の計30万人以上の原子力産業労働者について、その死因を検証し(研究の時点で 対象者の5分の1が死亡していた)、最長で60年に及ぶ被曝記録との相関を調べた。
 宇宙線やラドンによる環境放射線量は年間約2~3ミリシーベルト(mSv)で、対象となった原子力産業労働者たちは年間でこの値より平均 1.1mSvだけ多く被曝していた。今回の研究によって、被曝線量が高くなるのに比例して白血病のリスクが上昇することが裏付けられたのと同時に、極めて 低い被曝線量でもこの線形関係が成り立つことが証明された(ただし、白血病以外の血液がんについては、被曝線量の増加とともにリスクが上昇する傾向はあっ たものの、その相関は統計的に有意ではなかった)。
……
 調査で得られたデータの外挿により予測した結果、被曝線量が10mSv蓄積するごとに、労働者全体の平均と比較して白血病のリスクが約3%上昇することが分かった。

 ここで注意すべき点は、年間被曝量が誰もが浴びる環境放射線より平均1.1mSvしか高くない労働者の調査結果だということにある。このことは、福島の汚染地へ帰還が年間被曝20mSvを前提にすることがどれほど無謀で野蛮なことかを意味している。
 アリソン・アボットという報告者は次のようにも述べている。

「被曝量はどこかに閾値があって、閾値未満の低線量被曝なら無害であるに違いない」と信じる人々の希望を打ち砕くと同時に、科学者には、日常的な被曝のリスクの定量化に用いることのできる信頼できる数字が得られたといえる。

 「健康被害を与える放射線量には閾値があるので、低線量被曝は問題にならない」と、非論理的かつ非倫理的に主張してきた御用学者にとって、けっこうな気付け薬にはなるだろう(薬が作用する神経があれば、ということだが)。

 
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〈読書メモ〉 帰れない故郷(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年))

2024年09月21日 | 読書

 

 『金時鍾コレクション』全12巻のなかの1巻から5巻まで読み終えた。第6巻に未完詩編が収録されているが、金時鍾の詩業の大半を読んだことになるだろう。第1巻から第5巻までのサブタイトル(刊行年)は、次のようになっている。

I. 日本における詩作の原点(2018年)
II. 幻の詩集、復元にむけて(2018年)
III. 海鳴りのなかを(2022年)
IV.「猪飼野」を生きる人々(2019年)
V. 日本から光州事件を見つめる(2024年)

 金時鍾の詩作品を読んで、間断なく感情が動かされ続けたのは間違いないが、その感覚を率直に言えば「驚き」と「畏敬」の重畳した感覚である。日本の東北の一県で生まれ育ち、その土地を離れることもなく凡庸に生きてきた私には想像もできないような人生を詩人は生きてきた。詩人とその詩の読み手の絶望的な懸崖をどう処理すれば、読書が成立するのだろうか、そう思いつつ頁を繰ったのである。
 5巻に含まれる詩を製作年代順に読んだわけではない(III、II、IV、I、Vと本を手に入れた順に読んだ)が、どの詩を読んでも詩人の人生のなかの事件(出来事)、背景なしにはその詩の意味、時空を共有するどころか、近づくこともできないと思われた。
 第I巻に含まれる処女詩集『地平線』は後の方で読んだのだが、この詩人の詩としては奇妙に明るく、私などの胸にもすとんと落ちてくるような詩があって、それはこんなフレ-ズで終わっている。

働きものの 父が欲しいなあ。
ふくよかな 母の 乳房が欲しいなあ
それにありつける
私の育ちの 日日が欲しいなあ。
「あせたちぶさ」 (『詩集 夜を希うもののうた』)部分 (I、p. 16)

 父と母、その子どもとしての自分のありようについての「願望」を率直に歌ったように見える。この感慨は、「電車に 乗る/街を 歩く。/映画を 観る。/はちきれんばかりの 女性にあい/モンローウォークの ヒップにおされ/のびきった脚の 八頭身に/心が おどる。」と書いた若い詩人の乳房への憧れのような思いから生まれている。
 金時鍾の詩をそれなりに読んだ後で「あせたちぶさ」を読んだときには、この詩人にも私がほっとするような一面があるのだと受け取ったのである。しかし、もしかしたら私の理解はまったく違うのではないかという違和感もまたじわじわと湧いてきたのだ。
 『詩集 地平線』が出版されたのは1955年なので、この詩が書かれた時期には詩人は故郷の済州島に帰ることは不可能で、両親に会うこともかなわない状況にあった。父がいて母がいて子供の自分がいる家族(詩人は一人っ子である)は絶望的に不可能である。現実の不可能性から過去へと遡及する父母と子の暮らしへの強い希求を、若い男性の乳房へのあこがれに仮託しているのではないか。絶望的な不可能事への想いが言葉の裏に隠されているのではないか。そう考えてもみるのだが、そしてそれは私の誤読かもしれないという思いもあって、違和感は残されるばかりなのである。
 少し、金時鍾の経歴を辿っておく。金時鍾は、1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父の家に預けられるが、7歳の時済州島の両親のもとに帰り、以後1948年まで済州島で暮らす。日本による植民地支配下にあって、小学校、旧制中学、師範学校における教育ばかりではなく、ほぼ日本語のみを母語のように使いながら育って、それが日本語で詩を書く原点(理由)になっている。

「僕は自分の国の言葉の素養といったら、賞味二年半の蓄えなんだよ。……一九四五年の八月から四六、四七年、一九四八年の時はもう追い立てられて、逃げ回っとったから。(I、p. 364)

 太平洋戦争が終わり、金時鍾は学生運動を通じて共産党に入党し、1948年4月6日の済州島民の一斉蜂起(済州島4・3事件)に加わり、李承晩政権による大弾圧から逃れるように日本に渡ってきた(私は済州島4・3事件については金石範の長編小説『火山島』を読んだ程度の知識しかないが)。そのため、詩人は韓国に帰ることが不可能となり、父や母の死に目にも会うことは叶わなかった(1998年に金大中政権が発足し、翌1998年には墓参が許され、50年ぶりの帰国が叶った)。
 帰れない故郷を想う詩句はたくさん見られるが、次の詩句の優しさと悲しみの色あいがとくに気に入っている。とはいえ、この詩句が含まれている「秋の歌」は、日本と朝鮮の間の悲劇的な関わりの歴史(その細部はまた多くの詩の主題ともなっている)が鳥瞰するように詠われている長編詩で、私にとっては読みごたえのある一編だった。

私は 秋が 一番好きです
秋には色とりどりの思い出が
たくさんあるからです。

私の瞳のおくに いりついた
祖国の色はだいだい色です。
唐がらしの赤くほされた わら屋根の家
澄みきった空の ポプラも色づき
柿の実は ひくく ひくく
軒下に 色をあやどります。
それは ちょうど
夕暮れどきの あかね色に似て
私の童心を 遠い家路へとゆさぶるのです。

    ○

私の家路は 落葉の 道です。
悲しい日々が うずたかくかさなった
茶褐色の 思い出の道です。
遠く ひくく 伝い来る鐘の音は
消え去った日々の 晩鐘です。
私の 父への 鎮歌を 奏で
私の 母への 弔歌を 奏で
しめやかに しめやかに
九月一日の 哀歌をかなでています。

十五円五十銭で 奪われた 命
秋の一葉よりも もろく散らされた 生命
私の親への つきない 哀歌です。

    ○

私が もの心ついてからの
秋の思い出は
灰色の 九月の歌からです。

秋始めにして 無理じいに散らされた葉
あまたの悲しみと 憎しみをおりまぜて
今日も心ふかく 舞い散っています。
その葉の青さは 永遠にあせない色
苦い樹液を 胸そこに充たし
九月の思いを 新たにさせるのです。
「秋の歌」 (『詩集 地平線』)部分 (pp. 170-173)

 しかし、その故郷は「遠く ひくく 伝い来る鐘の音は/消え去った日々の 晩鐘です。/私の 父への 鎮歌を 奏で/私の 母への 弔歌を 奏で/しめやかに しめやかに/九月一日の 哀歌をかなでています。」というフレーズに明らかに示されているように、故郷の父母たちばかりではなく、日本で理不尽に死んだ父母たち(関東大震災時に虐殺された)への鎮魂の思いとともに想起されているのである(詩句のなかの「九月一日」には「関東大震災の同胞虐殺記念日」という注記が付されている)。
 帰ることのできない故郷には父母が残されていて、ついにその死に目に会えないまま日本で生きざるを得なかった詩人は、父母への思いを何度も書き綴っている。

大通りを
うなりごえをたてて
ジープが去来するとき
ぼくの過去は
土中の迷路を
かきわけるのに終始した。
裏の垣根に
壕を掘り
大地の厚みに
泣いた日から
母はついに
一人子のぼくを
見失った。
裏の垣根に
壕を掘り
大地の厚みに
泣いた日から
母はついに
一人子のぼくを
見失った。
ぼくの過去に
道はなかった。
日帝に
苦役を強いられた
その道を
身がわりに
ひかれていった父でさえ
再び戻ってはこなかった
夜の跳梁がはじまり
夜行性動物への変身は
一切の道を必要としなかった。
「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 20-22)

その夜更けもまた
遠雷は鳴っていたのです。
聞いたというのではありません。
白く虚空を割いて墜ちていった
音を見たのです。
窓辺にはいつしか雨がたかり
はてしないつぶやきが
やはり白くもつれていました。
なぜか消えてゆくものは
白い音をたてて吸い込まれるのです。
過ぎた夏が
網膜で白いように
たぶん 闇の芯で白んでいるのが
記憶なのでしょう。
音はいつもひとつの象(かたち)を刻みます_
夜更けの母は
とりわけ寡黙でした。
炒り豆をつめながら
ただ鼻だけをすすっていました
同じく生涯を分けたはずの夜に
死を期した若者は 
洗いざらした肌着を母からもらい受け
私は母から
ひとり逃げをうつ糧をもらい受けていたのでした。
あの夜更けにもまた
遠雷はひきもきらずいなびかっていたのです。
誰の胸に刻んだというのではありません。
生きながらえても
在るべきものはとっくに消え去りました
夜更けてくずれてゆく
白い街や 白いバリケードの他は
私に残る懺悔はもうないのです。
その夜更けにも
遠雷はにぶくどよめいていました。
見たのではありません。
白く放たれた閃光がつらぬく
白い心が聞いたのです。
がらんどうの広場でうずくまっている
ひとりの母の しわぶきを聞いたのです。
「遠来」(『光州詩編』)全文 (V、pp. 26-29)

 どの詩にも強い思いがこもっていて、初めて読んだときには何か多くのことを語れそうな気がしたが、こうやって改めて書き出してみると、私にはそれに見合うような言葉を紡ぐことができない。詩句を抜き書きしただけでもう十分だと思えるのだ。「死を期した若者は/洗いざらした肌着を母からもらい受け/私は母から/ひとり逃げをうつ糧をもらい受けていたのでした。/あの夜更けにもまた/遠雷はひきもきらずいなびかっていたのです。」という詩句に比肩すべき言葉は私のなかにはない。
 会えないまま亡くなり、墓参もかなわない父母への想いを綴った詩も多い。

地所代がなくて
共同墓地に
埋めた。
妻よ。
墓が濡れる。
墓が。
父の。

家は並んでも
ポコポコと。
母は
その中に横たわる
生きてる
ミイラ。
おおこの南鮮(くに)
なんと
見渡すかぎりの
無縁塚だ。

母よ。
山がけむってる。
海がけむってる。
そのはるかな
向こうが
野辺です。
「雨と墓と秋と母と――父よ、この静寂はあなたのものだ――」(『日本風土記II』)全文 (II、pp. 228-230)

二枚の附箋と
三本の朱線に
低迷した
韓国済州局発の
航空郵便が
一つの執念さながら
胴体滑行の
形象すさまじく
落手した。
炎天下に
かざされた
全逓同志の
手汗のしゅんだ
ハト口ン封筒を
開く。
これは
韓国製の
ひつぎだ。
伏して
うるしを常食し
生きたまま
ミイラとなった
母の
七十余年にわたる
告別の書だ。
ザラ箋の
紙質にしみた
においよ。
失なわれた故郷の
亡国の
かげりよ。
亀よ。
叫びよ。
墓もりができずに
やえむぐらの
おおえるにまかせた
父の
骨の痛みだけを訴えてきた
母よ。
思いは呪いに似て
暴虐と圧制の地に
生きうるものの証しを
ぼくはあなたに迫られる。
(中略)
母よ。
からからに干からびた
韓国で
ミイラとなった母よ。
宇宙軌道からの地球は
マリモのように美しいそうです。
しんそこ
あなたにいだかれた日々は
美しいものです。
不毛の韓国を抱いて
動かぬ母に
夜半。
いつか孵化するであろう
ういういしい青さを手向ける
母の
呪いと愛にからまれた
変転の地で
迎撃ミサイルに追いつめられる
機影のように
父の地
元山を想う。
一人子の
息子に置き去られて
なお
帰れと云わぬ母の
地の塩を
這いつくばってなめる。
――1961.8•14•夜
「究めえない虚栄の深さで」 (『詩集 日本風土記II』)部分 (II、pp. 234-240)

午前10時半。
妻とぼくは
街の中です。
午前10時半。
枯木のあなたがくずおれて
ミイラの母がうつぶせました。
そしてあなたが死んだのです。
そして母が叫んだのです。
泣いたのです。
わめいたのです。
声をかぎりと
ぼくを呼んだのです。
 (中略)
なにぶんとも遠い海のあちらで
ぼくの手の
とうてい及ばない韓国で
母がひとり
葬った
父と
余生と
これからもありそうな
六十の生涯。
たしかにぼくに託されていた
その生涯。
「果てる在日(4)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 184-187)

 どうしても金時鍾の詩業についてメモを書き記しておきたいと思ったものの、詩人の人生と詩業を合わせ読み込んだうえで印象をまとめるというのは、端から無理だと思っていた。まずは、帰れない故郷と会えない父母への思いという点で詩を選んでみた。
 次に考えているのは、「二つの祖国」という視点で、南ばかりではなく北からも拒否される在日朝鮮人としての詩を選んでみたい。その後に日本で「在日」として生きる詩人の日日の姿を詩群の中から探し出してみたいと思っている。



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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (12)

2024年09月20日 | 脱原発

2015522

 気が付いたら715分前である。慌ててホテルを飛び出した。
 午後3時に会議は終わり、急いでホテルにチェックインして、6時頃までに宿題を終わらせようとパソコンを開いたのが徒になるもとだった。宿題といっても自分で自分に課したものだから、いくら遅れても誰も困らないのだが、終りが見えだしたので少し夢中になってしまった。
 「首相官邸前抗議」は午後630分から8時までだというのに、官邸前に到着したときはもう730分だった。東京で反原発デモに参加できる機会は滅多にない。わざわざそのためにホテル泊にしたというのに、なさけない。
 官邸前の抗議列のできるだけ前の方に行こうと国会議事堂横の緩やかな坂道を急いだ。抗議の列は国会記者会館の車の出入り口で途切れていて、その向かうが先頭のグループで、そこまで行こうと考えていたが、第2グループの先頭に目良誠二郎さんを見つけた。
 目良さんは、高校の社会科の先生だった方で、『非暴力で平和をもとめる人たち (平和と戦争の絵本 4)』 の著者でもあり、フェイスブック上でも社会問題、政治問題について積極的に発言されている。それで、私からFB友のお願いをしたのである。
 つい最近、目良さんの奥様が交通事故に遭われたというのでとても心配していた。かなりの重症で自宅療養中だということだが、米良さん自身は今日の金官デモに参加すると表明されていたので、お会いできることを期待していたのである。その怪我をされ奥様は、ナオミ・クラインの名著『ショック・ドクトリン』の翻訳者の一人である幾島幸子さんである。
 昨年の628日に『さようなら原発 首都大行進』というイベントがあって、雨が降る明治公園で初めて米良さんにお会いし、そのとき金官デモのお仲間を何人も紹介していただいた。今日も見覚えのあるお顔が何人か参加しておられた。その場で、むとうちずるさんに憲法9条タグも頂いた。私のザックに下げていた「NO NUKES FRAGILE TAG」も彼女たちのオリジナルである。とても活動的で元気なグループなのだ。
 抗議列の先頭近くで、しばらくは声を上げるというのが当初の予定だったのだが、いかんせん大幅に遅刻してしまった。国会正門前の集まりも見ておきたかったので、挨拶も早々に国会正門前へ急いだ。
 抗議の列を横目に、先ほど歩いてきた道を下っていった。列が途切れるようになると、さまざまなパフォーマンスで抗議をしている人たちがいる。デモのように移動しない定点行動なので、いろんなやり方で意思表示ができるのがいい。デモが多量性の価値なら、こちらは多様性の価値と言えそうだ。
 一人で太鼓と読経で抗議している人もいる。大きな絵を何枚も並べて意思表示をしている人もいる。国会正門へ曲る交差点の角では、一組の男女が優しげな声で「おやすみ、原発」と歌っていた。
 国会正門前に近づくと、大きな行灯(ぼんぼり?)を囲んでタンバリンや小太鼓などの打楽器を演奏しながら無言で踊っているグループがいた。
 さらに進むと、歩道脇の低い石垣の上に小さな灯籠(キャンドルライト?)がたくさん並べられていた。いろんな言葉によって、多くの人の願いや希望、祈りがここに集められて、光を揺るがせている。
 正門前ではスピーチが行われていて、遠目で断言しにくいが、私が着いたときにスピーチを終えたのはミサオ・レッドウルフさんのようだった。
 もう、時間がない。正門前でのスピーチをじっくり聞くこともなく、官邸前に急いで引き返した。抗議列の途中に入り、少しばかりコールに声を合わせた。官邸前ということもあって、仙台での金デモとはコールの言葉がちがう。「原発ヤメロ。アベもヤメロ。原発もろともオマエもヤメロ」というコールは、官邸前だから意味がある。直截に「オマエ」と言えるのはここしかない。
 まもなく抗議行動終了の8時になるので、目良さんたちに挨拶をしようとさらに前に進んでいったら、行動終了のアナウンスがあって、きっかり8時に解散である。なんとか挨拶ができて、写真を撮りあってお別れをした。
 「仙台も頑張っておられますね。」と目良さんが言い、「いや、人数が減って、なかなか戻りませんね。」、「こちらもですよ。」というやりとりをした。
 民主党政権のときは、大飯原発の再稼働を決めたりしたものの、いずれ原発ゼロを標榜していたので、反原発も勢いがあったが、安倍自公政権になってからは原発を止める気がないことが明らかになったので、一挙に長期戦の様相を帯びてきた。
 闘いや運動が長引けば、人が減ったり増えたりするのは当然のことだ。それでもコアの人たちが状況の変化に耐えて行動を続けていれば、また多くの人が参加する機会の受け皿になることができる。「続けることが大事ですよ。」と目良さんはあっさりと言われた。
 仙台の金デモであれ、官邸前抗議であれ、ここにこうやって集まって声を上げている人たちを私のこの目で眺めることが、私自身の心の活性化に、あるいは精神の気付け薬としてとても有効だということだけは実感することができる。

 


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(17)

2024年09月17日 | 脱原発

2014年9月19日

 安倍政権になってからの政治状況は暗い話題ばかりになってしまった。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが2002年の4月21日のフランス大統領選で極右政党国民戦線のジヤン=マリー・ルペンが票を伸ばしたことに驚いて次のように書いている。

その日恐ろしいほどはっきりとわかったのは、大統領選でジャン=マリー・ルペンに投票した人たちというのは、私が共に感じることのない人たちだということである。それはあたかも、われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのようなのだ。私にわかったのは、それらの男性たち、女性たち、若者たちは今起こっていることを感じとることができない、それゆえ自分たちが社会に属しているとはもう感じていないということである。 [1] 

 なぜそのようなことが起こるか、ということをスティグレールは『象徴の貧困』で論じている。私たち一人ひとりの「私」は、歴史的経験、思想、芸術などが作り上げた象徴を共有し、交換することで「われわれ」としてこの社会を形成しつつ存在している。樫村愛子は、それを「象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「個体化」の衰退が広まると述べる」 [2] と解説している。スティグレールの「象徴」は、樫村が言う文化がもたらす社会の「恒常性」に近いものだろう。
 ハイパーインダストリアル時代に私たちは消費者として画一的な価値観に晒され、「みんなが買ったから、私も買う」というような「みんな」のなかの一人としての「私」でしかなくなっている。しかし、「個体化」が衰退して象徴を交換できなくなった貧困者は「消費者社会の中心であり、彼らこそ「文明」なのだ」 [3] とスティグレールは言う。
 象徴の貧困者は、2002年のフランスでは政治的にはマジョリティとは言えないが、日本では石原慎太郎が都知事に圧勝し、橋下維新の会が大阪で圧倒的な支持を受け、いまや安倍自民党政権の支持者として重大な政治結果をもたらしている。日本における彼らの性向については、想田和弘の『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』 [4] が詳しい。
 象徴の貧困者が、スティグレールが言うように「消費者社会の中心」なら問題はかなり深刻である。しかし、スティグレールは、次のようにも語っている。

私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。 [5]

 そして、「国民戦線へ投票する人たちに異議を申し立てる闘いにおいて、私が彼らに何よりも言いたいのは、私の彼らへの友情なのだ」 [6] とまで断言する。スティグレールは、「ARS INDUSTRIALIS」なる国際運動組織を立ち上げて、消費者社会が席巻する現代文化の問題に立ち向かっているというが、その詳細を私は知らない。
 いま、スティグレールを含めて多くの人びとが、友情を持って「彼ら」に話しかける内容、方法を模索しているに違いない。私もまた何かを、と願ってはいるのだが。

[1] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(以下、『象徴の貧困』)(新評論、2006年) p. 24。
[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるか』(光文社、2007年) p. 95。
[3] 『象徴の貧困』 p. 26。
[4] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。
[5] 『象徴の貧困』 p. 211-2。
[6] 『象徴の貧困』 p. 218-9。

 


2014年9月28日

 9月27日午前11時53分に長野、岐阜県境の御嶽山が突然噴火した。今月に入って火山性地震が頻発していたが、これまでの御嶽山の火山性地震が必ずしも噴火に結びつくわけではなかったことや、山腹膨張などそれ以外の予兆がまったくなかったこともあって、噴火の予知は不可能だったという。そのため入山禁止などの措置がとれなかったので、多くの登山者が被害に遭い、28日現在、27人負傷、うち10人意識不明(朝日新聞)とか、7人が意識不明、42人が重軽傷(NHK)、あるいは山頂付近で31人の心肺停止が確認(毎日新聞ニュースメール)と報道されている。火山噴火を予知できないことで、大きな人的被害が出ているのだ。
 御嶽山噴火は、川内原発が新規制基準に適合していると判断した原子力規制委員会の結論がきわめて危ういことをあらためて示した。
 九州電力は、川内原発の半径160キロ圏内に位置する複数のカルデラが、破局的な噴火を起こす可能性は十分に低いうえ、監視体制を強化すれば、前兆を捉えることができるとの見解で、それを規制委員会は容認した。
 しかし、「東大地震研究所の中田節也教授は、カルデラ噴火の前兆は確実に捉えることができるとの見方を否定する。中田教授はロイターの取材に対し「とんでもない変動が一気に来た後に噴火するのか、すでに(十分なマグマが)溜まっていて小さな変動で大きな噴火になるのか、そのへんすら実はわかっていない」と話した」(REUTERS)と報じられているように、火山噴火の専門家は「前兆を捉えられる」とする「素人」の九州電力、原子力規制委員会の判断を否定している。火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長が、原子力規制委員会に予知する術はないと強く批判したのはまったく当然のことなのだ。
 火山噴火の一点を見ても、原子力規制委員は各分野の専門家と称しながら、専門家の学術的な意見に耳を傾けないのである。彼らの判断基準が、もはや学問的、専門的な知見に基づいているとは言い難いということだ。自分の専門分野以外のプロフェッショナルに敬意を払えない科学者というのは、科学者としてのアイデンティティを自ら否定しているに等しい。
 他人の専門性を尊重せずに、自分の専門性は尊重してほしいなどとは、合理的な理性の持主なら口が裂けても言えないはずだ、ガキじゃあるまいし。 
 私たちは、原子力規制委員会の川内原発に関する判断を否定し、安倍政権の原発再稼働の政治的策動に抗い、鹿児島県知事の再稼働推進を拒否するために、今日もデモに出かける。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (11)

2024年09月15日 | 脱原発

2014125

 しばらくぶりで加美町から参加している浅野さんのスピーチを聞いた。二つのニュースを取り上げての熱弁である。
 一つは、宮城県知事が福島県知事に指定廃棄物の最終処分を福島県で引き受けるように要望して一蹴されたというニュースである。東電福島第1原発から飛散した放射能の汚染された指定廃棄物を自治体で押しつけ合うのが筋違いも甚だしいという話である。国と東電が責任を持って処分すべきものなのだ。知事がものを申すべき相手は国と東電のはずだ。
 放射能から県民を守る意識があれば自ずと採るべき行動は明白なはずなのだが、見るべき方向が逆転している。
 もう一つのニュースは、原発立地自治体である女川町でのアンケート調査で、町民の過半数は原発反対だったという結果に対して、女川町長は「原発の問題は全体の立場から考えるべき政治問題で、1地方自治体が判断できる問題ではない」と発言したということだ。 ここでもまた、住民を向いていない政治の姿がある。地方自治体の首長は、選挙で選ばれた政治家ではないのか。政治家として全体の立場から原発という「政治問題」に対して採るべき政治的態度を決めるべきではない。もう少し厳密に言えば、女川町民に対して最優先の政治責任を有する女川町長として、(全体のことを勘案しようがしまいが)原発に対する政治的行動を明確にする義務があるはずだ。
 知事も町長も、県民や町民に対する本来の責任と義務にまったく関心がないようなのである。それでもその職業から放逐されないあたりに、政治家が「profession」には含まれない理由があるのかもしれないが。ちなみに、professionに含まれる職業は「知性」とか「専門性」を必要とするものばかりである(と、英辞典に書いてあった)。

 

2015年38

 14:20頃に国会正門前につくと大勢集まりだしているが、スピーカーのテストなどでまだ準備中である。「国会前大集会」は15:30からなので、早く着いた人たちは、歩道沿いの低い石垣に腰掛けて待機している。もう石垣に空きはないので、私は立ちんぼで待機である。
 開始時間が近づくと、国会に向けてコールがあり、続けて「ジンタらムータ+リクルマイ&The K」による演奏、歌、コールがあって大いに気勢が上がる。
 主催者挨拶に始まり、政治家が到着順に登壇した。社民党の吉田さんと福島さん、生活の党の三宅さん、共産党の志位さん、藤野さん、池内さん、吉良さん、民主党の菅さんと続いた。
 ミサオ・レッドウルフさんの挨拶は迫力あるコールで終ったが、福島瑞穂さんと吉良よし子さんも最後にコールで挨拶を終えた。
 政治家のスピーチの後で、一旦、シュプレッヒコールで勢いを整えて、ふたたびスピーチが始まる。
 映画監督の鎌仲ひとみさんは上映が始まった映画『小さき声のカノン』の話と、福島に住む子どもたちの保養の重要性を話された。
 絵本作家の松本春野さんは、さまざまな事情の中にある福島の人たちに寄り添うことの大切さについて、市民電力連絡会の竹村英明さんは再生可能エネルギーへの転換がもたらす脱原発への道について、それぞれ訴えられた。
 雨宮処凛さんもスピーチの後にコールの声を上げられた。続いて登壇した小熊英二さんは、学者らしくとても冷静な話しぶりだった。311以降、社会の空気は確実に変わったこと、原発再稼働を目論む経産省にしても最大でも56基の原発しか稼働出来ないと考えているということから、仮にどこかの原発が再稼働しても311前とは大きく変わったことは間違いない、という話だった。
 ただ、小熊さんの話に参加者の1部は不満だったらしく、ブーイングが出た。パーフェクトゲームではなくても前進している、ということに対して不満があったらしい。パーフェクトゲームを望むというのは間違いではないが、冷静な状況判断も必要だろう。どのような運動でも、行け行けどんどんの人たちはいるし、その人たちが運動を牽引するエネルギー源になることは否定しないが、完璧主義は原理主義であったりする。そして、困ったことに運動集団の中では過激な原理主義がしばしば説得力を持ったりするのである。
 私は、小熊さんのような冷静な状況分析を貴重に思う。ただ、このような集会では、政治家のように「ともに闘いましょう」とかシュプレッヒコールで感情をシンクロさせるような話しぶりが歓迎され、冷静で客観的な小熊さんのような話しぶりは好まれないのだろうとは思う。しかし、感情を煽る演説には大きな落とし穴があることは歴史が示していることも確かだ。情熱と理性がともに手を携えて、などということはきれいごとかもしれないが……



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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(16)

2024年09月13日 | 脱原発

2014年7月27日

 原子力規制委員会が川内原発1、2号機を新規制基準に適合するという審査書案を提示したことを巡って、このごろ、科学者の〈学〉とか〈知〉、つまりは全人格的な科学者の〈思想〉というものを考えていた。専門的知見を有するとされて選任された委員は、いちおう世間的には科学者として認知されている。
 その科学者たちが、自分たちで作った規制基準に適合したとしながら、「安全だともゼロリスクだとも言えない」という、混乱ぶりである。論理的に完全に破綻している。規制委員会は科学者で構成されているということが信じられないのである。
 だいぶ前に読んだ本で、科学哲学者ジェームズ・R・ブラウンが次のような一文を記していた。

 物理学者は、量子力学は基本的には間違っているかもしれないということを認める。物理学者なら誰でも、まったく予想もしなかったような実験結果が出たり、新しくて深い理論的洞察が得られたりすれば、量子力学が明日にもひっくりかえる可能性があると思っているのだ。もちろん、その新しい証拠をきちんと調べるためには時間がかかるだろうし、これほどみごとな理論をあっさり捨てるのは軽率というものだろう。しかし原理的には、量子力学もまた、天文学における天動説(地球中心説)のような道のりをたどる可能性はあるということだ。
 それとは対照的に、キリスト教徒のなかに、キリストの神性にたいする信念を捨てられる者が一人でもいるだろうか? あるいは、キリストは私たちの罪を背負って死んだという信念を捨てることができるだろうか? 神がいっさいをつくったという信念は? 物理学者と司祭との大きな違いは、あつかうテーマの違いではない。その違いは、つきつめれば次のようなことなのだ。物理学者は、現行の物理学の中核的信念をすべて捨てたうえでなお、物理学者でいることができる。司祭は、中核的信念を捨てるなら、司祭をやめるしかない。忠誠は、宗教においては徳である。しかし科学においては罪なのだ。 [1]

 この考えは、科学(物理学を科学一般と考えてよい)と宗教に関するきわめて常識的な考え方である。〈3・11〉後、福島の悲惨を目にして多くの人は原発の存在そのものに否定的な考えを示した。しかし、テレビで原発について語る原子力工学の専門家や政府関連の委員会の原子力専門委員のなかで、原発の存在を絶対的前提にしない考えを語る人物をついに見かけることはなかった。
 彼ら、原子力工学の専門家にとっては、原発はキリスト教徒におけるキリストに等しい絶対的存在らしい。たしかに、原子力工学を学んだ学生が進むべき道は原発を作るか、原発を保守するかしか進路はない。核融合炉という道もあり得るが、いずれ原発と同じ運命をたどることは明白だ。 
 ブラウンの言葉に照らせば、原発が信仰の対象のようになっていてその対象を相対的に思考できない原子力の専門家は、科学者ではないということだ。
 フクシマ以降、科学者は信用できないとか、政府御用の専門家は信用できないという言葉をいろんなところで聞いた。当然なのである。彼らは科学者ではないのだから、科学者として信用すること自体間違っていたのだ。
 科学者としての〈知〉とか〈学〉とかを期待してはならないのである。ましてや、よく言われる科学者の〈良心〉などはないのだ。なにしろブラウンの定義上、彼らは科学者ではないのだから。
 科学者に期待できないなどと言いたいわけではない。科学者ならざる原発信仰者としての原子力工学者に期待できないだけである。全人格的にすぐれた科学者はたくさんいる。
 残念なことに(当然でもあるが)、そのような科学者は政府委員会には不都合なので、権力機構の中に地位を占めることができないのだ。

[1] ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか ――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)p. 80-81。


2014年9月5日

 新任の小渕経産相が川内原発再稼働についてその地元に「丁寧に説明していきたい」と発言したことについて、説明の前に地元や国民の声を聴くべきだというスピーチがあった。
 経産相の言葉に対して私が始めに思ったのは「説明できるもんならぜひ説明してくれ」というものだ。フクシマ以降に原発を再稼働することを人倫に悖ることなく他人に説明できるのか。安全を第1とすると言うからには、原発の安全を保証することを論理実証的に(つまり科学的に)説明できるはずだ。どう考えても一人(に限らないが)の天才を必要とする「説明」なるものをぜひ聞いてみたいものだ。
 政治家の「丁寧に説明する」という言葉は、「時間をかけて力で押し通す」という意味であることを百も承知なのだが、言葉を正しい意味で受け取りたいという希望はいつもあるのだ。
 新閣僚が新聞で報道された当日(9月4日)の朝日新聞に、国語学者の金田一秀穂さんがインタビューに答えて、安倍晋三の言葉について話している。「言葉で人を説得しよう、動かそういう気がない」、「言葉が軽い」、「言葉に鈍感すぎる」、「結局、あの人は言葉の力を信じていないんですね。」
 そういうことなのだ。その安倍晋三が自分より優れている人物を閣僚に選ぶはずもないから、小渕経産相の言葉に真面目に反応するのはじつに無駄なことだ。しかし、その実体のない、虚妄に満ちた言葉を放っておけば、そのまま事態が進められてしまう。じつに困ったことに、私たち国民は、自民党の政治言語の前で引き裂かれた存在になってしまっている。
 朝日新聞の同じ欄で小林よしのりさんが、安倍政権は「思考停止の空気を利用」していると述べている。たとえ、自民党政府の政治言語がどのような論理性もなく、どのような倫理性もないとしても、その言語的混乱(無意味性)を前にして、私たちはけっして思考停止に陥ることがあってはならない、そう強く思うのだ。


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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(8)

2024年09月10日 | 脱原発

2014年12月12日

 100mSvという数値は、それ以下で晩発性の放射線障害が発生するかどうかという議論でしばしば引用される数値である。100mSv以上では被曝線量に比例して晩発性障害が増加することは確定的に知られている。当然ながら、データの少ない100mSv以下でも、100mSv以上の線形性があると推定して、放射線障害予防策が採られてきた。
 しかし、原発を推進する人びとは、「閾値」論を採用して、100mSv以下では障害が発生しないと主張しているが、もちろん科学的根拠はない。100mSv以下でのデータが少ないため意見が分かれているように見えるが、閾値論仮説は政治的恣意性の産物にしか思えない。影響があるかもしれない、ないかもしれないという科学的な段階で、危険があると考えて対処する保健物理学的意見の方が科学的良心(というよりも最低限の人間的良心)というものだろう。
 毒が入っているかもしれない食べ物があるとき、どっちか分からないのだから食べましょうという愚か者はいないのである。それを人に食べさせようとすれば、それは犯罪である。

 井戸謙一弁護士(志賀原発運転差し止め判決を下した元裁判官)は、河北新報に投稿した記事で、その100mSvの数値が「年間100mSv」として誤って流布されていると警告している。晩発性障害が発生するかどうかで議論される「100mSv」という数値は積算量であって、けっして1年間の被曝線量のことではない。少なくとも原発推進側の科学者であっても、生涯で100mSvを越えれば晩発性障害が増加する事実は否定できないのである。
 一般人の年間の最大許容被曝線量を1mSvとするのは、積算線量100mSv以下と考えれば当然の数値である。したがって、福島の汚染地区への住民の帰還に際しては、生涯の積算線量を考慮して進められなければならないことは当然であって、年間20mSvなどという数字はもってのほかなのである。

 

2015年4月10日

 脱原発デモの集会で、私にもスピーチの指名があって慌ててしまった。何も考えていなかったのだが、2、3日前に読んだフェイスブックの記事を思い出してその話をした。2013年5月24日の河北新報に次のような記事が載っていたという。

日本赤十字社は23日、原子力災害で被災地に派遣される医師や看護師らに関し、活動範囲を警戒区域外にするほか、累積被ばく線量の上限を1ミリシーベルト(千マイクロシーベルト)とする「救護活動基準」を発表した。東京電力福島第一原発事故では放射線の安全基準がなく、事故直後、救護活動を十分にできなかった教訓から策定した。

 1mSv/年という値は、一般人の累積の被ばく線量限度である。日本赤十字社の医師や看護師らが職業人として被災地で救護活動を行うのであれば、「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」が定める放射線作業従事者と考えられ、その被ばく線量限度は50mSvが適用されてもいいはずだ。
 にもかかわらず、自分たちの線量限度を1mSvと定めたことは、高く評価されていい。法で定める50mSvというのは、けっしてその線量までの被曝が安全だと主張しているのではない。職業的な利益を伴うことと引き換えた場合の受忍限度であるに過ぎないのだから、1mSvと定めて自らの健康、生命を守ることはきわめて正しい判断なのだ。
 法で定めた放射線取扱主任者(医師にはこの資格が与えられる)の資格を有する医師としての専門家集団が、累積の被ばく線量限度を1mSv/年と定めたことは広く知られるべきだ。福島ばかりではなく、かなりの医師が放射線被曝を問題視せずに多くの住民の被爆を看過している現状からも、このことはとても重要だ。
 急な指名でしどろもどろながら、おおむねそんな話をした。放射線作業従事者としての仕事もし、第一種の放射線取扱主任者として放射線の安全管理にも携わった身としては、私(たち)が職業人として被爆したよりも高い線量に曝されている福島の人々のことがとても心配になる。
 職業的な被爆だから50mSvまで浴びていい、などという安全管理などないのだ。どんな場合でも可能な限り被爆しないこと、ゼロ被爆こそ放射線安全管理がめざしていることだ。そういった意味では、福島は無法状態だとしか思えないのである。

 
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