かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(6)

2024年08月18日 | 脱原発

20131018

寸断された戦線がみえてくる。そして
核爆発がテレビのむこうがわでつづいている。
われわれは一瞬のさけめから認識へおちる。
われわれはなんども死んだり、詩人みたいに
またもや生きてゆく。
神話をつめたくしているのだ。

   堀川正美「われら365」部分 [1]

 これは1970年出版の詩集のなかのフレーズである。読むべき本、読みたい本が途絶えてしまって、やむなく納戸の奥から引っ張り出してきた43年前の本のなかにあった。ここには、予言された「フクシマ」が見える。そんなふうに思えた。
 原爆や水爆へのイメージには違いない。しかし、大地震でメルトダウンした核燃料が今も地中のどこかで緩やかな核爆発を続けている、というイメージに繋がる。制御できない核分裂反応は、反応の遅速や反応の密度の問題はあっても、本質的に核爆発となんの相違があろう。
 原子炉が爆発してしまってから、愚かといえども日本人は現実の悲惨な裂け目から否定しようのない「認識」へ落ち込んだはずだ。そう考えるのが詩人のイメージというものだ。いまだに、原発を続けたい、外国にも売りつけたいという意図をあからさまにする人間が存在しうるなどと思いもしないだろう。
 原爆、水爆、原発の爆発、この一連の事象こそ、人類が地球上に生まれてから語り継いできた「神話」ですら凍りつくような悲惨だったはずだ。
  
 堀川正美の詩集には、もうひとつ凄いイメージの詩があった。

武器はかぞえるだろう、ほぼ同数の兵士たちを。
製品はかぞえるだろう、ほぼ同数の労働者の時間を。
ヴィタミン剤は、トランジスタラジオは、映画館の入場券はわれわれの
青春を。オレンジジュースはこいびとたちを。
操縦装置のちっちゃなボタンにふれる指のふるえは
一〇〇年きみが生きてもとりかえしがつかない一瞬を――
一〇〇万人の三万フィートも上で。
戦争の死者たちをかぞえることができぬ。ひとりの
兄弟ぐらいは生きのびたもののうちにいるかもしれぬ。

        堀川正美「書物の教訓」部分 [2]

 人間の手によって作られた物は、作られたその瞬間において、そのものが未来に関与するであろう人間と人間の出来事を用意している、という逆説のイメージだ。原発と爆撃機が作られたとき、100万人の広島市民の上空で「ちっちゃなボタン」が押される瞬間が準備されていた、という恐ろしいイメージだ。
 福島県大熊町に東京電力福島第一原子力発電所の建設が始まったとき、15万人を超える人びとの故郷が失われることが定っていた。詩人の逆説のイメージはそう教えている。だとしたら、たとえば大間で、たとえば女川で、たとえば美浜で、たとえば上関で未来に準備されているのは何か。
 その恐ろしいイメージに対抗するには、すべての原発を廃炉にするという現実的手段しかないのだ。

[1]『堀川正美詩集(現代詩文庫29)』(思潮社、1970年)p. 69
[2]
同上、p. 81



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