かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(11)

2024年08月13日 | 脱原発

2014年2月23日

 私の講演はキャンセルされた。私がインドに帰ってから数日間、福島からの放射能が風に乗って東京に降り注いだ。放射能の広がりは六〇〇平方キロに及ぶ。それはチェルノブイリのそれに匹敵すると公表された。それでも原子力業界は結託して悪いニュースを知らせまいと、原子力エネルギーが唯一の未来だと信じ込ませようとしている。
 こうしてこの小さな島国は苦しみの円環を完成したのだ、戦争中も平和なときも、私たちの想像力が核によって摩滅してしまったために。人間の愚かさ、それが異なるデザインの海に囲まれた島で、ふたたび演じられている。  
                              アルンダティ・ロイ [1]

 あれからもう3年経とうとしている。そのころ、アルンダティ・ロイは、講演のために招待された初めての東京にいて、〈3・11〉を経験した。講演は中止になり、アルンダティ・ロイは、東アジアの小さな島国が辿った《苦しみの円環》に思いを寄せていた。当時、煽動罪の嫌疑でデリーの裁判所に召還されていた彼女は、ふたたびインドのネオリベラリズムとの闘いの場に戻っていったのだ。
 そのような闘う作家としてのアルンダティ・ロイの在り様は、「核による《苦しみの円環》の克服は「小さな島国」に住む私たち自身に課せられた闘いだ」ということを自ずと私たちに語っているようだ。
 アルンダティ・ロイは、その積極的な政治的言論活動の一つとしてインドのナルマダ・ダム建設反対運動に関わったが、その闘争の敗北のプロセスに関して、「一人の指導者に頼りすぎたことは運動をひ弱なものにしてしまった」と言い、「それは真の民主主義を運動のなかに作りだすことができ」ない理由だと語っている [2]
 ある意味で大衆運動の一般的なありふれた本質を述べたに過ぎないような彼女の言葉が印象に残ったのは、想田和弘さんが『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』で描いて見せた橋下徹と彼らの支持者の関係を想い起こさせたからである。
 インドにおけるネオリベラリズムとネオナショナリズムに支えられたインド政権への抵抗運動に参加する人々と橋本支持者の政治的立場は反対称と言っていいほど真逆に近いのだが、指導者(ヒーロー)に依存する心性にいくぶん似通ったところがあるのではないかと思ったのである。

 同事件〔毎日放送記者の糾弾事件〕では、その一部始終を記録した動画がユーチューブで広まり、橋下氏の尻馬に乗って記者を侮辱する言葉がネット上に溢れ返りましたが、彼らが多用したのは、「とんちんかん」「勉強不足」「新喜劇」といった言葉でした。動画を実際にご覧になった方なら分かると思いますが、これらはすべて、橋下氏自身が動画のなかで発した言葉です。彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく、橋下氏の言葉をそっくりそのまま借用したのです。 [3]

 想田さんは、政治状況のなかで流行語のように力を持つ〈言葉〉について議論を進めているのだが、私が気になったのは橋下支持者たちの心性である。彼らは、「民意」としての「選挙で選ばれた代表」が「既得権益」者としての「身分保障の公務員」や「税金で飯を食う官僚」と闘う政治家・橋下を支持することで、自分もそのような社会的不正(?)と闘っているという思い込み(自己欺瞞)に陥っており、橋下徹をその闘いの指導者として見なしているのだろう。
 これはもちろん、想田さんが喝破しているように、「民主主義制度における国民のコンセンサスは、論理や科学的正しさではなく、感情によって成し遂げられるのだ」と公言してはばからない橋下徹によって妬みや憎しみなどの下劣な感情を掬い取られてしまった人々のことである。
 「論理や科学的正しさ」に依拠していない「感情」に基づくために、当然のように、論理そのものである言葉をどんな形でも自らの脳からは発しようがない。それで、指導者(ヒーロー)と見なす橋下徹の言葉をオウムのように真似ることで、なにか発言していると自己を誤魔化すしかないことになる(いや、おそらくは、それが自分の言葉だと信じ込んでいるのだろうが)。
 一人一人の考えを集約することに民主主義の本義があることからみれば、ある指導者とその指導者の言葉をオウム返しにする人々は、明らかに反民主主義的な社会関係を形成していることになる。橋下徹をしてプチ・ヒットラーとかファシストとか謗る言説がネット上に溢れ返るのも、このような現象に由来していると考えられる。
 アロンダティ・ロイの言葉が引っかかったのは、同じようなことが脱原発・反原発運動に加わる人々の心性のなかにないのだろうか、ふとそう思ったためだ。
 私たちは、山本太郎や三宅洋平、宇都宮健児や細川護熙をヒーロー扱いしてはいないか、彼らの言葉をオウム返しに喋ってはいないか。そんなことを思ってみたのだ。
 前の参議院選挙や今度の東京都知事選挙では、いつもより少しばかり熱心にネット言説を観察していたのだが、いくぶんそのような傾向がなかったわけではない、というのが実感だった。もちろん、選挙である以上、支持する候補者の言葉を広く伝えたいという事情もあっただろう。ただ、その傾向が強まったのは、相手候補者を批判する(罵る、disる)ときである。まったく同じ言葉で罵る一群の人達がいたのだ。選挙陣営内で批判の方法を打ち合わせたので同じ言葉遣いになったということかもしれないが、少なくとも現象的には橋下支持者たちの言動とよく似ていて、気持ちいいことではなかった。
 さて、私のことだが、それぞれの政治的意味合いは違うにしても、上記の山本、三宅、宇都宮、細川の四人には(この四人だけではないが)相応の敬意を抱いている。敬意は抱いているが、誰も私のヒーローになることはない。
 それは信念というようなことではない。素直ではない私の性格によるのだ。私には、誰かを尊敬のあまり崇め奉るという心根は子供の時から全くないのである。小学校で読むように勧められる偉人伝のたぐいは虫酸が走るほど嫌いだった。プロ野球も映画も好きだったが、野球選手や映画スターのブロマイドなどというものに興味がわいたことはない。
 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』というのは湯浅誠さんの著書 [4] だが、私にはいままでもたぶんこれからもずっとヒーローはいないのである。ヒーローを待っていたことはなかったのだ。だからといって、世界が変わったわけでもないけれども。

[1] アルンダティ・ロイ(本橋哲也訳)『民主主義のあとに生き残るものは』 (岩波書店、2012年) p. viii。
[2] 同上、p. 120。
[3] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年) p. 11。
[4] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。


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