かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (9)

2024年08月09日 | 脱原発

2014年10月26日

 「原子力の日」というのが定められている。1956年10月26日、茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初めて原子力発電に成功した。その記念日なのだ。原発を推進する政府お勧めの記念日だが、皮肉なことに、いまや全国津々浦々で開かれる原発再稼働反対の統一行動日に変容してしまっている。
 日曜デモだが参加者は多くない。反原発の様々なイベントがあって、みんなの体が足りないのだ。

 今日のデモは40人ほどだった。最近ではもっとも少ない人数だろう。脱原発、反原発のイベントばかりではなく、イベント日和の季節なのでみんな忙しいのだ。
 今日の集会では「鹿児島県・薩摩川内原発の再稼働に私たちは強く反対します!」というアピール文が読み上げられた。毎週のデモだが、再稼働に反対する全国統一行動に心を合わせる意思表示だ。
 原子力規制委員会も自民党政府も鹿児島県知事も川内市長も責任を押し付け合いながら、川内原発の再稼働を画策している。
 規制委員会は「基準をクリアしても安全とは言えない」と言い、政府は「規制委員会の審査を経ているから安全だ」と言い、知事と市長は「国が安全だと言っている」という。つまり、川内原発が安全だとは誰も言っていないのである。
 それなのに、再稼働に動き出すこの支離滅裂さは、「反知性」(自民党は「知性」が嫌い)、「非知性」(自民党に「知性」は期待できない)の政治を選挙で許してしまった日本の悲劇的政治状況そのものだ。

 

2014年11月7日

 金デモの翌日、犬と早朝のドライブ散歩から帰ってきたら、突然熱が出てきて寝込んでしまった。丸一日寝ていたが、日曜日の朝(今朝)になっても熱が下がらない。

 ぼーっとしているまま、届いた朝日新聞の1面を横目で眺めたら、『制度外ホームで「拘束介護」』という大きな見出しが眼についた。また自民党政府は「介護拘束」ができるような制度を導入して要介護の高齢弱者を社会から隔離しようとしているのだなと思ってしまった。ナショナル・マイノリティばかりではなく、社会的弱者もまた排除、選別の対象にするのは新自由主義を標榜する右翼政権の本質であるからだ。
 ところが、新聞記事はそのような違法な介護をしている高齢者マンションがあるという告発記事だった。自民党政府のやること、ことごとくに不信を抱いてしまっている私は、こんな誤読をしてしまうのである。

 鹿児島県知事は川内原発の再稼働をなぜか「やむをえず」という形容を使って容認した。「やむをえず」というのは「ほんとうは避けたいのだが」という含意が前提のはずだが、いそいそと容認に踏み切った行動はそんな気持ちはさらさらないことを明らかにしている。
 川内原発再稼働をめぐる政治的言説から、事実とか真実とかを見いだすことはほとんど不可能に近い。「ほんと」がまったくないのだ。原子力規制委員会の田中委員長は川内原発が規制基準をクリアしたとしながらも「安全とは言わない」旨の発言をし、安倍首相は「世界一厳しい安全基準」だと何の根拠もないことを言い、あげくは「100%安全でなければ再稼働しない」と言いながら規制委員会の承認を根拠に川内原発の再稼働を推し進め、鹿児島県に再稼働容認を要請する宮沢経産相は「100%安全とは言えない」などと口走る。責任大臣であるその経産相は川内原発を「カワウチ原発」と呼び、もともと原発の安全性どころか原発そのものに知識も関心も持っていないことを自ら暴露して見せた。科学者の責任をハナから捨てている田中規制委員長が、川内原発再稼働の危険を指摘する火山学会に八つ当たりをして科学者としての責任を云々するに至っては、逆に科学者の笑い者になってしまっている。
 例を挙げればキリがないのだが、原発をめぐる政治的(政治家の)言説は、事実に基づかないし、科学的根拠もない。論理的に組み立てられてはいないし、ましてや人間的な(心情的な)真実すらないのである。言説の責任など考えようがない。どこをみても言葉に関する規範というのがない。準拠枠や言語ルールが破壊されている。まったくアナーキーなのである。
 「自民党政府の政治的言説はアナーキーである」というのが、今日の面白くもない結論である。熱がぶり返してきた。
 さて、日付を11月7日に戻して、金デモの話である。
 久しぶりの勾当台公園だ。私の防寒対策は不十分らしく、じっとしていると少しならず寒い。フリースピーチは、やはり川内原発再稼働のこと、それを容認した鹿児島県知事への批判になる。
 みんなは、再稼働容認に怒ってはいるものの、一方では予想外の展開だったわけではないことも知っている。金に縛られた原発地元がどう動くかについては嫌と言うほど知っているのだ。100%安全なはずなのに、真剣に避難訓練をしている。そういう矛盾と不可能を生きているのだ。

原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し  
         佐藤禎祐 [1]

 アナーキーな政治言説に対抗するにはどうしたらいいのだろう。アナーキーにアナーきーな対応では混乱するばかりだろう。「革命がもたらす混乱は美しい」などとおさまってはいられない。

デモンストレーションとデモクラシーの結びつきは有益な言語学的偶然である。

 4日ほど前に読んだニコラス・ルーマン(社会システム論のルーマンはあまり好きではないのだが)の言葉 [2] である。
 アナーキーに対抗するには、デモンストレーションがいい。正しい理路と人間の倫理を規範とするデモンストレーションで対抗する。それがデモクラシーへの道だ。ルーマンはそんなことを主張してはいないのだが、デモンストレーションとデモクラシーの言語学的偶然の結びつきは、私にそう教えているように思う。

[1] 佐藤禎祐歌集『青白き光』(いりの舎、平成23年)p. 38。
[2] ニコラス・ルーマン(カイ-ウーヴェ・ヘルマン編、徳安彰訳)『プロテスト――システム理論と社会運動』(新泉社、2013年)p. 241。


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