城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

愛知県の人々 必見の衝撃的城郭ブログ記事!

2021-08-19 10:12:33 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、


城郭ビイスタ論 上文字クリック




◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が凄い人気です。

◆長谷川
それは生月会長が動画にしましょうと賛同された
からで生月さんの見解や見識を尊重して下さい!
愛知の皆様投稿最期まで是非読んで下さいませ。

▼安土城 「扇型複合縄張」天正4年 1576年 織田信長 長谷川線

天正18年(1590年)に関白太政大臣豊臣秀吉の小田原石垣山城

▼小田原石垣山城も二方向からビイスタ線がある。

◆伏見木幡城 「扇型複合縄張」か?豊臣秀吉 伏見木幡城 
禄5年(1596年)「十四日、伏見山山頂に御縄張仰せ付け
られ、奉行衆罷り超す」(『当代記』)とある。
◆伏見木幡城 「扇型複合縄張」か?豊臣秀吉 伏見木幡城 

伏見小幡山城「扇型縄張」

▼江戸城徳川家康「扇型複合縄張」慶長11年(1606年)

▼城郭測量の基本原則 享保18年 1733年
原則として城は2方向から計測測量するようだ。

◆湖岸様
米原市朝妻城ビイスタ構造を長谷川先生が解説
されている投稿を見てまさかと!衝撃を受けた。


◆対談者
米原の朝妻城の城主とは一体誰なんでしようか?

◆長谷川
父が浅井氏家臣の新庄直昌で息子が新庄直信頼
です。ウィキペディア(Wikipedia)より引用を
します

凡例
新庄直頼
時代
戦国時代 - 江戸時代前期
生誕
天文7年(1538年)
死没
慶長17年12月19日(1613年2月8日)
改名
直頼→晟珊
別名
通称:新三郎、新庄駿河入道晟珊(略:新駿入)、宮内卿、法名:晟珊
戒名
総寧寺殿月海晟珊大居士
墓所
吉祥寺(東京都文京区駒込)
官位
従五位下駿河守、宮内卿法印
幕府
江戸幕府
主君
浅井長政 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 秀頼 → 改易 → 徳川家康
常陸麻生藩初代藩主
氏族
新庄氏(秀郷流)
父母
父:新庄直昌、母:久我大納言某の娘
兄弟
直頼、直忠、直壽[1]、ほか女子2名
正室:佐久間盛重の娘
 室:前田利太の娘
直定、直綱、堀秀信[2]、直房
女(柴田帯刀[3]室)
 養子:虎姫[4](中川秀成室)


新庄 直頼(しんじょう なおより)は、戦国時代から
江戸時代前期にかけての武将、大名。通称は新三郎。
官位は従五位下駿河守、後に剃髪して駿河入道晟珊
とも称し、後に法印に叙されている。直忠は弟。 
摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、
高槻城主。豊臣秀吉の御伽衆。関ヶ原の役で失領したが、
文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから[7]、
徳川家康に召し抱えられ、常陸麻生藩の初代藩主とさ
れた。 
◆質問者
朝妻城主 新庄直頼 正妻は尾張の御器所城城主で
織田家家臣 佐久間盛重とされますが、御器所城に
はビイスタ工を法施した城郭なのでしょうか?

◆長谷川
私は、愛知中世城郭研究会の一員でもありますが
『愛知県中世城館跡調査報告』に明治時代地籍図
が存在し、御器所西城のあった字北市場の東南に、
御器所東城が記され西には御器所東城の地籍図が
残されてます。現在の愛知県名古屋市昭和区の城。
▼御器所東城明治期地籍図
▼長谷川博美 ビイスタ放射線「赤色」挿入考察①

▼長谷川博美 ビイスタ放射線「赤色」挿入考察②
 登城海道とは「外城」つまり外郭の街道の意味?
 
▲耕作地と城郭領域や城下の町割も放射線型縄張を
読み取る事が出来る。また小字「中屋敷」地割等も
著者罫書き線の青線のラインに適合する。


▼長谷川博美 ビイスタ放射線 御器東城 考察①

▼長谷川博美 ビイスタ放射線 御器東城 考察②


◆質問者
新庄直頼の正室:佐久間盛重の娘とあります盛重は
桶狭間合戦で丸根砦を守って玉砕した佐久間大学盛
重で永禄3年桶狭間合戦で佐久間氏はビイスタ工法
を丸根砦に採用していますか?

◆長谷川
丸根砦とは単純な円郭式の砦の様に一見みえますが
詳細に調査検討しますと「放射型縄張」や「扇型縄張」
がな、繊細検証すると佐久間盛重の縄張が判明する。




◆長谷川 2カ所 

◆質問者
佐久間大学盛重の息子はだれですか?

◆長谷川
盛重の長男は信長の家臣で加賀尾山城主「後の金沢城」
の『久間玄蕃盛政』に相当致します。

◆質問者
天正11年賤ケ岳合戦の佐久間玄蕃盛政の陣城
「行市山城跡」にはビイスタ測量法が存在を
致しますか?

◆長谷川
行市山城址には幾何学的ビイスタ測量法が存在します。


◆質問者
柴田勝家の先妻は佐久間重盛であり勝家から見て
佐久間玄蕃盛政は甥に相当致します。柴田勝家は
ビイスタ工法を天正11年1583年の賤ケ岳の合戦に
使っていますか?

◆長谷川 「放射型ビイスタ」 使っています。
内中尾山城/玄蕃尾城 天正11年1583年柴田勝家築城




◆対談者
柴田勝家天正11年1583年玄蕃尾城ビイスタ素晴しい!
元来は柴田勝家の主君は織田信長でありません信長の
弟で末森城織田信勝の家老でしたが稲生の戦いで信長
に敗れ主君を信勝から信長へ変えましたね!さてさて
『信長公記』には末森の城は尾張としては「山城」と
書いています。もしかすると末森城にもビイスタ工法
が存在するのではないのでしょうか?
◆長谷川
古図では末森城とは非常に美しい「扇型縄張」です!

◆長谷川
非常に用意周到で完璧に近い「扇型ビイスタ縄張」です。
◆長谷川
尾張中村出身の藤吉郎秀吉は太閤となり肥前の
名護屋「なごや」に肥前名護屋城を晩年築城を
致します。秀吉の生家からは那古野「なごの」
が近所にあり九州において秀吉は那古野の頃
を追憶して自ら人生を振り返っていた事でしよ
う。藤吉郎の肥前名護屋城もやはり扇型に縄張
しています。「扇型ビイスタ工法」を展開して
おります。▼肥前名護屋城「扇型ビイタ工法」



◆秀吉の兄弟 羽柴秀長の城もやはりビイスタ工法を使う。

◆長谷川
父が浅井氏家臣の新庄直昌で息子の新庄直信頼を
ウィキペディア(Wikipedia)より引用すると。

天文7年(1538年)、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌
の長男として生まれた。 天文18年(1549年)、父が37歳
のときに江口の戦いで戦死し、11歳で後を継いだ。『浅井
三代記』によると、浅井氏と六角氏の間で揺れ動いていた
が、最終的には戦国大名・浅井長政に従った[5]。 元亀元年
(1570年)の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦
っているが、その後、同2年(1571年)2月に浅井方の南方
の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城し、織田方の
丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して
軍門に降った[5]。 織田家では江北を任された羽柴秀吉の
与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第
に家臣化された。 天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに
従軍し、近江坂本城を守備した。この頃、山崎城3万石に
封じられていたというが、時期ははっきりしない[5]。天正
19年(1591年)に近江大津城1万2,000石に移封されるが、
嫡男・直定の所領と併せて2万4,000石ともいう[6]。秀吉の
馬廻を務め[5]、同年11月、三河吉良狩猟のときに直定と共
に秀吉に随従した[6]。また、伏見城普請を分担[6]。 文禄
元年(1592年)、文禄の役には、直定(新三郞)が兵300
を率いて朝鮮へ渡海した。 文禄3年(1594年)5月23日、
肥前名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、直頼は
長谷川守知、尼子三郎左衛門[8]、三上与三郎と共に御酌通
之衆として次室の末席に控えていた[9]。同年10月、大和宇
陀城主に移封され[5]、同4年(1595年)、摂津高槻城に移
封され、3万石に加増されたが、この頃、秀吉の御伽衆に
も列する[6][5]。 慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して
遺物金十枚を受領[6]。 慶長4年(1599年)、徳川家康が
上洛した際に、加藤清正、浅野幸長と共に家康の伏見屋敷
を警護した[10]。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは
西軍に与し、東軍の筒井定次の留守部隊を押しのけて伊
賀上野城を占拠し、そのまま籠城した[6][10]。『寛政重修
諸家譜』には、当初は東軍に与しようとしたものの、周囲
の大名全てが西軍に与していたため、やむなく西軍に属し
たと書かれている[10]。急を知らされた筒井定次が帰国し
対峙したため、定次の息を人質とする和睦を結んで退去し
た。(『伊乱記』)「上野城の戦い」も参照戦後処理に
て改易となり、新庄父子の身柄は蒲生秀行の預かりとな
った[10]。慶長9年(1604年)1月15日、家康に召されて
駿府に入り、赦免を受け、江戸の徳川秀忠に拝謁して、
常陸国行方郡・河内郡・新治郡・真壁郡・那珂郡、下野
国芳賀郡・都賀郡・河内郡の8郡において、3万300石を
与えられ、後に行方郡麻生に立藩した[10]。 慶長13年
(1608年)12月26日、法印に叙され、宮内卿を称す
[10][6]。慶長17年(1613年)12月19日に死去。享年75。
直定が跡を継いだ。 
脚注[編集]
1.     ^ 号は蔵斎。秀吉に仕える。 
2.     ^ 同じ坂田郡の堀秀村の養子。 
3.     ^ 松平忠直の家臣。 
4.     ^ 実は佐久間盛政の娘。 
5.     ^ a b c d e f g 谷口 1995, p. 210. 
6.     ^ a b c d e f g h 高柳 & 松平 1981, p. 125. 
7.     ^ 尊朝法親王の『唐崎松記』に「文武世にすぐれ、
五常もをのづから備わりたる人」と賛辞が載っている[5][6]。 
8.     ^ 秀吉の馬廻の組頭。 
9.     ^ 『松浦古事記』による。 
10.   ^ a b c d e f 堀田 1923, p. 286. 
参考文献[編集]
  • 堀田正敦国立国会図書館デジタルコレクション 「秀郷流新庄」 『寛政重脩諸家譜. 第5輯』 國民圖書、1923年、286-287頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/152 国立国会図書館デジタルコレクション。
  • 谷口克広; 高木昭作(監修) 『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、1995年、210頁。 ISBN4642027432。
  • 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、125頁。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 衝撃!日本城郭史 革新的研... | トップ | 近江三雲城の解説 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (鮎地)
2021-08-18 07:35:47
いやあ!愛知の城、御器所城のビイスタ解説、明治の地割に合せて見事に整合性ある中世城郭が解説をされているのに驚嘆致します。それに末森城にまさかビイスタの法則が存在して適合するなんて如何なる城郭の先生からも御教示を賜った事がありません。長谷川さんの城郭解説は最新の研究手法ではないかと思っています。また機会があれば名古屋、岐阜などで是非御教示を賜りたいと思っております。
返信する

規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、」カテゴリの最新記事