城郭 長谷川博美 基本記録

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日本城郭新論誕生 中央測量腺のある城

2022-08-15 04:07:53 | undefined

日本城郭新論誕生

中央測量腺のある城

 

◆一般

城郭の測量基準点を模索しながら

諸城の城郭測量着基準点を幾何学

的アプローチで解説して行く動画

が大変話題になつて動画視聴現在

3600人を超える勢いと聞きます!

 

◆有識者

動画は日本城郭研究の根幹をなす希代

の城郭論で全く新規の新研究視点です。

 

◆関東様

関東地方で一番高度な設計技術縄張

で築城された城郭は武蔵杉山城です

 

◆一般様

長谷川先生!杉山城を幾何学城郭論

ビイスタ論で解説をお願い致します。

 

◆長谷川

武蔵杉山城様々なビイスタ工法の

混成で築城されていますが今回は

とりあえず中央ビイスタ型縄張の

類例として紹介をしておきます。

 

▼武蔵杉山城 中央ビイスタ論

関東地方の城の中央ビイスタは

今投稿の後半で紹介いたします。

▼茨城 真壁城の中央ビイスタ工法

◆質問者

日本を代表する織豊城郭の代表たる

安土城には中央ビイスタ存在します?

 

◆長谷川

織田信長の安土城天主台の縄張こそ

中央ビイスタ工法の典型先鞭です。

◆長谷川

織田政権の府城たる安土城には中央

ビイスタも扇型ビイスタも存在する。

 

◆長谷川

しかし安土城に先行する地下蔵付き

天守台の小里城も中央ビイスタ工法

▼池田恒興に築城させた小里城の天守台

 

 

◆有識者

織豊政権の「織」を代表する安土城

城郭構図を解明された事は真に重大

 

◆質問者

安土城プロトタイプの城 信長の

尾張小牧山城本丸に中央ビイスタ

か扇型ビイスタは存在しましたか?

 

◆一般者

長谷川先生は城郭の深奥を極めた人

と聞いています。おそらく小牧山城

本丸のビイスタ工法は一発で解説と

解明もされるでしょう。それぐらい

ビイスタ論とは大変学術性が高い!

◆長谷川

山頂から検出された石垣段を分析

しますと本丸は放射型ビイスタの

工法を用いて作られたと思います。

また安土城のプロトタイプ城郭と

考慮した場合本丸石垣配列は中央

ビイスタの可能性もあります。

◆一般様

スゴイ城郭理論だ『城郭ビイスタ論』

 

◆質問者

天正4年築城以前の城で織田信長も

現地を訪れた城として中央ビイスタ

工法の存在する城郭遺跡あります?

◆長谷川

元亀3年から元亀元年に年号が切り

替わる時期に信長は北近江の大名

浅井氏小谷城の『大嶽城』を占領

確保しますこの城も中央ビイスタ

工法が城の中心部に読み取れます。

大嶽城は浅井三代の初代亮政創築

の城郭にして『天文日記』に本願寺

より彼自身の葬儀に香典が贈られた

事が記録されています。

 

また天正4年以前の織田信長の政庁

は岐阜城ですが岐阜城の信長館に

中央測量腺中央ビイスタを読み

取る事が可能かと私は思います。

◆長谷川

未だに研究継続中ではありますが

天正10年本能寺に織田信長を殺害

した明智光秀の坂本城址の地割も

再検討する必要性あると思います。

▼昭和の下坂本の地割現状

◆質問者

天正10年織田政権の主体信長は京

本能寺に明智光秀の謀反により彼

は亡くなりますが信長軍団の中国

方面総指揮官の羽柴秀吉は姫路城

に中央ビイスタ工法を用いて築城

したのでしょうか?

 

◆長谷川

姫路全山の石垣が羽柴秀吉時代の

ものとは断言出来ませんが三国堀

を中心とする場所に中央ビイスタ

が読み取れると私は思います。勿

この城には扇型ビイスタも存在

しますが今回投稿は中央ビイスタ

と言う事で御了承をお願いします。

◆質問者

中央ビイスタ腺は長谷川さん独自の思い込み

偏見により作成されてはすないでしょうか?

そもそも日本文化のなかに風水や家相学的な

要素を含む客観的な資料をご紹介下さい。

 

◆長谷川

▼長浜市の国友の鍛冶屋敷の放射状朱線で

家相学を加えた図の朱線は元々図面に入っ

ています。私が奇説を述べる意志は全く

持っておりません。▼国友鍛冶屋敷図

◆長谷川

人類史を鑑みるにおいて弧度法

とよばれる円形分割法も大切!

要するにスイカや円形を分割

する時の幾何学知識は重要!

4分の1、6分の1、八分の1

12分の1と言う思考が大切!

 

◆長谷川

羽柴秀吉の天正10年山崎合戦で明智

光秀を討ちます秀吉は占領した天王

山山頂に大坂城築城する前にこの

山にしばらく居住して政務を取りま

すがこの天王山山頂の山城もやはり

中央ビイスタ工法と扇型ビイスタの

測量技術を活かした築城を実施する。

▼天王山の城 宝積寺の城ビイスタ

◆長谷川

羽柴秀吉は大坂本願寺城の跡に自らの

天下平定の為の豊臣政権の中核たる城

天正大坂城を築城しますがこの秀吉の

城も典型的な中央ビイスタ構造を持っ

城であった事が古図から読み取れます。

▼徳川秀忠再建の新生大坂城にも中央ビイスタが

▼石山本願寺城の前身山科本願寺城の中央ビイスタ

▼太閤秀吉 肥前名護屋城の中央ビイスタ工法

◆長谷川

豊臣政権の大老として豊臣家をよく補佐

した宇喜田中納言秀家の岡山城の構造も

典型的な中央ビイスタ工法の城郭です。

▼藤堂高虎の今治城の縄張です。美しい放射線

▼高虎担当した尾張名古屋城の縄張です。

▼徳川家康の隠居城 駿府城の中央ビイスタ

▼徳川2代将軍秀忠も家光も刺殺した江戸期淀城

の中央ビイスタ

▼府内城の中央ビイスタ「大分城」

▼藤堂高虎の伊勢 津の政庁の城の縄張図です。

 

★関東地方の城の中央ビイスタ★

▼前城主の縄張を踏襲している可能性も十分あります。

▼徳川幕府江戸城の中央ビイスタです。

▼江戸城の紅葉山と西の丸放射状測量法

『中央ビイスタ工法』です。

▼徳川家康 近江永原御殿 中央ビイスタ

▼徳川家康 近江水口城 水口御殿 中央ビイスタ

▼中央ビイスタ工法の概念です。

 

▼安土城の屋敷群にも中央ビイスタが読み取れる。

▼織豊系城郭 池田恒興の兵庫城の放射型ビイスタ

▼筒井氏 藤堂高虎の伊賀上野城の中央ビイスタ

▼遠州 田中城の放射腺縄張「円郭式」

▼豊臣大津城 京極高次の籠城戦が有名

▼京極高次の若狭小浜城に移封になった小浜城

大和 宇陀松山城 放射型ビイスタ工法

▼相模大庭城

▼武蔵 深大寺城

▼武蔵 松山城

▼伊予大洲城の中央ビイスタ

▼肥前小倉城のビイスタ工法

▼東三河 古宮城

▼徳川家康 美濃赤坂岡山陣

▼彦根城 鐘之丸の中央ビイスタ

▼佐和山城 本丸の中央ビイスタ

 

 


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日本国蒼然!城郭ビイスタ論

2021-06-05 11:38:08 | undefined
日本国蒼然!城郭ビイスタ論
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆備前国 宇喜多家
天正年間、羽柴秀吉は備前の宇喜多直家①に
主君たる織田信長への稟議や承諾を経ずして和
睦提携を結んだ秀吉は事後報告すべく信長の居
城安土城へ参上信長の叱責を受ける事件が『信
長公記』に②記録されている。中国方面での対
毛利策戦で秀吉の与力、協力者として備前宇喜
多氏が信長傘下に加わる事の意義は当時の羽柴
秀吉の中国方面対毛利戦進捗に備えた戦略とし
して備前宇喜多氏の存在は不可欠な問題であっ
た事。その後宇喜多直家は病死③し遺児の若
き子息宇喜多秀家④を後継者とした、八郎秀家
の母⑤を秀吉の側室として人質として収監した
たされるが史実かは不確実で宇喜多氏と秀吉
との同盟提唱関係は縁戚的な政策だけに限らず
羽柴秀吉が城郭普請や築城面で宇喜多氏の当時
の拠点備前岡山城の築城技術指導や築城技能集
団の派遣の可能性支援を実施した可能性を秀吉
の天正大坂城図⑥と両城縄張比較研究考察を試
みてみたいと思う。

◆本論で述べる縄張の定義と意味
 本論では従来の城郭縄張では定石として語られ
てきた城郭の導入路や虎口や横矢や曲輪の配置に
構造に拘束されない城郭形状の設計デサインの
基本構成を縄張として捉えて行く試論を展開して
新しい城の分析手法の地平線としての考察を加え
て行きたい。現代の設計用語で言うならば、放射
状基準線、放射状グリッドと呼ばれるものに相当
する集結測量起点や放射状測量方法に主眼を照射
したい。これは現代平板測量でも通常に使われる。

◆天正安土城 放射線状重複縄張技巧の一例
 本論に入る前に、天正4年期に築城された織田
信長の居城に存在する上記縄張手法⑦を紹介し
著者の提唱する縄張技巧の天正織豊政権の築城
縄張の概念を本論の予備知識として是非とも紹介
しておきたい。下図は安土城の伝菅家邸跡(俗称)
八角平及び一ノ坪と呼ばれる腰郭に相当する実測
図であるが中心点Aから内郭1と外郭2、内郭3と
外郭4、内郭5と外郭6、内郭7と外郭8の石垣線縄
張は放射A点を起点として内郭点と外郭点の石垣
線を意図的に放射状に設計して城郭を構築してい
る現実を読み取る事が可能で、天正4年以降築造
され続けた安土城織田政権の城郭縄張の一技巧た
るべき多角形放射線状測量工法を読み取とれる。

◆天正大坂城図面⑥の放射状縄張を分析
上図は城大工中居家に伝わる大坂城本丸を中心とした
当該絵図にある如く、地下から石垣が検出されて図面
の正確さには定評があると言われている。秀吉築く所
の天正大坂城図は本丸の周囲に三重の石垣が巡らされ
ており中井家図には上の段、中の段、下の段の文字が
見える。各部の横矢や櫓台糖の縄張りは城郭中心部か
ら城郭の形状を形成する石垣の要所要所を放射状に
経由している事が判明する。これは城郭中央部から
かって放射状に測量し石垣縄張を設定した証左であ
ろう。

◆秀吉の天正10年天王山城(山崎山城のビイスタ工法)
秀吉が山崎合戦で明智光秀を破り織田信長の覇業を
継承すべく築城した城として山崎山城が知られてい
る。新聞報道⑦による赤色測量図を観察著者の述べ
るところの放射線測量縄張ビイスタ工法が複数箇所
で観察する事が可能である。掛線挿入長谷川博美。



◆備前岡山城中心部の石垣縄張の考察
先ずどの部位が天正期の石垣縄張かは限定できない
が本丸を中心とする部位に放射状縄張が存在するの
か下記岡山城図⑧を検討してみる事にしたいが原図
段階では天正期の岡山城の城郭測量の中心点は識別
は不可能である。
しかし城郭中芯部を求める事は天正安土城や天正大坂城
の図面の如くその放射線測量縄張の存在を分析推定する
事は不可能ではないだろう。
◆安土城天主の放射状縄張「長谷川博美掛線挿入」


城郭とは自然地形に束縛されながらも自然地形
を何か一定の法則を用いて設計設定されている
事案を従来の城郭研究経緯からは戦前戦後とも
放射線状測量による縄張論を述べる研究家学者
皆無である。つまり自然地形と言う文字の呪縛
拘束に捉われる事により研究家学者は現代に於
ける平板測量と同じ理論による城郭縄張構造が
存在する事を指摘しなかった事にある。著者は
安土城には放射状縄張測量が存在する事を常時
唱え続けたが安土城の放射状縄張ビイスタ工法
が存在する事を誰一人として気づかない現象も
実際に発生している。これは城郭縄張とはその
形状設計の相違工夫こそが城郭の縄張の本質と
捉えられてきた傾向が大きく影響している事だ。
▼安土城ビイスタ工法図⑨なおビイスタ工法に
ついての動画は以下の動画収録を参考に願う。
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆長谷川
私が突拍子もない奇説を唱える研究や夢想や幻想
を語る研究家ではなく現実の城郭遺構の観察を基
に解説する現実的現場主義的遺跡解説者という事
で滋賀県外から訪れる人々や滋賀県内でも城自体
を「おまつり/フエスティバル/祭礼/町興」等には
関係しない城郭遺跡本体に強い興味を示す知性派
の人から城址見学学習への参加と言う意義で支持
を得ている様に思える。先ず現代人は城郭の測量
を平板測量を日常的に用いながらも測量技師達は
遺跡を計測した形状に能動的に機械的に作業して
計測された遺跡の形状を学際的分析しようとする
意志は極めて希薄と言える。先ず江戸時代に於い
ても城外から城郭を複数測量起点を用いて放射線
状に測量していた根本や城郭測量の系譜を先ずは
認知認識しておく事が肝要であろう。その様な意
味で享保18年の『量地測量指南』は城郭測量系譜
を知る上で貴重な資料と言える資料であ。
◆七番線には局地的に放射状線が交わる様子も表現
されているが安土城においても局部に放射状縄張を
見い出す事ができる。享保18年の城の測量方法と
は古来より城職人や築城者に伝承された城縄張技術
の伝承や系譜や伝統文化の流れを汲むものであろうる


◆安土城の墨書の注意注目点!
享保18年の『量地測量指南』には九番目の測量線が
認められる。建築では先ず最初に立てる柱の事をイ
の一番と言う記号を用いる。さて安土城に九番目の
測量地点を示す痕跡が過去に実際に発見されている
本論城郭測量線の九番の線を意味するものであろう。


その墨書とは「惟住内九」の墨書文字で
ある。安土城が平板測量を用いて放射状
に惟住は安土城普請奉行の丹羽長秀の意
で内は「内衆」つまり丹羽氏の築城従事
者の味で九番線とは本論の根幹であるも
城郭放射状測量「ビイスタ工法」の存在
が認識される。
▲註13
さて岡山城の放射線測量の痕跡を著者が
模索すると複数の放射線測量の痕跡の痕
を読み取る事も可能である。内郭から外
郭へと関連づけて城郭を縄張している事
が理解可能である。
◆岡山城の局部的放射設計の考察
岡山城では本丸不明門内側の石段が並行線
を用いて設計されていない。石段の右が広く
左が狭く一見不合理に構築されている。この
事案をアバウトに山城の自然地形に従ったと
結果の普請工事と解釈される場合が多かった
がAの測量起点からBの不明門Cの多聞とその
平面設計は放射状設定が潜在する事を洞察し
看破したい。

◆放射状縄張設計の存在や潜在と洞察
それは安土城の櫓台石垣のA、Bが、手前が狭く、奥が
広く設定している事を常に念頭に入れて城郭遺跡測量
図を一般城址見学者もが図面を観察する必要があろう。
また安土城には多数の放射線測量の痕跡を見いだせる。





◆天下平定を標榜して関白秀吉として小田原石垣山城図⑩


◆天下人太閤秀吉の城 肥前名護屋城のビイスタ工法⑪
文禄慶長の役における秀吉の本営城郭=肥前名護屋城


項註
  1. 宇喜多 直家(うきた なおいえ)は戦国時代の武将。
    備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。
    官位は従五位下。宇喜多興家の子。子に秀家など。室
    は中山信正の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とさ
    れる、円融院。
  2. 『信長公記』天正七年(1579年)9月
  3. 天正9年(1581年)2月14日直家は岡山城で病死
  4. 元亀3年(1572年)、備前国岡山城(岡山県岡山市
    北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。通称
    八郎を称す。 天正9年(1581年)、父・直家が病死、
    家督を継ぐ天正10年(1582年)宇喜多氏が当時従属
    していた織田信長により、本領を安堵された。
  5. 円融院 (えんゆういん、 天文 18年( 1549年 ) -
    没年不詳)は、 日本 の 戦国時代 の女性。 三浦桃寿丸
    ・ 宇喜多秀家 ・ 容光院 ( 吉川広家 室)らの母。
    三浦貞勝 、 宇喜多直家 に嫁ぎ、一説に 豊臣秀吉 の
    側室的な存在だったともいうが、定かではない。
  6. 城郭大工中井家伝承の豊臣氏大坂城絵図
  7. 京都新聞掲載 大山崎町教育委員会作成 赤色測量図
  8. 滋賀県教育委員会安土城測量図に長谷川加筆図掛線挿入
  9. 岡山城本丸のつくり より引用 長谷川掛線挿入
  10. 安土城主要部要図「滋賀県教育委員会作図」著者掛線挿入
  11. 長谷川博美 小田原石垣山城略測図 豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。
  12. 佐賀県教育委員会肥前名護屋城測量図に長谷川が掛線挿入
  13. 昭和53年小学館『探訪日本の城/別巻/築城の歴史』朽木史朗氏

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超高度城郭研究集団 余呉城郭研究会 米原城歩会!?

2020-09-21 10:28:44 | undefined
超高度城郭研究集団 余呉城郭研究会 米原城歩会!?
対談者
 今回の投稿の要点とは一体何ですか!
長谷川
 私の目的は私個人が名声得る事ではなく城見学
 に参加される皆様が城を見る観る視る、気付く
 検証認識する能力を力量を体得される事ですよ。

余呉城郭研究会会員
 なにも難しい事を長谷川先生は決して言っては
 おられません!
 ◆車を運転したら踏切で一旦必ず一旦停止する。
 凸城に行った必ず一旦停止して堀切をみる事です。
 ◆車を運転したら一旦停止車線の線前で停止です。
 凸城に行ったら土塁線で一旦止まり観察しますよ。

 ★これ等、全て奇妙な事ではなく大切な基本です。
 
 城郭基本わするるべからずです!何事も基本です。
 何事も「初心忘るるべからず」世阿弥の言葉です。

対談者
 しかし驚きました!令和2年の余呉城郭研究会の面々!
 9月19日前会長で理事の田畑氏、新会長生月氏、宮本さん、
 前川常務、長谷川先生も講師として賤ケ岳城、大岩山
 城、岩崎山城、穂崎谷古墳群「茶臼山陣」順次巡検された!
▼城郭フオーラム2020/9/19 賤ケ岳城の山頂で記念写真
 
▼賤ケ岳リフト乗り場に整列する余呉城郭研究会の面々

長谷川
 何が凄いと言えます?我々は無名の平凡な人々ですよ?

対談者
 そんな事ありませんよ!私は長浜臨湖で長谷川先生の
 城郭ビスタ論講演を聴講して、こんなに新しい視点の
 学門があるのか?存在するのかと驚愕、卒倒しました。
▼安土城ビスタ論 Ⓒ長谷川博美

 長谷川先生から
 聴講し学ばれている方々の傾向はどの様な傾向の人?
 また伊勢田辺城の図面を一目見て大変驚きましたよ!


長谷川
 国立大学卒業のシコンピユタープロググラマーだっり
 一流料理職人だったり平凡な主婦だったりと様々です。
 誤解してもらうと困りますが、私個人としては学歴や
 経歴や肩書は一切全く感心ありません。田畑さんを初
 めて見た時も、この人は議員になるべき才覚や資質を
 潜在的に備へ持つ人と直感的に洞察しました氏は議員
 や会長や理事などに自然に推挙推薦される器を持って
 おられます。考古学の事を更に学ばんと遺跡発掘現場
 にも実際に行かれますが決して是を口外されない賢人


対談者
 開催される見学会は講演は紳士的な有識者を中心に
 品格ある名士、善良な精神の人々を堅実に集める。

対談者
 ところで長谷川先生の城郭図面は初心者レベルでは
 なく「超高度城郭研究」の分野だと私は思うんです。

長谷川
 いいえ!私は素朴純粋なだけの凡庸な人間なのです!

対談者
 いや違うと思います!日本の各地の遺跡では西欧
 のキリスタン文化とともに高度な測量技術や都市
 計画や設計を実施できるテクノラート技術大名が
 存在した。キリシタンの墓にはローマ字も見える。
 永禄、元亀、天正、文禄、慶長とも異国の宗教と
 ともに高度な測量技も流入されたと私は思います。

▼岩崎山城 城郭遺跡内部
▼岩崎山城図


対談者
 先般見学した岩崎山城でも一般の人々
 にはただの草薮にしか見えません!しかし長谷川
 先生は詳細な図面を作成されており初めて現地を
 見学して長谷川先生の特殊な能力驚いた!それを
 学ぼうとする初心者の人や謙虚な人や城址に対峙
 する姿に正直!驚いております。特に岩崎山城の
 図なんかスゴイ!金沢の城下を設計した高度技術
 を持つ高山右近の技術者としての面目躍如です!
長谷川
  貴方は歴史を看破洞察する能力持っておらる!
 確かに高山右近の岩崎山陣城は物凄い城郭遺構!
 これを草藪と評価する人もあれば、高山右近の
 真実の深淵と実力と看破する人もある。遺跡は
 是を見る人の謙虚な姿勢や観点や資質に関わっ
 てきます。

対談者
 岩崎山に高度ビスタ工法や高度な築城設計の粋
 長谷川先生な既に看破されとていると思います!

▼つまらない藪の中の城郭図と即断する軽輩も多い。

▼しかし高山右近さりとてはビスタ工法を用いて流石の人だ!南から

▼北からのビスタ工法の検証


 
▼西北からのビスタ線の検証

▼城郭を律然と東西に幾何学的に設計配置する設計施工の素晴らしさ!

対談者
    これはしたり!私の城郭視点など足元に及ばない研究!
 すごい!うわさに聞いていた余呉城郭研究会の進歩性
 や斬新な研究視点は今後50年後100年後には高く評価
 をされる事でしょう!▼岩崎山の巨岩を検分する会員。

余呉城郭研究会のみんな
 冗談を言わないで下さい!今から50年後100年後には
 我々の肉体や生命は失われています。人間とは学べる
 事を学べる時に、気づき、学ぶ事ではありませんか?
 自分の心に嘘をついて、真実を求めない人は虚しい!

▼現地案内板の修理保全活動

我らは令和に奮闘する湖北男児なのですよ!凛と立ち向かう!

必死に挑む!懸命に挑み!懸命に城郭の道を切り開く!

頑張れ!余呉城郭研究会!
▼玄蕃尾城の巨大な土塁に驚嘆する!

見学会や講演は後半へと続く!

 

  
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