伊香人の魂!中臣の魂!余呉湖を眼下に見下ろす古墳群 付録も読んで下さい。飯喰山古墳群です。
長谷川
突然「オミシル」と言う古代人の人名を思い出しました。「オミシル」ってだれだっけ?
何度考えても思い出せませんでした。私は現在城郭講師として仕事は全くがありません。
歴史講演を依頼される事も全くありません。仕方なく落胆して『新撰姓氏錄』なる書物を
虚ろな気分で読んでおりました。この書物は平安時代初期の815年(弘仁6年)嵯峨天皇の
命により編纂された古代氏族名鑑です。左京神別上を読んでおりましたら伊香連が登場し
まして興味を抱きました。次のページを開くと何と探していた「オミシル」が登場します。
臣知人命と確かに書いてある。「オミシルヒトの命」私の記憶している「オミシル」です。
私は更に驚きました。しかし城郭講師の仕事も歴史講師の仕事も全くない虚脱状態の今の私には
「オミシル」に対して興味が更に湧いては来ません。虚な目をして放心状態で『延喜式神名帳』の
近江国伊香郡を読んでいるとなんと!伊香郡には、延喜式内社が46社もある。一郡の式内社が
多い事例として全国で三番目に多い事など伊香郡に住んでいる人なら誰でも知ってます。また私の
卒業した國學院大學や国史に詳しい人ならば誰でも知っている事案です。しかし私は「オミシル」
に拘っていて延喜式内社の乎彌神社「オミ神社」の名称がある事を喜びました。また隣りには
木之本黒田の大澤神社も記されて興味深いです。延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう
)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の事で当時の「官社」に指定
されていた全国の神社一覧ですが、先ほどの平安時代初期の815年(弘仁6年)に編纂された
『新撰姓氏錄』のほうか資料として、より古い事が解ります。それにしても今記している現在が
2019年であるから単純計算して『新撰姓氏錄』は2019年ー815年 = 1204年も前の記事です。
さて厳密に言って延喜式内社の乎彌神社が何処に存在したのか是を学術的に証明する事は無理
です単純に長浜市余呉町下余呉の江土ですと観光案内で説明する事は簡単ですが、城郭研究でも
神社研究でも学術的な研究家の立場で解説するとなると両者は非常に深く難しい分野と言えます。
研究と観光の分野は、全くの全く別野と言わざるを得ません。さて堅苦しい過ぎる事を言っても
話は前に進みません。早速現在の乎彌神社に行ってみる事にしました。現地に到着すると素晴らし
い駐車場と表示も調っており地元の皆様の方々には、深く謹んで感謝と敬意を表します。
私は余呉町出身ですから余呉駅に行くときには必ずこの神社の前を何度も通過しました。
乎彌神社は鳥居や手水舎はじめ社殿も素晴らしい荘厳さを湛えています。
社伝には★臣知人命、海津見命、★梨津臣命の祭神が記されていました。★印の神名を覚えておいて下さい。
境内には親切な次の案内版もありました。とても楽しく有意義なひと時でした。
※神社は作られ神社は消える。
さて、由緒案内版には貴重な伝承が記録されています。なんと式内社の「乃彌神社」乃美神社が
かって下余呉に存在したが天正11年の賎ケ岳合戦の影響で消えたとの事この伝承は神社史を考える上
では大変貴重です。神社とはその社を崇敬し奉斎する人々が移住したり消滅した場合には自然消滅致
します。下余呉の北組は乎彌神社を奉斎し南組は乃美神社を奉斎していたが北組南組仲良く協力して
今の乎彌神社にまとめられたようです。従って梨津臣命を祀る乃彌神社は消えた事になります。しかし
突然別の場所から神社遺跡が発見されたりまた資料が発見される場合もあり軽率には断定できません。
『帝王編年記』を※長谷川的に考察致します。
文中で特筆すべきは長浜市(旧伊香郡)の余呉湖に伝わる羽衣伝説です。
古老傳曰 近江國伊香郡 與胡鄕 伊香小江 在鄕南也 天之八女 倶爲白鳥 自天而降 浴於江之南津 于時 伊香刀美 在於西山 遙見白鳥 其形奇異 因疑若是神人乎 往見之 實是神人也 於是 伊香刀美 卽生感愛 不得還去 竊遣白犬 盗取天羽衣 得隱弟衣 天女乃知 其兄七人 飛昇天上 其弟一人 不得飛去 天路永塞 卽爲地民 天女浴浦 今謂神浦是也 伊香刀美 與天女弟女 共爲室家 居於此處 天女浴浦 今謂神浦是也 兄名意美志留 弟名那志登美 女伊是理比咩 次名奈是理比賣 此伊香連等之先祖是也 後 母卽捜天羽衣 着而昇天 伊香刀美 獨守空床 唫詠不斷
※(長谷川的解説)
※1近江國伊香郡(旧滋賀県伊香郡/現長浜市北部)
※2與胡鄕 (余呉郷/長浜市余呉町)
※3伊香小江(余呉湖)
※4天之八女(大陸や半島から渡来した八人の乙女/貴人や貴族に仕える奏楽を乙女の事)
※5自天而降(大陸や半島から天下った事)
※6伊香刀美(中臣の烏賊津臣の事か?中臣の伊香津臣とも言う。)
※7神人(貴人や宮廷や神社に仕える人)
※8白犬(伊香津臣に仕える新羅系の従者か?)
※9七人(奈良の七姫伝説/神武東征神話に登場する姫達に類似か?)
※10天路永塞(大陸や都に帰る事を長年阻止された。)
※11天女浴浦 今謂神浦是也(禊みそぎ等の神事や神占をする神浦)(尾野路浜オノロ浜か?白木の森モリか?)
天女と伊香津臣の間に誕生した子供達
※12兄名意美志留=兄(臣知人命/オミシル)★
※13弟名那志登美=弟(梨津臣命/ナシトミ)★
※14女伊是理比咩=女性(イセリヒメ)
※15次名奈是理比賣 =二女(イイセリヒメ)
※16此伊香連等之先祖是也=(古代氏族伊香連達の先祖である。)
↓読み下し文
古老の伝へて曰へらく、近江の国伊香(いかご)の郡(こほり)。与胡(よご)の郷(さと)。伊香の小江(をうみ)。郷の南にあり。天の八女(やをとめ)、ともに白鳥(しらとり)となりて、天より降りて、江(うみ)の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遥かに白鳥を見るに、その形奇異(あや)し。因りてもし是れ神人(かみ)かと疑いて、往きて見るに、実に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、やがて感愛をおこして得還り去らず。窃(ひそ)かに白き犬を遣りて、天の羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隠しき。天女(あまつをとめ)、すなはち知(さと)りて、その兄(いろね)七人は天上に飛び昇るに、その弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、すなわち地民(くにつひと)となりき。天女の浴みし浦を、今、神の浦といふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女(いろと)と共に室家(をひとめ〈夫婦[2]〉)となりて、此処に居み、遂に男女(をとこをみな)を生みき。男二たり、女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟(おと)の名は那志登美(なしとみ)、女(むすめ)は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連(いかごのむらじ)等が先祖、是なり。後に母(いろは)、すなわち天の羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、独り空しき床を守りて、唫詠(ながめ〈吟詠)すること断(や)まざりき。
天之八女(大陸や半島から渡来した八人の乙女/貴人や貴族に仕える奏楽の乙女を思わせる当時の中国の遺物。↑
余呉湖を眼下に見下ろす古墳群
伊香連の先祖に相当する古代豪族が『帝王編年記』の記述にあるような余呉湖を西の眼下に見下ろす様な山頂には
多数存在致します。先の乎彌神社の南に相当する山中にも古墳が存在致します。特に余呉湖を西に見下ろす古墳群と
しては滋賀県長浜市木之本町黒田字保崎谷の保崎谷古墳群が圧巻の迫力で訪れる人を魅了致します。この古墳群の
伊香連の先祖の古墳とは断定出来ませんが?岩崎山、大岩山、賎ケ岳を縦走される方は当古墳群を是非見学して下さい。
観光案内版は現地には全く御座いません。しかし私が城郭遺跡見学で言う様に看板が無くとも即刻遺跡であると認識
できる観察能力を各自が身に付けられますと城郭遺跡見学や古墳遺跡見学は俄然数倍の楽しさ興味深さで楽しめると
私は思います。長谷川先生城郭遺跡を解説して下さい。古墳を解説して下さいでは無くて楽しみながら遺跡を観察認識
できる。人生を楽しめる事も大切かと思います。自転車に乗る事は素晴らしい。でも何千回自転車を見ても自転車には
乗れません。何度水泳の練習を座敷の布団でしても泳ぐ事はできません。自転車に乗る事、水泳出来る事。の楽しさは
実践しないと解りません。城址も古墳も実践して体感される事を老婆心ながらお勧め申上げます。
下図は長谷川博美、保崎古墳群イラストです。
左の円墳と右の前方後円墳から成立しています。
特に左の台状に加工された巨大な円墳は賎ケ岳合戦の古戦場「茶臼山」でもあります。
下図は黒田観音坂にある大和型には属さない真に奇妙な形状の古様の古墳が存在致します。
楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓<たてつきふんきゅうぼ)は、岡山県倉敷市矢部
にある墳丘墓。形状は双方中円形墳丘墓に似た前方部が微妙にズレタ墳丘墓なのですが
遠く離れた滋賀県も時代は違いますが近江の国の東近江でも造出部が微妙にズレタ古墳の観察が楽しめるのです。
さてこれ等の墳丘墓は古代の地方王の王墓なのでしょうか?
それとも2箇所の造出部は春秋の先祖の祀りをした痕跡なのでしょうか?
いろいろと考えながら古墳や古城を楽しく注意して見学いたしましよう。「微笑」
付録 飯喰山古墳群見学記
いたべやまこふんぐん
古墳郡の見学の仕方は群集墳や古墳群の場合は主墳も陪塚も全部見学致しましょう。時に古墳群を包み込む
平場がつまり古墳群の墓域を示す城郭遺跡で言うところの帯郭に相当する場所も視認されると楽しいです。
時代 古墳時代
所在地 滋賀県東浅井郡湖北町河毛 飯喰山 いたべやま にあります。簡単に登れる岡の様な山です。
古墳群の全容や全体像は私のイラスト素描を御覧ください。
遺構概要
古墳群は円墳ほか前方後円墳1+円墳数墓。
さて主墳は前方後円墳とも前方後方墳とも判断ができないほど前方部が欠損しています。
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 31 m
後円部 直 径 19 m
高 さ 3.5 m
前方部 先端幅 10 m
高 さ 1.2 m
後円部は険しくせり上がって方墳の角を思わせる部位もあります。
前方部は祠により欠損していると思われます。しかし前方部は大きく開いて後期古墳の様子を思わせます。
東側面から主墳の様子です。なかなか迫力があり魅力的です。
南西部にも周溝を認める円墳が残っておりワクワク致します。「微笑」