城郭 長谷川博美 基本記録

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衝撃!日本城郭史 革新的研究手法  城郭ビイスタ論 大全!

2021-08-19 10:08:29 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆対談者
長谷川先生!大変な事になって来ました!
全国の町の教育委員会の文化財の部長級
課長級、主査級の方々達で今日本全国で
城郭ビイスタ論が話題騒然となっている
との事です!何でも長谷川博美とは誰か?
わが町の城址にはビイスタ工法が施工さ
ているのか?一体どうしたら?ビイスタ
工法の正確な中心点が求められるのかと?
日本全国津々浦々の文化財課が騒然です!

◆みんな
良く言うわ!私達長谷川先生の現地講義を受けて
来た人は「城郭ビイスタ論」なんか何十年も前に
余呉城郭研究会、米原城歩会で!熟知してた事!
今全国であわてふためいてビイスタ動画を何度も
見ている人々は全国の学者や学芸員や研究家達!

◆長谷川
戦前戦後を通し城郭研究のテーマ主観は建物、
曲輪、虎口、横矢、堀、土塁を縄張の根本と
誤認していた傾向が長く現代も続いています。

縄が城に張られる事。また測量台から縄や糸
を経始して城郭全体の基本デザイン構成構図
決定されてる経始の文言の意味や本意が認識
されていなかった事に、そもそも根本原因が
あります。貴方の会社や役場のビルの前には
定礎と呼ばれる、測量基準点が今でも残って
おります。これこ経始の「始」に相当します。
経は目には見えない測量機器が発する光学の
真っ直ぐな経線、経始の「経」に相当します。



勾殳玄・規矩術(きく)の基本語句の説明
勾殳玄(こうこげん)ピタゴラスの定理の応用。
※勾殳玄法には様々な呼び名がある。
勾・立水(たつみ、たてみず・たちあがり等ともいう)『垂線』
殳・陸水(ろくみず・ていへん)          『底辺』
玄・勾配(こうばい・のびがね等の呼び名)     『傾斜』

◆穂積さん
岐阜城山麓居館に規矩術ビイスタ工法はありますか?
◆長谷川
岐阜城信長館は分度を応用の6カ所のビイスタ工法の跡が!






◆反論者
築城縄張の名手藤堂高虎は絶対に長谷川先生
の説かれるビイスタ手法は絶対使っていない!





◆対談者
高虎は放射測量法(ビイスタ工法)を使ってる!
名大工の河原豊後守こと甲良豊後守と同郷!

▼中世城郭 近江男鬼城 二局ビイスタ論
中央の堀切Aを境に赤と青のビイスタが存在


▼文禄慶長の役 釜山倭城 二局ビイスタ論









◆対談者
但馬竹田城に100回訪れた人が長谷川先生の
ビイスタ工法放射線罫書き線見て強い衝撃!
▼米原学び合いステーシンヨンの長谷川博美 城郭講座 好評!
★好評!長谷川城郭講座 次回
日時 令和3年 9月 30日
場所 米原学びあいステーション
   「旧称米原公民館」
参加費 500円
予約☎ 0749-52-2240

▼余呉城郭研究会
令和3年8月21日
近江横山城見学会
浅井氏、織田信長、羽柴秀吉、石田三成所縁の城
集合場所 JR 河毛駅 東口 10時10分
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎0749-86-4145
▼米原 城歩会 記念写真

◆反論者
長谷川さんは古代の都や中世の城や信長や秀吉の
城に勝手に罫書き線っていうかビイスタ線てな物
を入れて本当に変わった異端の先生だと常に思う。

◆対談者 下書きの重要性
貴方は舗装した道路に道路標示線をコーティング
をする職業をしておられますね?チョークで事前
に計測し白い道路標示塗装をされますね?いずれ
チョークの線は雨でアスフルトから消えてしまう。
◆達観様
解った!ヒラメイた!道路路面標示の白い塗料が
『城』自体であり、雨露でやがて、消えてしまう
白い罫書き線こそ今、日本で話題騒然の城郭論点
『城郭ビイスタ論』だと言う事を私は悟りました!
城郭ビイスタ論 上文字クリック

規矩術の典型 扇や扇骨自体 ビイスタ工法!

◆質問者
規矩術応用した古代都市建築は存在しましたか?
◆長谷川
弥生の纏向宮殿遺跡や古代都市計画は
ビイスタ線と左右対称シンメトリック
日本の文化は中世戦国と進捗する従っ
て左右非対称のアシメ、「アンシメ
トリック」の文化が醸造されて行きます。
日本庭園の植木の松の枝や盆栽の枝など
左右非対称の日本の文化とも言えます。
正中線(中心線)を中軸として左右対称シンメトリクツ形式
▼近江伊勢遺跡神殿のビイスタ配置「放射状建物配置」
▼五世紀の日本の古代豪族の城館 三つ寺Ⅰ遺跡の規格矩術



▼東洋中国幾何学 学術書


◆奥州 藤原氏 毛越寺 ビイスタ工法Ⅰ
坂東武者は武家政権都市鎌倉府「鎌倉城」を開設させた。

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論は日本全国で認識
され注目される戦前戦後を通して希有の城郭論
です。先生自身がズバ抜けた研究視点の持主!

◆長谷川
だれも私の城郭ビイスタ論は見ていないハズ?
見ているとたらそれは一部の学術家さんかと?

◆反論者
その通り、どの書店に行っても、どの図書館
に行っても、城に向かって放射線状に直線を
走らせる、城郭測量や城郭研究の図書は無い
長谷川氏の城郭ビイスタ論など掲載されてま
せん。長谷川氏は完全に城の邪道で異端者。

◆対談者
ニユートンが万有引力の法則を発見するまで
何処の図書館にも行っても万有引力の法則が
収録されていたでしょうか?城を人間の先生
や人間や集団が下す定説や既存の概念こそが
絶対に正しいと言い切れますか?それを絶対
正しいと盲信した時点でそれはもう学門とは
別の、偏向したたけの人間崇拝の世界になる。
真実や答えを教えてくれるのが本当の先生か?

◆長谷川
戦前戦後を通して多くの城郭研究家が文系で
あり、そもそも、平盤測量や測量台を用いて
元来放射状に城を計測した日本文化を見落と
しておられる事が原因ではないでしょうか?
また堂宮大工、社寺建築の人は西洋分度器
を使わず曲尺「かねじゃく」一本で角度を
出して木材をタンジエント計算する人です。
それを東洋中国日本では規矩術と呼んでる。
享保年間に記された『量地指南』に城測量
の当時の手法が記されている。これこそが
近代の我々城に関わる人々が看過した欠点!
江戸時代にはまだ放射状に「城」を計測す
る文化や伝統を日本人は保有していた事を
全く近代学者や研究家は考慮せず無視した。
これこそが元来日本の伝統的測量文化です。

『量地指南』に9番目の測量線が記されいます。
かって、朽木史朗さんは、安土城の石垣裏から
「惟住内九」と言う墨書を発見報告されてます。

惟住=丹羽長秀 内=内衆 九は九番目の石と
言う意味でありましょう。近世城郭名古屋城の
天守石垣の刻印に「加藤肥後守」「内小代下総」
ある。後半の「内小代下総」とは、加藤家家臣
 小代下総守 という意味(「内」=家臣)。清正
の家臣(肥後国人の)小代氏がこの石の意味!
◆対談者
それみて御覧なさい!東洋日本の規矩術や西欧
のビイスタ理論を万年無視していては万年城郭
研究が進展しません。城に何万回旅行したとて
城郭を見て気付く事「覚り」には至りませんよ!
城を勉強する時も人間は肩書きや著書や社会的
地位に眩惑されて、城自身を熱心に集中し見学
する習慣を失くしてしまいます。答えは教科書
や図書館に収録蒐集されている図書刊行物だけ
に存在すると思ったら大間違いでないですか?

◆対談者
日本は47都道府県が存在します。一つの県には
少なくとも純心で優れた学芸員様や測量技師は
10名様は必ずおられる。一般有識者層でも先生
の優れたオリジナル城郭研究視点や視座に正直
驚愕している人は各県には10名は優秀な方々が
必ずおられる単純に計算をすと各県長谷川先生
の城郭ビイスタ動画を見た人は20名おられる事
になります。つまり20名×47都道府県=940様の
動画披見者様が必ず出現する。もしかすると世
の中には聡明な人が多数潜在し我も我もと動画
を見られる賢人がいらっしやる可能性はゼロと
は断言できません!必ずや全国の良識ある善
良な賢者様に支持される!いつの世も人間社会
の特徴として賢者は賢者を認識支持し、愚かな
人は、愚な指導者に常に誘導洗脳されるのが、
人間社会の常で、これこそ、浅猿ましき事よ!
浅猿=「あさましき」と古来はこの字を使った。

▼永禄3年尾張桶狭間合戦 丸根砦「佐久間氏」



◆小牧山城
『信長公記』収録
二宮山御こしあるべぎの事(永禄6年)1563年
『公記』では「小真木山」記されている。近年
安土城以前の石垣三段も発掘され話題を呼んだ。

◆質問者
信長の築城の際には山も谷も
同時に縄張をしましたか?

◆長谷川 解答①
『信長公記』
二宮山御こしあるべぎの事(永禄6年)1563年
の記録には「此の山にて御要害仰せ付けられ侯
はんと上意にて、皆々、家宅引き越し侯へと御
諚侯て、爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしら
へ侯へと、御屋敷下され、記されていますから
当時は山頂の曲輪も山麓谷間の屋敷も同時進行
で縄張りされたと私は推定し従って織豊城郭の
ビイスタ工法も山頂や谷間に及ぶ可能性がある。

▼長谷川博美 挿入 小牧山城 城郭ビイスタ線
★織田信長築

▲大手方面よりの小牧山城のビイスタ「展望、見栄え、顕示」
▼小牧山城 複合ビイスタ工法論

◆伊木山城
岐阜県各務原市鵜沼字伊木山
原図 各務原市「伊木山城跡発掘調査概要」より
『信長公記』に以下収録
信長濃州伊木山へ御上の事(永禄7年)(1564)
★織田信長の陣城


築城時期や伊木家の経歴については諸説あるが、
一般に信じられている来歴は以下の通りである。 
1561年(永禄4年)、この地を攻めた織田信長
によって、武功を挙げた香川長兵衛忠次が、こ
の地の名にちなんで伊木の苗字を授けられ、伊
木忠次と改名したという。そして、この伊木山
に伊木山城を築き居城とした。後に信長の家臣
である池田恒興に転仕した。 1590年(天正18年)
、廃城となった。恒興の死後も池田輝政に仕えた
忠次は、岡山藩筆頭家老となった。 廃城時期が
天正末期でありビイスタ工法の可能性もあろう。

▼中世能楽舞台の弐ヵ所のビイスタ「見所」

◆近江城郭ビイスタ工法 近江八幡市北庄町 岩崎山城
武蔵国 比企郡 菅谷館 ビイスタ工法 「埼玉県」
武蔵杉山城 ビイスタ工法 「埼玉県」



▼永正の乱 近江八幡市 円山城 西条氏



▼永禄11年 近江和田山城 佐々木六角氏 『信長公記』


◆近江城郭のビイスタ工法 元亀の騒乱 須川山砦 「米原市」



◆近江横山城
元亀年間の織田信長、羽柴秀吉の城として使わ
れた元来は浅井長政の城を姉川合戦元亀元年6月
28日1570年7月30日奪取した事は『信長公記』に
詳しい。また信長秀吉は虎御前山と横山を連携
て近江浅井氏を小谷城に攻撃している重要な城。
★浅井氏、織田氏、羽柴氏の城
▼横山城ビイスタ工法 長谷川博美 線挿入 長浜市/米原市」
▲山上山下を含めて縄張された可能性がある。
▼横山東麓の大原観音寺は基本的に本道と山門
を結ぶ参道の左右に寺坊を配列した山寺の塔頭
様式であるが元亀の頃の信長、秀吉の暫定的な
横山城下山麓居館としての機能も再考する必要
▼米原市大原観音寺


横山城見学会は下記 8月21日 予定
▼横山城は北城も南城も含めて総合的ビイスタ工法施工
驚くべき事に竪堀までもビイスタ放射線縄張に従ってる。

『信長公記』を要約 横山城は近江江北攻めの信長拠点
元亀三年壬申 (じんしん))元亀3年(1572年)
奇妙様御具足初めに、虎後前山御要害の事 
七月十九日、信長 御父子江北表に至りて御馬を出だされ、
其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居え
られ、廿一日、浅井居城大谷小谷城へ推し詰め、
七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる
虎御前山に臨時築城を命じた。

◆近江宇佐山城「滋賀県大市」
◆織田信長 森三左衛門 の近江志賀郡押えの城

この城の文献上の初見は永禄13年(元亀元年、
1570年)3月20日の多聞院日記に
内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、
今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長
ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲ
コシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾ
ムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、
乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル
坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、
東山ノ辺ヲ通」とある。

★信長家臣森氏の城で志賀の陣では織田信長の拠点城郭。
▼宇佐山城ビイスタ図 石垣は山中方面より大津方面に堅固


◆織田信長 近江虎御前山城 元亀4年天正元年期
★近江浅井氏小谷城攻めの陣城で信長/秀吉が築城
「滋賀県長浜市」
★藤吉郎秀吉は城郭内分から放射線状に縄張りしている。

▼虎御前山城 織田信長陣城 測量図 西側よのビイスタ工法

◆小谷城「滋賀県長浜市」
羽柴秀吉は天正3年まで小谷城に在城した事は
文献『信長公記』に記される。▼小谷城ビイスタ論
★A近江小谷城本丸
▼天正4年織田信長は丹羽長秀を普請奉行として
羽柴秀吉も築城に参加した事は『信長公記』ある。
「滋賀県近江八幡市」
★築城主体 織田信長 普請奉行丹羽長秀 
▲安土城のビイスタ工法▼信長の絶対的権力を誇示するビイスタ工法!
安土城 天主台 ビイスタ論 長谷川線挿入
★B近江安土城天主 ★天主中心部より放射状設計

▼安土城 八角平のビイスタ工法 長谷川博美 線挿入 ★放射状設計

◆対談者
『信長公記』よると天正6年鳥取城法線の模様を
半兵衛戦況報告のため安土に向わせ5月24日安土
に着き、信長に謁見して信長は半兵衛の図面を
見て鳥取城の様子が図面から手に取る様に解る
と激賞したとされますが羽柴秀吉が鳥取城攻め
の為に天正6年に築城した、太閤ケ平陣城にも
当然秀吉はビイスタ工法用いて築城してますか?


◆長谷川
先ず2方向からビイスタ工法を施した縄張手法が
認められます。流石は秀吉/半兵衛/見事な城です。

◆更に念入りに2ヵ所のビイスタ工法も認められ
ます。天晴見事用意周到な傑作陣城と言えます。
赤線、青線、緑線、黒線と城郭縄張は見事です。

◆長谷川
当時の武将は四方正方形90度の正方形の陣城を築城せずに
不整形な矩形の主郭を築いております。これは秀吉晩年の
肥前名護屋城も是非彼の城の本丸が正方形でない事を各自
確認してください。これはビイスタ工法に従ったからです。

▼天正10年羽柴秀吉は明智光秀を山崎に破り天王山に築城する。



▲山崎山城 ビイスタ線挿入 長谷川博美 ★放射状設計
「京都府大山崎町」
▼羽柴小一郎も着陣した城 但馬竹田城ビイスタ論

▼但馬竹田城のビイスタ線に適合した石垣の様子。

★特別質問者★
本能寺の変後天正10年に織田信長の重臣は尾張
清須城に集合して織田家の今後の方針を決定す
る会議、寄り合い、とも言う「清須会議」開催
しますね?清須城は尾張の中心であり織豊城郭
つまり織豊城郭ビイスタ論が濃厚に残存してた
可能性はありますか?日本国を平定過程でだっ
た織田信長の安土城天守ず何故正方形に作られ
いないのか?天正大坂城本丸が何故四角形状に
作られていないのか?信長秀吉権力行使力から
見てキッチリト矩形方形の城郭を繰り得たハズ
です。長谷川先生!織豊政権の根本根幹とも言
える尾張清須城のビイスタ工法を一度見検討し
てみていただけませんか?清須こそ尾張の中心
で清須越しによって尾張の中心が名古屋に移動
し現在の東海中京圏が形成されていったのです。

◆長谷川
良質の清須城の測量図がない限り無理!

★特別質問者★Ⅰ
そこをなんとか古図等を駆使して清須城ビイスタ
を復元しみて頂けませんか?何度も改変された城
清須城のビイスタ工法に私は強く魅了されます!

◆長谷川
では概略的にアバウトと清須城ビイスタを考察
してみましょう。あくまでも仮想仮定としいう
事を前提に清須城のビイスタを考察してみます。
▼下図を参考に用いてみましよう。

★清須城=天正10年信長が本能寺に倒れ信長家臣が清須会議を開催
◆長谷川
ビイスタ工法の痕跡があるようにも思えます。★尾張織田家の根拠城郭
◆長谷川
別角度からビイスタ工法を検討しますと図の〇印
に整合性あるかもしれけません。あくまでも仮定
です。


◆長谷川
赤線は本丸と右の馬出曲輪を含むビイスタ線
黒線は尾張斯波氏守護館の縄張起点か?断言
は避けますが、読者各位様で考察して下さい。

★特別質問者★Ⅱ
清須城には
     ★A近江小谷城本丸
     ★B近江安土城天主
     ★C近江佐和山城本丸
     ★D天正大坂城本丸
     ★E備前岡山城本丸
の様な城郭内から放射状ビイスタ線
縄張が施工されたのでしょうか?
◆長谷川
古図から推測するに城内より放射線状に織豊城郭
清須城が縄張りされていた可能性はゼロではない。


近江佐和山城は浅井氏磯野丹波から織田氏が
奪取してからは歴代織豊大名が城主のです!

■ 『信長公記』大船を作られ侯の事
五月廿二日、佐和山へ御座を移され
在佐和山なされ「佐和山城に居住して」
巻六(元亀四年癸酉)の信長佐和山居住記録
★近江佐和山城は信長の時世に織田家臣丹羽氏の城
▼近江佐和山城 ビィスタ理論 長谷川博美


★C近江佐和山城本丸

天正11年1583年
賤ヶ岳合戦で元織田両軍「柴田羽柴」は陣城を造る。
▼羽柴秀長/羽柴秀吉/田上山城
▼北勢「北伊勢」滝川方「柴田方」峯城ビイスタ 縄張
▼天正11年柴田勝家 内中尾山城「玄蕃尾城」

▼柴田勝家 玄蕃尾城

▼玄蕃尾城 航空写真 ビイスタ論 長谷川博美
▼柴勝家甥 佐久間盛政 行市山城



長谷川博美 岩崎山 動画等 上文字クリック
◆長谷川
▼高山右近はキリシタン殉教者だけでなく優れた設計技師

▼賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉と丹羽長秀は坂本城
を拠点として江北「滋賀北部へと進駐する」
▼▲近江坂本城 ビイスタ理論図 長谷川博美 坂本城縄張は不明
▼坂本城 城郭ビイスタ論

◆明智光秀
光秀は織田信長より近江志賀郡坂本城を与えられ
織田軍として丹波方面に進駐して亀岡城福知山城
周山城などを構築していく丹波の黒井城は光秀の
家臣斉藤利三が黒井城を織豊城郭に改修したと思
われ主郭部にビイスタ工法の片鱗を見る事が可能。
▼丹波黒井城 ビイスタ論

▼丹波黒井城 ビイスタ論




▼羽柴秀吉は天正大坂城を構築して天下を平定する。
★D天正大坂城本丸
▲大坂城ビイスタ論 長谷川博美▼大坂城天守ビイスタ論

▼織豊系城郭 特に秀吉の築城法放射状ビイスタ工法
 は備前岡山城の宇喜多氏の城つくりにも強く影響!
★E備前岡山城本丸


天正18(1590)年の小田原陣
▼秀吉は天下平定の過程でお小田原石垣山城を作る。


◆以下ウイッキペデイアより
「聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として
1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正
15年)9月に完成したために、妙顕寺城より移った。
 九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務を
みた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には
後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また
天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。 
◆質問者
聚楽第は城郭ビイスタが存在したのでしょうか?
◆長谷川
正確に当時の縄張が解明されていないので放射状
の縄張りが存在したのか充分に解明出来ません。
◆関白豊臣秀吉は洛中に彼の政庁とも言うべき
聚楽第を構築する外郭とての総構土塁、御土居
を構築して洛中洛外を区画しする京都七口とも
言われるが実際は10箇所の土塁開口があったと
される。

◆徳川幕府 二条城
秀吉は己の栄華の跡たる聚楽第をあとかもなく
破却したと言われている。それは豊臣秀次邸宅
としての府城聚楽第の城を消去する目的とされ
ているが?ビイスタ工法がより整合性を持って
同心円放射状に機能設定されている城とは徳川
が築城した二条城こそがより御土居と整合性を
持っているように著者は感じ歴史の疑問を思う。
帝王や国王が自国の領土を眺望する城を古来、
国見の城とも言うが当時の京洛を眺望する為に
は徳川二条城の方がより方位学的に優れている。

◆質問者
豊臣秀吉の
伏見城は城郭ビイスタが存在したのでしょうか?
◆長谷川
正確に当時の縄張が解明されていないので放射状
の縄張りが存在したのか充分に解明出来ません。




▼秀吉は文禄慶長の役で自分の城 肥前名護屋城に
ビイスタ工法を用いる。掛線 長谷川博美 挿入


★太閤 豊臣秀吉の城▲肥前名護屋城
▼伏見城の治部少輔丸

▼豊臣秀吉の家臣石田三成の佐和山城
▼佐和山城が廃されて彦根城には鐘之丸が築城された。


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3 コメント

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Unknown (長谷川博美)
2021-08-09 06:34:56
良いね!を賜りました聡明な6名様に深く感謝を申し上げます。
返信する
Unknown (天の声 人の語)
2021-08-10 09:07:34
大家は常に隠棲す。(大家は名もなく常に隠れる。)
市井の図書は俗界に満る。(俗書は俗人が好む。)
返信する
Unknown (Unknown)
2021-08-11 13:32:46
岐阜城信長館の画像を見て仰天致しました。私は100回この場所に行ってるのです。有名な先生の館の縄張の解説も受けました。しかし今朝長谷川さんという無名の人がいとも簡単に信長館の縄張を驚くべき手法を用いて解説されている事を知り全身鳥肌が立ちました。こんな縄張解説方法があるのかと?いや待て、これは本来日本人が伝統として用いてきた測量方法を長谷川さんが知っておられて解明しておられるという事になります。私は長谷川さから城の事を学ばれている方々が羨ましく感じます。
返信する

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