城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

(神社考)かみのやしろをかんがえる。

2019-04-30 07:20:23 | 小説
(神社考)かみのやしろをかんがえる。

巫と書いて なんと読みますか?(神社考)

長谷川 かんなぎ とよみます。男性のミコの事を言います。
※伊勢神宮は元来 天照大御神 あまてらすおおみかみ 
の神霊 御魂を鎮める場所であり皇族から未婚の斎王が選ばれ
て祭祀を行う場所として本来は作られたものでしよう。従って
伊勢神宮には一般庶民の私幣禁じられていました。
私幣禁断と言います。

祝 と書いて何と読むのでしょう。

長谷川 ほおり はふり とも読みます。神職の事です。
※はふり 神職は 神葬祭 しんそうさい も担当します。
※はふる と ほうむる は古代日本において同義語か?と思います。
※仏教伝来以前の倭人「日本人」に服喪 喪に服す習慣は三世紀の『魏志倭人伝』
にも記されていて喪主は白服の喪服を着用し葬儀の後は塩水に入り禊 みそぎ 
する習慣が記されています。服喪に関する1700年も前の日本人の心を推定できます。

※古代には喪仮宮 もがりのみや が設営されて貴人は亡くなっても直ぐには埋葬
 せずに一族が集合して葬祭を実施し、後継問題を解決してのち正式な葬儀をした
 とも言われています。

※九州の平原弥生墓には棺桶を覆っていた屋根の柱穴が発掘されています。
※また同墳から出土した大型内行花文鏡の直径46.5センチメートルの外周は、鏡の
円周の単位で八咫(やた)あることから、八咫鏡やたのかがみと同じ大きさになり
皇室に伝わる三種の神器「八咫の鏡 やたのかがみ」と同じとも言われています。

言祝 と書いて何と読みますか?

長谷川 ことほぎ と読みます。祝辞の事です。

寿 と書いて何と読みますか?

長谷川 ことぶき です。本来は ことほぎ で同じ意味だと思います。

祝詞 と書いて何と読みますか?

長谷川 のりと と読みます。

祝言と書いて何と読みますか?

長谷川 本来は神職の「ほぎごと」と言う祝辞の事でした。神職は
    「ほがい」とも言います。つまり ほきごと を言う事です。
    ※中世には結婚式を祝言「しゆうげん」と言う様になりました。

    なかとみのよごと【中臣の寿詞】と書いて なかとみの よごと と読みます。
    日本の古代の言霊信仰を思わせるものです。現代におい結婚式で 分れる 切れる
    割れる は縁起の悪い忌言葉 いみことば で使わない良い言葉を使う事です。
    古代には忌部 いんべ と呼ばれる祭祀を行う氏族もいました。
    神道の竣工式の時には実用性のない 木製の 忌鍬 いみくわ を使う場合があります。
    また古墳や祭祀遺跡からも実用性のない 忌具 が出土する事も多々あります。 

    延喜式祝詞 えんぎしきのりと  なる古い祝詞があります。千年以上も昔の古い言葉です。
    古代の中臣氏は 神と人との なかとりもち とも言われており
    大和朝廷の神道を統轄する神祇官 じんぎかん を務めて、やがて藤原氏を名乗ります。
    特に神事に通じていた藤原一族を「斉藤」 いつきの ふじわら とも言います。
    遠藤、近藤、佐藤、後藤、などの藤を冠する姓も藤原家を先祖と称しています。
    伊勢神宮に奉仕する皇室関係の巫女みこ 斎王も いつきのひめみこ と言います。


小さな祠 ほこら や小さな神社を なんと読みますか?

長谷川 祠と書いて ほこら と読むのですが
    祝詞 つまりまり ほぎごと を述べる 
    ほぎぐら 祝倉が ほぎぐら が 祠 ほこら の語源ではないでしょうか?

伊勢神宮の祭祀を見学された事はありますか?

長谷川 私は國學院大學の時に神社研修を伊勢神宮で受けさせて頂きました。外宮(豊受大神宮)
では日供祭を見学させて頂きましたが供物、神饌を社殿に収められる以外は全て、玉砂利の上の
庭上祭祀だったと記憶しております。

庭上祭祀の意義とは?

長谷川 宮と書いて みや と読みますが。本来は古代豪族の邸宅 御屋 みや だったと思います。
神社建築を社 やしろ と言います。 御屋代、宮代 と書いて みやしろ と書きますが、本来は
神社には建物がなく祭祀を行う場所こそが本来神聖な場所だったと思います。庭こそ大事な斎場です。
神社の裏山には巨岩や磐境 いわさか や本宮があり 元来の祭祀の場所は野外で実施されていました。

神社の「杜」は やしろ とも 元来は「もり」と読みます。
朝鮮語で「杜」は こそ とも読みます。
姫社神社(ヒメコソジンジャ)と言う神社があります。
また
鎮守の杜「森」(ちんじゅのもり)とは、日本において、神社(鎮守神)に付随して境内やその
周辺に、神殿や参道、拝所を囲むように設定・維持されている森林があります。鎮守の杜もり。
古神道における神奈備(かむなび・かんなび)という神が鎮座する森のことで、
神代、上代(かみしろ)とも言います。

庭とは何を意味しますか?

長谷川 相撲の土俵も相撲神事では神聖な占いの場であり神事の舞台です。古くは相撲節会
の伝統があり吉凶を占う儀式でした。現代でも地鎮祭を行う場合は四本の竹で結界を作り
斎場とします。だから相撲では土俵に塩をまき 清めてから 相撲神事を行います。
相撲の行事は本来は神官の仕事と思われます。また行事は審判でもあります。

『日本書紀』巻第八によると、仲哀天皇の急逝に際し、
皇后(きさき)及び大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうち の すくね)、天皇(すめらみこと)
の喪(みものおもひ)を匿(しな)めて、天下(あめのした)に知(し)らしめず そのようにした
上で、皇后の気長足姫(のちの神功皇后)は・※中臣烏賊津連・大三輪大友主君(おおみわ の おおともぬし の きみ)・物部胆咋連(もののべ の いくい の むらじ)、大伴武以連(おおとも の たけもつ の むらじ)に、「天皇がなくなったことを百姓(=人民)に知らせてはならない」と断った上で、、百寮を率いさせ、宮中を守らせました。 『書紀』巻第九によると、皇后は、それから罪を払い、過ちを改めて、斎宮(いわいのみや)を定めた後で、一ヶ月後、吉日を選んで、斎宮に入って、自分から神主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、「中臣烏賊津使主」(なかとみ の いかつ の おみ)を呼んで、審神者※(さにわ=神慮を※審察する人)としています。

またた「庭」自体の言葉は朝廷を意味します。
秀吉が伊達正宗の家臣に鬼庭氏がいる事に気が付いて
その姓を茂庭に変更するように意見しています。庭に
鬼が居ては困ると言う事です。茂とは繁茂すると言う意味でしょう。

松とは何を意味しますか?

長谷川 古来より皇室を「松」と比喩し表現します。
松は消して枯れない常緑樹で繁栄と言う意味があります。
常盤松とかいて、ときわまつ と言います。
※『信長公記』に安土城天主に松を描いた松の間があります。
江戸城にも松の廊下がありました。現代の皇居にも
皇居の宮殿で最も格式の高い「松の間」があります。

神社参籠とは?
長谷川 おこもり です。 宿泊して神事をする事を言います。
古代日本においては政治や祭祀はなどの まつり は夜行われます。

戦国武将で参籠した武将とは?
長谷川 明智光秀が愛宕神社に参籠して「おこもり」して本能寺の戦勝を
つまり織田信長討伐を占っています。そして愛宕百韻で連歌も読んでいます。

発句は光秀の「ときは今 あめが下しる 五月かな」、
脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、
第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。
発句は、明智の姓の「土岐」にかけて、「雨が下」に
「天が下」をにかけて、主人織田信長の殺害という宿願の
祈請であるといい、紹巴はこのために後に秀吉から責問を受けたという。
当時の明智と親しかった吉田兼見も日記を改竄しています。
しかし『兼見卿記』には明智光秀が吉田氏の京都の「石風呂」を所望した
り吉田氏が光秀の居城の大小天守を見学した文献記録があります。
また光秀は京都の吉田山に自分の城郭建設を打診して柴田勝家に是を拒否
されています。神道において吉田神道は有名な神道の一流で吉田氏自体が
当時の神祇官でありの神職でもあります。

天皇家には何故苗字 姓がないのですか?
長谷川 アジアの古代王は一般に姓を持たないのが普通です。
姓は天皇から諸氏に下賜される「姓」 かばね ですか当然
天皇には「姓」かばね がありません。
しかし八世紀の『隋書』倭国伝の記事には
「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとあります。隋書
の言う倭の大王の姓が「アメ」である事が解ります。なお日本には天神地祇つまり昔から天つ神と国つ神があります。


滋賀には庭上祭祀や常盤に値する祭祀遺跡はありますか?

長谷川 伊勢遺跡でしよう。2世紀のものと言われています。
驚くべき事に伊勢神宮の原型を思わせる棟持柱が出土しています。
そして30箇所以上の円形に配された「祠」つまり 祠と書いて
ほこら と読むのですが 倭の諸王の神殿の可能性があります。

※祝詞 つまりまり ほぎごと を述べる 

30ほどの倉庫は円形に配置され まさに祭主「王」を中心に平等に
囲む連合性のある諸王の集合の様な姿が連想されます。円形の祭祀
とは盆踊りや古代の歌垣のように囲む、連座の神集い かむつどい を連想させます。
ほぎぐら 祝倉が 祠 ほこら だったの可能性があります。
当時は文字が無かったので祝辞つまり、諸王は言霊は述べた事でしょう。
伊勢遺跡は宗教サミットとような まつり 斎場や祭祀の場かもしれません。
また焼床と呼ばれるタイルの地下床も発見されています。
祝詞に登場すめる、国の常立の命つまり くにのとこたちのみこと
国の床立の命を連想させる遺跡です。
それはまさしく土間で縄占をする斎場 とぎば でありましょう。つまり当時の
二世紀の倭国の一つが、国家的占いを行う場所だった可能性があります。
30ほどの倉庫は円形に配置され、国神、地祇、の祭りを連想させます。

長谷川

明智光秀愛宕百韻の「ときは今 あめが下しる 五月かな」は意味が深いかと?

また貴人の話、相手を夜する事を伽 とぎ とも言います。
寝床で 御伽話 おとぎばなし を聞くも言います。
滋賀の伊勢遺跡の焼床も 最上級の地下床であったと推定されます。
硬く焼き固められたタイルの 常磐 ときわ かと?思います。

みそかとは?

長谷川
つごもり とは 何の事ですが?
晦日 みそか の事です。
月の終わりを三十日 みそか と言います。12月は大晦日です。
みそなう と言う言葉は30本の縄を編む「なう」事でしょう。
月読の命が 土間つまり土で固めた床で 縄を編んでいた事でしょう?

明智光秀は天正10年6月2日に本能寺で織田信長を殺害してます。
その計画は明智光秀や斉藤利三らにより秘密裏に計画されたものでしよう。

みそかごとの意味とは?

長谷川 密事と書いて みそかごと と読みます。秘密の事です。
また つごもり 月が隠れる事 が月籠り とも言われています。
月末30日には月が隠れて真っ暗な夜になります。つまり闇夜の晩
は みそかごと をする密かに密会する意味も含まれています。
明智光秀は斉藤利三と みそかごと し信長討伐を計画したのでは
ないでしょうか?

明智光秀は岐阜県 時トキ 多羅タラ 出身と言う説もありますが?






 

 

 
    

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なんと読みますか?

2019-04-29 14:50:24 | 小説
丿貫と書いて何と読みますか?

長谷川 へちかん でしょう。

左澤と書いて何と読みますか?

長谷川 あてらざわ でしょう。

出雲郷と書いて何と読むでしょう?

長谷川 あだかえ と読むのでしょう。

田令 と書いて何と読みますか?

長谷川 た つかえ でしょう。

覡 と書いて何と読みますか?

長谷川 かんなぎ とよみます。男性のミコの事を言います。

祝 と書いて何と読むのでしょう。

長谷川 ほおり はふり とも読みます。神職の事です。

言祝 と書いて何と読みますか?

長谷川 ことほぎ と読みます。祝辞の事です。

寿 と書いて何と読みますか?

長谷川 ことぶき です。ことほぎ と同じ意味です。

祝詞 と書いて何と読みますか?

長谷川 のりと と読みます。

祝言と書いて何と読みますか?

長谷川 本来は神職の「ほぎごと」と言う祝辞の事です。
    「ほがい」とも言います
    後に結婚式を祝言「しゆうげん」と言う様になりました。

    中臣の祝言と書いて なかとみの ほがい と読みます。
    延喜式祝詞 えんぎしきのりと  古い祝詞もあります。千年以上も昔の古い言葉です。
    中臣氏は 神と人との なかとりもち とも言われており
    大和朝廷の神道を統轄する神祇官を努め、やがて藤原氏を名乗ります。
    特に神事に通じていた一族を斉藤 いつきのふじわら とも言います。
    遠藤、近藤、佐藤、などの藤を冠する姓も藤原家を先祖としています。
    伊勢神宮に奉仕する皇室関係の巫女みこ も斎王も いつきのひめみこ と言います。
    
防人と書いて何と読みますか?

長谷川 さきもり と読みます。大和朝廷が九州に配置していた防衛軍の事です。

卑奴母離と書いて何と読みますか?

長谷川 ひなもり と読みます。 『魏志倭人伝』の伝える邪馬台国の
外国交易ルートに位置し外敵や賊に対する守りを固める男子の軍事的長
の称号と考えられます。

出雲守と書いて何と読みますか?

長谷川 いずものかみ と読みます。これは誰にでも読めます。出雲国の
中世の守護職は京極氏です。近江国で京極氏の家系から別れた尼子氏が
やがて京極氏に伴われて出雲に赴任しやがて出雲国守護代の尼子氏となる









   

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ある集落の石造美術

2019-04-27 19:06:20 | 旅行
ある集落の石造美術









惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)ともいう。

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鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察(室町戦国江戸編)

2019-04-24 00:02:04 | ユーモア
鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察(室町戦国編)
※①足利義満
 金閣鹿苑寺つまり豪奢な山荘、鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。
建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院
全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院で寺名は開基(創設者)です。
室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿に起因します。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。
足利義満の北山山荘をその死後に寺としたものです。足利義満は明国の永楽帝との間に勘合貿易を
実施して永楽帝から「日本国王印」を授けられ室町殿と呼ばれた日本の歴史に残る(鹿)の人物です。
鹿苑とは鹿のいるところ。曽我入鹿も足利義満も天皇を超えようとした人物でしょうか?

※②織田信忠
 父の織田信長から実質家督を相続した織田家継承を担当する役割を担当した人物です。織田信忠
と(鹿)は全く関係ないように思われますが、大和の信貴山城に松永久秀を攻め滅ぼす戦功を治め
ています。文献資料『信長公記』には鹿の角の兜を着用したとあり、当時の人々は松永が滅んだの
は大仏殿を焼失させて春日大明神の罰が当たったのだと噂したと伝わります。奈良の春日の神様の
使いが鹿と言う事になります。ちなみに春日大社(かすがたいしゃと)は、中臣氏(のちの藤原氏)
の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社です。全国の春日神社の総本社で
武甕槌命タケミカヅチ(の命)が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使としています。

春日大社の主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神です。
武甕槌命タケミカヅチ  藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命フツヌシノミココ    同上(下総国香取の神)
天児屋根命アメノコヤネ  藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 ヒメカミ     天児屋根命の妻(同上)

③塚原卜伝 ツカハラボクデン
延徳元年(1489)に常陸国の鹿島郡に、鹿島神宮に使える卜部(うらべ)吉川覚賢(あきかた)の息子と
して生まれる。兄弟に、双子の兄である常賢(つねかた)が居る。卜伝の初名は朝孝(ともたか)という。
卜伝の祖父・呼常は鹿島七流の使い手として知られ、父もまた鹿島の剣の使い手であり、鹿島神宮の
神主や近隣の者など多くの門人を擁していた。塚原卜伝の剣術は鹿島神道流とも呼ばれ経津主命フツヌシ
(下総国香取の神)の神威を背景にした剣術と思わる。
※経津主命フツヌシノミココとは?
経津主神の正体や神話の中で果たした役割については諸説がある。神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切
られる様を表し、刀剣の威力を神格化した神とする説のほか、「フツ」は「フツフツ」と沸き上がり
「フルイ起す」フツであるとする説や[。神武東征で武甕槌神が神武天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま
の剣を神格化したとする説がある。
※鹿卜とは?
日本古代の占法の一つ。「太占」(太兆とも書く)「フトマニ」ともいう。鹿の肩骨を波々迦「ハハカ」
(バラ科サクラ属落葉高木の上不見桜)で焼いて、できた裂け目で吉凶を占う法。中国から亀卜
(亀甲を使用)が伝わってから衰微したが。今でも年中行事として行う神社がある。→ 占い

※塚原卜伝考
 塚原卜伝なる剣豪の名前は中臣氏の奉斎する経津主命フツヌシノミコトや「フツ」は刀剣で物が断ち切
られる様を表し、刀剣の威力を神格化したイメージと重なる。また占いの結果を伝える「卜部」うらべの
イメージを感じさせる名前が塚原卜伝ではないだろうか?

※中臣鎌足の曽我入鹿退治の場面を回想する。
中臣鎌足は大化の改新で曽我の入鹿を一刀両断に切る図があるがこれも中臣氏の霊力「フツノみたま」を
連想させる内容である。

※再度近江伊香郡伊香具を回想する。
『近江国風土記』(おうみのくにふどき)は、近江国の風土記。逸文、内容は『帝王編年記』などの資料による
しかないが、伊香刀美(イカトミ)と刀を名前に使っている事に留意したい。「近江国風土記逸文」の伊香津臣命
烏賊津使主(いかつおみ)、伊香刀美・雷大臣命とも書く。





④豊臣秀次
秀吉の後継者となり豊臣家を継承して関白となるも高野山で自害した。秀次所用の兜と伝えられるものは
鹿角のついており本来は国家の政をとるべ後継者と目されていたのが豊臣秀次であろう。

⑤山中鹿之助
出雲の尼子氏を再興せんとした武将であるが彼が実際に鹿角の兜を着用していたかは不明である。

⑥真田幸村「源次郎信繁」
大坂合戦図屏風には鹿角を被った真田の絵があるが果たして本当に彼が鹿角兜を着用したかは不明である。

⑦本田平八郎忠勝
徳川家康の家臣で鹿角を付けた兜像や甲冑も残る。先祖はやはり
本多氏は、藤原北家太政大臣兼通の子、左大臣顕光十一代の後胤 右馬允助秀が 豊後国本多郷に住し 
本多を称したことに始まるとも言われる。

※鹿鳴館ろくめいかん
鹿鳴館は、明治政府が建てた外国からの賓客や、外交官を接待するために使われた社交場です。
明治になり、世の中が急激に西欧化していることを象徴している存在でもありました。鹿鳴館を
中心にして行われた外交政策を『鹿鳴館外交』とも呼んでいます。現在の迎賓館の役割です。

※平安時代の鴻臚館 こうろかん
平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院
(石川県羽咋郡志賀町か)や松原客館、越前角鹿(福井県敦賀市)に滞在して都からの使者
を迎え、使者に伴われて都に上り、鴻臚館に入った

やまが‐そこう【山鹿素行】
江戸前期の儒者、兵学者。古学の開祖。名は高興、字は子敬、通称甚五左衛門。会津若松の人。
儒学を林羅山に、兵学を小幡景憲・北条氏長に学び、「兵法神武雄備集」で名声を高め、大名・
旗本に兵学の弟子が多かった。赤穂藩江戸屋敷に仕えて朱子学を奉じたが、後、古学を提唱し、
朱子学を批判した「聖教要録」によって赤穂に配流された。延宝三年(一六七五)に赦免され、
江戸で松浦藩の援助を受けた。山鹿流軍学の始祖。著「武教要録」「武教全書」「中朝事実」
「原源発揮」「山鹿語類」など。元和八~貞享二年(一六二二‐八五)

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鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察

2019-04-20 17:39:08 | ユーモア
鹿や角を人名に関する人物の民俗学的考察
今回の私の文章は仮説や推理の様な意味で自由に書いてみます。ときに自由奔放に書いたメモから新たな
比較研究課題や新たな学問的テーマや視点の着想を得られる場合には、研究が進捗するる場合もあります。
要するに、日本史のなかから鹿や角を冠するまたは角を連想する名前の人物を連鎖的に私的に考察します。

鹿深臣(かふかのおみ
584年(敏達13)9月、鹿深臣(かふかのおみ)が百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらします。近江
の甲賀郡を開拓したとされます。

『日本古代と百済』より引用

言うまでもなく『延喜式』の原典をみると伊香郡は伊香胡(いかこのこおり)と読み。伊香具神社は神明大社、伊香具と
書いて(いかこ)と読んでいた事が解ります。ちなみに滋賀県犬上郡の多賀神社は延喜式神名帳に近江国犬上郡 多何神社
二座』とある一般的な式内社の社格となっています。さてさて今回は伊香胡(いかこのこおり)の「かこ」の表音に注目
しましよう。

⑥曽我入鹿
蘇我蝦夷(えみし)の子。蝦夷から大臣(おおおみ)の任を譲られ,権勢は父をもしのいだ。舒明(じょめい)天皇没後,古人
(ふるひと)皇子を即位させようとし,聖徳太子の子山背大兄(やましろのおおえ)王を殺したが,その専横を憎まれ大化
改新の手始めとして645年中大兄(なかのおおえ)皇子らに暗殺された。 乙巳の変 とも言います。入鹿と名前にあるだ
けで鹿には関係ないかもしれません。しかし中大兄皇子 (のちの天智天皇) と中臣鎌子 (のちの藤原鎌足) は,反対派
の豪族たちと蘇我氏討滅の計を進めていたが,三韓朝貢の日,クーデターを断行。入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で殺された。
とありますし何も三韓朝貢の日に入鹿を討伐しなくも良いと思いますが私にはその深意がわかりません。

⑦役 小角(えん の おづぬ /おづの /おつの、舒明天皇6年(634年)伝
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんの
うばそく)といった呼び名でも広く知られている。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる
人物像は後世の伝説によるところが大きい。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖と
していたり、修行の地としたという伝承があります。

⑧鬼室集斯(きしつしゅうし)
生年:生没年不詳
百済滅亡(660)後に日本に亡命した百済の貴族。天智4(665)年2月,百済の官位と日本の冠位がどのように対応するか
を定めたとき,本来は日本の山位に相当するはずの百済の達率であったが,百済復興戦に尽力した鬼室福信の功によって
小錦下の位を授けられているので,あるいは福信の子か。同8年,余自信ならびに男女七百余人と共に近江国蒲生郡
(滋賀県蒲生郡)に移住させられた。同10年1月にはのちの令制の大学寮の長官に相当する学頭職であったことが
『日本書紀』にみえる。墓は滋賀県日野町の鬼室神社の境内にある。
<参考文献>胡口靖夫「鬼室集斯墓をめぐって」(『日本書紀研究』11号) (清田善樹)

⑨鹿我別(かがわけ])は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。
上毛野君の遠祖で、神功皇后の時に朝鮮へ派遣されたという武将である。応神天皇年間に派遣された「巫別(かんなぎわけ)」
は同一人物とされる。

※巫かんなぎとは?
ふ‐げき【巫覡】
〘名〙 (「ふ」は「巫」の慣用音、「ぶ」は漢音。「ぶげき」とも) 神仏を勧請し霊の口よせをする者。神がかりとなって、
人の未来、吉凶禍福を予言する者。女を巫、男を覡という。巫、かんなぎは?男性シャーマンの事。
※続日本紀‐天平勝宝四年(752)八月庚寅「捉二京師巫覡十七人一、配二于伊豆、隠伎、土左等遠国一

※曽我入鹿とは神掛かりな状態となった、巫かんなぎの事か?皇極天皇3年(644年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これを
それぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、
皇室行事を独断で代行したとされるが? 

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