城郭 長谷川博美 基本記録

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衝撃!安土城の基本プロトタイプの城は小牧城!

2021-07-29 21:25:21 | 驚愕 安土城 縄張解説

衝撃! 安土城の基本プロトタイプの城は小牧城!

城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆対談者
長谷川先生 丹波黒井城のビスタ縄張楽しかったです。
楽しいだけじゃない!シープに分析される能力ですよ。


◆長谷川
そうでしたか?忘れていましたよ。

◆対談者
私達長谷川先生に学んだ人は先生
の着眼点や現地解説に忠実に耳傾
けた人は驚くほど城郭観察能力が
めきめきと上達しました。それは
開眼にも似た感覚で城跡に改めて
目覚めた感覚です。しかし残念な
事は城郭遺跡そのものから目離れ
した人が長谷川先生から離れ言葉
の城郭世界または歴史談議の世界
やガイドや町興しの世界へと向か
われた事です。

◆長谷川
 自分の好きなジヤンル分野へと
回帰された事は自然な事でしょう。

◆対談者
私織豊ビスタ論少ししづつ理解が
出来入て来ました。城郭に幾何学
や設計や縄張がある本質に気付い
て来ました。この近江佐々木六角
の重臣、後藤喜三郎らの城佐生城
などの長谷川先生の図面の精度に
は最初、目を見張りました。素晴
しいと玄人の先生だと長谷川さん
を私達は認識しました。

◆長谷川
後藤喜三郎は信長に臣従して近江衆
に編成されています。これの人は文
献の『信長公記』にも再三後藤喜三
郎は登場しております。信長から見
ても優れた人であった事でしょう。
◆対談者
城址見学に馴れてくるに従い私達は
どうやって地面に縄張したのか丁張
はどの様にしていたか考える様にな
りました。つまり現地遺構の設計と
はどの様に、実施されたのか?どん
な糸や縄が地面に張られたか?そん
な発想をするまで進歩深化して来ま
した。城はキッチリ基本の設計がさ
れて、縄や水糸を引いて土木工事を
進捗させいて行った事は現実だろう
と私は思いました。物事の道理です。

◆対談者
伝木下藤吉郎の虎御前山城だって私は
パース(見通し線)やビイスタ(放射線)が
その基本に存在すると私は思います。
◆長谷川
あまり短絡的直裁的に考えない方がが良いか
と思います。学門はいつの日も遊びではなく
実証の世界ですから。でも貴方の発想や視点
は尊重致します。柔軟な視点が時には重要な
学門のカギや謎を解く糸口を発見できる事が
ありますから。永禄の頃の佐久間大学の丸根
砦に行ってみますと周囲は三段の段築によ
り形成された砦であり一二三段のひふみ段
の着想は、小牧山城の石垣でも見られる事。
秀吉の天正大坂城は上の段、中の段、下の
段と一二三段に設計されています。信長の
岐阜城天守もたしか三段の石垣と思います。
◆対談者
長谷川先生の安土城放射線状縄張理論は
非常に楽しいものがあります。しかし!
これがマジ正論であるなら長谷川先生が
どんな学者も全く気づかない事に気付か
れた事で城郭研究史上、驚くべき人です。
城郭研究家において戦前戦後最大級理論。

◆長谷川
だれも驚きませんよ!気分は一休禅師!
◆長谷川
私全く仕事のない歴史講師、人気もゼロ読者もゼロ。


◆対談者
長谷川先生の安土城ビスタ論では大手道が
直接本丸を天守見上げる構図ではなく斜に
斜め向うに見上げる馬手「めて」つまり
右に見上げる光背効果が存在します。もし
小牧山城が天正安土城の石垣城郭の祖形や
ひな形つまり安土城のルーツが小牧山城に
あり小牧山城にも私はビスタ線がつまりは
城郭を設計した時の基礎測量線を発見する
事が出来ると私は思います。
▼安土城/ビスタ線/長谷川博美挿入

▼同じく安土城ビスタ線白黒明瞭型 長谷川博美/線挿入
安土城大手道は中心集結線の右に位置▲する。
◆対談者
それでは小牧城に集結線ビスタ線を入れて
見て下さい。論考の結果は恐れずに挑戦す
る研究者学問に挑戦する事は重様な事です。

◆長谷川
では現地小牧市様掲示の測量図を参考に
試論的にテスト的にビスタ線を入れてみ
ます。あくまでも試論テストであり是は
私の営利には、全く現実は繫がりません。
何しろ仕事も読者も、全くゼロですから。
▼小牧山城小牧市様の測量図に長谷川線挿入
◆長谷川
どうも安土城と同じ大手方面から小牧山城
を雄大に誇示する信長の見せる城の要素の
萌芽の要素が既に小牧山城に時代から既に
存在した可能性があるやもしれませんね。
見通し線は1カ所ではなく複数箇所あると
思われます。

◆長谷川
ちなみに江戸時代の城の測量資料です。
私達現代人は城の測量方法には興味を
持ちませんが図には本座と開地と言う
文言が見えて興味深いものがあります。
元亀末年から天正元年にかけて織田信長や
羽柴秀吉が定番となる虎御前山城のビスタ
線も是非一度再考したいと思っております。▼東から虎御前を見た図
虎御前山城ビスタ線を測量図を
見て再考したいと思っております。
▼虎御前山城伝信長陣城西より見た図
元亀年間の織田信長の
志賀の陣城宇佐山城も検討してみましよう。
長谷川
大津方面を大手して放射状に縄張りした可能性もある。

▲天正11年1583年佐久間玄蕃盛政行市山陣城の縄張りも
▼同年の前田利家の陣城別所山城の幾何学も存在します。
同年の羽柴秀吉方木ノ本町の田上山陣城も▼
▼規矩術を使った放射線状縄張 近江膳所城「寛文期以後」
▲江戸時代の近江膳所城さえも
▼彦根玄宮園の建物のパース見通し構成も存在します。

▲何と見事な彦根城の臨池閣と鳳翔台の見事なビイスタ論です。
◆対談者
信長も岐阜から安土に移る前に八カ月滞在した
澤山城図もビスタや放射状の文化でしょうか?

再び安土城の八角平も放射線状の縄張です。
信長の覇業を継承した羽柴秀吉の天正大坂城も放射状がある。

▲太閤秀吉肥前名護屋城も放射状の
縄張で設計されている事に気付く。

コメント (3)
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米原散歩 米原歴史講座  多賀 彦根 垂井 米原 長浜 鳥居本 東浅井 西浅井 山東町 

2021-07-26 14:42:25 | 歴史講座
米原散歩 米原歴史講座

◆対談者
長谷川先生は
滋賀民俗学会理事
米原『城歩会』講師
米原文化協会副会長
滋賀県中世城郭分布調査現地調査員
元NHK岐阜/名古屋文化センター講師
などをされて既に社会的信用が
ある方なので私は安心してます。
時に教育関係者様のOB様達さえ
長谷川先生の講座や見学会へと
参加される傾向が続いています。

◆長谷川
慎みて宜しく御願いを申上げます。まあ来る
7月29日の講座は滋賀県伊香郡浅井郡坂田郡
犬上郡を中心とする中世城館と石臼出土関係
をめくるめく不可思議な現場写真大量に用い
従来にない、石臼と中世城館や古戦場の因果
関係を連続画像で御紹介する予定です。貴方
の町の貴方の町の城の石臼が連続登場驚く!


◆質問者
米原学びあいセンターで次回令和3年
7月29日午前10時の講義はどの様な土地
や城が登場するのか是非教えて下さい。

◆長谷川
城郭と石臼と民俗学が融合した講義内容。
パワーポイントを使った解説の予定です。

1三重県 成瀬平馬屋敷
2滋賀県 大津 関津城
3近江八幡市 馬淵
4犬上郡多賀町 敏満寺城
5彦根市 大堀城
6彦根市 多賀町 男鬼城
7米原市 鎌刃城
8米原市 江龍奥の城
9米原市 枝折城
10米原市 八構師寺城
12米原市 番場城
13彦根市 鳥居本地区 菖蒲岳城
14彦根市 鳥居本地区 キトラ谷城
15彦根市 鳥居本地区 物生山城
16長浜市米原市 名越越えの城
17長浜市 南小足町
18米原市 油里
19米原市 甲津原 治山城
20岐阜県 菩提山城
21岐阜県 広瀬城
22岐阜県 品又砦
23米原市 曲谷
24長浜市 横山城
25長浜市 木ノ本町 田部山城
26長浜市 賤ヶ岳城 飯之浦切通し
26長浜市 余呉町 神明山城
27西浅井町 西岡城
28福井県  疋田
29近江八幡市 馬淵
30長浜市 虎御前山城
31多賀町 久徳城
32近江八幡 馬淵岩倉

3

◆対談者
最近足腰が著しく衰弱し山城見学がツライです。
先生は日頃山城見学会に備えて、どの様なトレー
ニングや訓練を普段から実施されていますか?

◆長谷川
私は階段登りより階段降りを意識して楽しんで
おります。階段を上る事よりも降る事で筋肉が
増強されるとう科学データは既に存在致します。

◆一般者
長谷川先生山城見学の6大利点とは何ですか?

◆長谷川
①山城に登る事により人間本来の脚力を整える。
▲脚力強化=老化防止
②レジュメ文字を読んで左脳記憶を活性化する。
▲脳活=左脳活性
④レジュメ図面を読んで右脳分野を活性化する。
▲脳活=右脳活性
⑤遺跡を立体的見学して空間認識能力を鍛える。
▲脳活=平衡感覚や方位感覚の訓練
⑥平素の雑事を忘れ美しい山林や山城を楽しむ。
▲リクリエーション効果、人間再生「気分転換」

◆対話者
第七の要素として学習学研要素が高いのですよ!
もう既に死語となってしまった生涯学習の世界!

◆長谷川

私は米原「まいはら」住民なので近場近距離の
散歩をしています。
県立米原高校へ至る「深坂」の登り降りは最適!
当然の事ながら夏は熱中症に備えて早朝に冬は
気温が上昇してから歩く様に心掛けています。
▼隣接する秋葉神社への階段も登り降りします。
▼米原市内岩脇の、屋善行堂の石段にも行きます。
▼米原市 岩脇稲荷神社の参道階段

▼米原陸橋の階段も意識的に使います。

▼降り階段は意図的にゆっくり丁寧に降ります。
▼猛暑日や雨天日の散歩には米原地下道を利用してます。

▼米原駅の陸橋の階段昇降も散歩で利用を致します。

▼散歩途中には米原学びあいステーシヨンで休憩する事も
◆おしらせ 以下の講座は座学のみです。宜しく御理解を!
長谷川博美 城郭講座 令和.3年7月29日 午前10時 500円


◆長谷川
彦根犬上、長浜坂田、米原鳥居本の方々は
宜しく御願いを致します。回を重ねる度に
より楽しく、より深く、興味深い、お城学
を参加者様が学習されます事を切望します。
そうそう大垣や岐阜からも米原は近いです。

◆対談者
見た事ない事、聞いた事ない事、図書館の
書籍にも掲載されてない本当にあっと驚く
斬新な歴史城郭を解説をされると思います。

好評 城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆対談者
今回の投稿で大切な社会観察視点とは何です?

◆長谷川
古典的な神社の石段に高齢者の参拝を配慮に入
れた石段側面に金属製の「手摺」が備えられて
きている平成や令和の世相や現実を認識し読み
取りましょう。山城見学しても単純な基本構造
である犬走を軽視拒否して全く見学しない探訪
形式よりもより丁寧に山城の成り立ちを観察す
る純粋さ遺跡への謙虚で真摯な観察眼を養って
下さる事を願います。日本人の伝統文化として
丁寧な物作りが存在した訳です。丁寧で緻密な
物作りをしていた日本国の産業が今日は落日し
零落した根本原因は日本人の物作りの丁寧さや
観察眼の文化意識が衰退した事を意味してます。
日本の城跡って本当に『丁寧』に繊細に作られ
ています。城の『丁寧』さ『繊細』さは城郭探
訪ではなく、城郭遺跡見学会に参加される事で
理解可能であると私はときに思います。中世城
郭は元来近世城郭よりもむしろ繊細複雑な縄張
構造を持っています。繊細な観察眼を持ち合せ
た城郭遺跡見学を指向される方々には私の見学
会や歴史講座は有意義な事かな?と思います。

◆対談者
現代は戦後昭和の城ブームの次に全国的に城の
ブームが到来していると言われていますが?私
個人は非常に苦虫を噛む思いです。私達日本人
はブームや流行や「はやり」には敏感な民族で
すがそれは一過性のものです。一時バードウォ
ッチングと言う野鳥観察が流行しましたが一過
性でした今本物の野鳥観察をされている人々が
やはり本物志向リアル思考の本物志向だと思い
ます。私は現近の城郭探訪を心良しは思わない。
何時の世も庶民は偽物に群れ集まり本物たる「
城址」を本気で見学する気など全くない。本物
に近道はないのです。御気楽インスタントこそ
庶民や大衆が求めるワンタッチ、ダイジェスト
文化かと思います。

◆対談者
最新の研究動向紹介 - FC2を検索して読んで下
さい。

◆長谷川
まあまあ感情を抑制して冷静に考察して下さい
城で遊ばれる人の心理も汲み取り柔軟に理解す
る社会観察性も重要かつ肝要な事で中庸です。

コメント (4)
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滋賀民俗学会 滋賀県の城館古戦場と石臼について

2021-07-24 06:54:45 | 歴史講座
滋賀民俗学会 滋賀県の城館古戦場と石臼について
◆対談者
連日猛暑が続いています。涼しい城郭の座学ありま
すか?石臼と城館の関係をスライド画像で解説して
楽しい座学が貰ありりませんか?長谷川先生独自の
ユニークな石臼と城郭の講座など絶対に他の企画で
は見せてもらえません。絶対見るべき座学講座です。
長谷川先生の城郭ビイスタ論の動画も全国的規模で
話題騒然となっています。
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆長谷川
石臼と城館の歴史講座のおしらせ

次回米原市米原公民館講座7月29日午前10時
受講料金 一回 500円
米原公民館名称変更→米原学びあいステーション
電話番号 0749-52-2240
▼米原学びあいステーション『旧米原公民館』


長谷川博美 城郭動画

◆対談者
郵便局員特に配達員はどこに配達したら良いか
よく知っている事が配達員の一番肝心な事です。
配達せずに郵便物を隠してしまう人は論外の人。

◆対談者
長谷川先生は城郭分布に詳しい先生との事です。
私達の知らない事を知っておられる城址の先生
と言う事ですがあるときの事米原の磯山城には
二重堀切など絶対にある訳がない長谷川説など
デタラメで信用に足りらずと猛然と感情的にな
られた人がいて驚きました。何で坂田郡米原の
善良な住民様が二重堀切など、絶対ないと感情
的になられるか?全く理解できないのです。昔
から磯山城には二重堀切が描かれている事など
坂田郡の人なら誰でも知っている普通の事です。
坂田郡には横山城に二重堀切、名越越城に二重
堀切、醒ヶ井江龍奥の城に二重堀切、鎌刃城に
二重堀切、菖蒲岳城に二重堀切、キトラ谷城に
二重堀切、番場城に二重堀切、そして坂田郡の
箕浦庄に属した男鬼集落の男鬼城も二重堀切、
坂田郡に属した物生山城に二重堀切がある事は
滋賀の人なら誰でも知っている基本的な事です。
普通の事を普通に冷静に学ぶ事が学門や研究の
「まなび」の基本の世界で選挙や投票獲得とは
数の論理であり学門や研究や派閥とか人的集団
の世界と異なります。素朴に素直にあるがママ
を学ぶ事が冷静な学びであり学門の世界です。
長谷川先生が良く言われます。人の上に人を作
らず、私の城の先生や模範とは城郭遺跡自体で
私ではありません。二重堀切を謙虚かつ冷静に
見学してきた人々の謙虚さ冷静さ感情には走ら
ない学門への括目や気付きや開眼こそが大切!

◆質問者
失礼ですが長谷川先生は城館の発掘体験と石臼
を発掘された経験はありますか?

◆長谷川
城をやってる人は発掘経験がない人はいないと思い
ます。私も県外の城館発掘で石臼を発掘した経験が
あります。普通城郭の人は非常に石臼に興味を示す。
必ず発掘展示品や発掘目録にある出土品の石臼には
着目しています。

▼某県某所城館の石臼出土状況


滋賀民俗学会 滋賀県の城館古戦場と石臼について

著者 同会理事 長谷川博美
 
 はじめに

城館遺跡やまた古戦場を探訪される方々には
石臼や茶臼の残骸や存在には興味を示されな
い傾向にあり私は残念でならない。何故なら
石臼は中世から脱穀に用いられる貴重な生活
必需品であり茶臼の出土を見たらその城郭の
城主が城址から出土した遺物に驚き興味を持
つて頂きたいと思う。滋賀民俗学会では菅沼
晃次郎会長(故人)̪の曲谷の石臼調査が良く知
られている。近江では馬淵の石工や近江隣接
する福井県敦賀市疋田産の石臼も知られてい
る今回の投稿は石臼の産地ではなく滋賀県の
城郭遺跡を調査に実地に赴いたときに偶然に
山中で発見記録した場合や城跡からの出土品
を展示していたものを中心に写真と文書を用
いて紹介したい。米原学びあいステーション
の眼前にある太尾山城も越前様式の石臼が出
土し小谷城からも越前尺谷石製の「ばんどこ」
暖房器具や水盤が出土し天下の安土城天主の
玄関化粧石にも越前笏谷石が敷き詰められて
る。

◆田部山城の石臼
冒頭で登場する写真は長浜市木ノ本町田部山城
の石臼破片である。田部山城は文献『信長公記』
にも元亀末年には登場する朝倉義景在陣の城と
記録されている。二次資料、地誌『淡海温故録』
には浅井氏家臣中嶋宗左衛門の管理する城とし
て登場する。余談であるが田中吉政が関ヶ原の
戦後に伊吹山中で捕縛した石田治部少輔と中嶋
宗左衛門に関する徳川家康からの書状が残って
いる。この田部山城の石臼は「上石部」が田部
山山頂の主郭部より西に派生した西出丸跡部で
滋賀民俗会会員の田畑喜久弘氏が発見され理事
の私が写真撮影したもの石臼の採寸は城郭調査
主眼の為に実施していないその石臼は発見当時
の記録写真のみに留めている。なお石臼は採取
個人習得はしていない。上石の底の角度が緩く
曲谷産の系譜をくむ石臼破片と著者は観察する。
拡大写真は冒頭に掲載した。



田畑喜久弘氏略歴紹介

①脇ヶ畑城郭探検隊 隊長
②現多賀見ておき隊 隊長
③NPO法人自然と歴史ロマンの会 理事
佐目の明智光秀伝説の城現地調査に貢献

④元彦根市図書館オブザバー
⑤元余呉城郭研究会会長
⑥滋賀民俗学会会員
⑦元多賀町議会議員
⑧元関西城郭研究会会員

◆名越越えの城の石臼
次に紹介する石臼破片は私も滋賀県中世城郭
分布報告の現地、城郭調査員として参加した
長浜市名越町から米原市山室へと超える峠に
築城された城主不明ではあるが典型的坂田郡
様式の二重堀切を起始した中世城郭遺跡だが
田畑喜久弘氏の探索により城址南部主郭より
発見採取取得せず上石写真撮記録を残すのみ。

◆東近江大森城石臼の件
さる平成の末年、大森コミニュテーセンター
で石臼が展示紹介されたが著者撮影するも
現在は記録写真みつからず残念に思います。

◆長浜市西浅井町横波西岡城東部
滋賀民俗学会会員、長谷川銀蔵と息子長谷川博美
は昭和の末年、当該城郭を調査中に石臼の上臼を
発見土中に半分起立するとよに据え置かれていた
民俗学者長谷川銀蔵の説によると山堺用に石臼が
用いられたと述べている。▼著者父 長谷川銀蔵
石臼は取得採取せず写真記録に残すのみとした。
◆伝虎御前山城茶茶臼
この虎御前山城近江浅井氏攻略のために浅井氏
の本拠小谷城の東麓方面虎御前山城織田信長に
より築かれ木下藤吉郎「後の豊臣秀吉」が城代
となり同城には屋敷が構えられた事が『信長
公記』には記されている。②茶の湯の政道を
実践した信長や秀吉もこの石臼を引いて喫茶
した事であろうか?虎姫時遊館の常設展示品。
これは茶臼の下石と判明する。
▼茶臼各部部位の名称

◆敏満寺城茶臼
『多賀町史』編纂にあたっては当時の滋賀県
犬上郡多賀町有志の方々には大変お世話にな
り改めて感謝を申し上げます。私も敏満寺城
の図面を掲載して頂き感謝致します。令和の
時節至り敏満寺城発掘遺物の展示会があり茶
臼の出土品を見学させていただきました感謝。
この茶臼も下石と判明する。
◆米原市油里の石臼
石臼が磨滅した破損した場合には土地境界線
を区画する印として用いる民俗習慣が日本の
忘れられた民俗習慣が残っていたようだしか
し現実に土地境界石として垂直にたてられた
現物を見た事が著者はない坂田郡油里の里を
著者は散歩していた目的は油里城を探す目的
である。油里城は発見確認出来なかったのだ
が著者は垂直に起立する石臼を見て仰天して
早速基調な類例を記録写真に収める事にした。


◆賤ヶ岳合戦における茶湯の件
小瀬甫庵の記した『甫庵太閤記』は巷間で
有名な著作物である。賤ヶ岳合戦について
記録した部分において喫茶、茶湯、数寄の
記録が残っている。山路将監正国が陣中で
茶会を開こうとした件が記されているこの
文書の後半神明山砦の木村重玆しげこれが
登場し「数寄屋」茶室の文字も登場してい
いる。数寄屋は茶室の事である茶を飲む時
に茶臼が必要である。賤ヶ岳古戦場で山路
正国は賤ヶ岳の切通「飯之浦切通」で戦死
している。余談であるが後世の画家山路商
なる人もこの山路に繫がる人だと言う事だ。
◆『甫庵太閤記』に登場する語彙解説

※1本山の要害
神明山砦と解釈されている。この山は
余呉町文室側では「大杉山」呼称する。

※2数寄屋
茶会を開催する為の茶室の意味

※3柴田伊賀守
天正11年1583年当時長浜城主の柴田勝豊

※4木村小隼人
木村重成父で秀吉の家臣木村重玆しげこれ

※5心変ずる者
秀吉方から勝家方に味方しようとする勢力

※6外輪、そとわ
城郭の内輪「内曲輪」外輪「外曲輪/外郭」

※7山路正監正国
元柴田勝家家臣、柴田勝豊の付家老重臣

※8用心きびしく
柴田方へ内奥する将兵を厳しく監視した。

※9此企
「このくわだて」木村を戦陣に設置した
茶室に招待し山路がこの首を打って柴田
勝家に手土産に謀反し柴田勝家軍を神明
山城に招き入れ羽柴秀吉方の最前線神明
山砦「陣城」を占領して長期化膠着化す
る賤ヶ岳合戦を柴田勝家側優位へと導く
秀吉方最前線の切り崩し作戦を意味する。
当時柴田勝家方は余呉庄全域に陣城築城
し羽柴秀吉と互いに陣城を構築し合って
合戦当初の3月頃から約30日間城郭築城
競争が秀吉と勝家の両陣営に別れて展開
された。その城郭は最大規模を誇る城は
柴田勝家の内中尾山城こと現代の国指定
遺跡、続日本名城100選にも選定された
超巨大城郭玄蕃尾城である。



◆衝撃の石臼破片を滋賀民俗学会田畑氏が発見!

令和3年5月29日に城郭フオーラムが開催されて
多数の知性派の御参加を賜り御礼を申上げます。
参加者様一同は賤ヶ岳城の見学に執心された事
と存じ上げます。田畑氏は疲労した人の救助の
為に賤ヶ岳西に位置する賤ヶ岳合戦最大の激戦
地に控えの殿軍「しんがり」の重鎮としてあえ
て待機して貰いました。田畑氏は何事も目立た
ず影に控える役で、裏方の役目を願いました。
賤ヶ岳城の見学を終了して件の飯之浦坂切通し
に参加者全員が下山した時長谷川先生と!田畑
氏が峠の礫の中に石臼が立って残っていますと
報告された時私は全身に電撃を受けた様な感覚
に襲われた!まさか石臼など切通しに残ってる
訳がないと!しかし石臼に溝も明確に刻印され
ている。城館や城郭や古戦場では石臼を見逃が
さない事が歴史民俗城郭遺跡見学観察の本質だ。
名越越えの城にしろ峠の民俗学があるこの飯之
裏切通しも歴史民俗学が潜在していると言える。

◆石臼と城郭と民俗学的考察を進捗させたい!
それには一体どうしたら良いのであろうかと?
「滋賀民俗学会」とは菅沼会長の御逝去を持ち
終了したのか?いいやそうではないハズだろう。
菅沼会長の高嶋のお宅を田畑氏と訪問した際に
会長は長谷川!貴君は貴君なりの新しき城郭と
民俗学を融合した新民俗学を創設せよと助言を
頂いたのたが?いかに?すれば良いものかと?


◆長浜市木ノ本町飯之浦の地名考察
私は民俗学者でもあり国学者の系譜も引いて
いる。今回の滋賀県長浜市木ノ本町飯之浦の
切通は賤ヶ岳古戦場の激戦地でもあるが古い
交通の要衝としての歴史も秘めている。
『式内社調査報告』によれば『近江伊香郡誌』
に「八幡神社、大字飯之浦、式内波彌神社是也、
古記に波多八代宿禰波美臣之祖也在飯浦村にあ
り、文治年中源義経奥州に赴く時、其臣内貴土
佐當地に来り居を構え當社を奉祀すと云う。」
とあり、当社を、式内社・波彌神社に比定する
『式内社調査報告』では、当社・八幡神社に
波彌神社が合祀されているとある。
飯之浦の語源はここから大津に米穀が船で
運ばれた事にも起因しているが、しかし私は
波彌「はみ」の地名が「はみのうら」へと
やがて経年して「はんのうら」へと発音転訛
した可能性も考察する。いやはや國學院出身
の学徒の考えそうな自分の考察思考である事
に思わず微笑してしまう。そうそう國學院大
の土岐昌訓先生の式内波布比咩命神社「大島」
の講義も思い出した。

★令和3年5月29日城郭フォーラム参加者様へ
当日付属しました。内貴山の城塞図をば再度
読み返し上文に登場する内貴土佐や飯之浦の
内喜姓も含めて一考察を個人で加えられる事
を御奨め致します。私は著作物ゼロなれども
私の残した資料を再読される方の為頑張りま
す。どうぞ宜しく御理解と御指導を願います。
日本全国の院友会の皆様も宜しく御願います。

長谷川博美 近景 米原学び合いステーシヨン「米原公民館」

◆滋賀民俗学会 講座参加者
理事長 粕淵宏昭先生 
理事  長谷川博美  
会員  田畑喜久弘氏 元多賀町議員

次回米原市米原公民館講座7月29日午前10時
受講料金 一回 500円
米原公民館名称変更→米原学びあいステーション
電話番号 0749-52-2240

◆対談者
長谷川先生の城郭研究家としてキヤリアは
非常に長く、玄蕃尾城の調査でも古くから
活躍されている事は昔から有名な事で老舗
研究家で滋賀の人よりも「東海地方」また
「京阪神」「福井嶺南部」では語り草です。


▼長谷川博美玄蕃尾城見学会のおしらせ






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滋賀民俗学会 理事 長谷川博美 米原公民館連続講座

2021-07-24 02:58:22 | 民俗学
滋賀民俗学会 理事 長谷川博美 米原公民館連続講座
城郭ヒビイスタ論 上文字クリック

◆米原公民館様よりの電話
〒521-0016
米原市下多良三丁目3番地
連絡先
電話番号 0749-52-2240


長谷川先生以下の日程で歴史民俗学の講座講師
を御願いする予定です。開講人数も、集まって
おられます。追加参加者様が有れば受付します。

滋賀民俗学会理事 長谷川博美 連続講座
講座タイトル
『お城造りから見るお城と人物伝』
各回参加費500円公民館に徴収
令和3年2021年
1 5月27日木曜 10時~11時 3A研修室
2 7月29日木曜 10時~11時 3A研修室
3 9月30日木曜 10時~11時 3A研修室
4 11月25日木曜10時~11時 3A研修教室
令和4年
5 1月27日木曜10時~11時  3A研修室
6 3月24日木曜10時~11時  3A研修室

◆長谷川博美 滋賀民俗学会理事
これは滋賀民俗学会の粕淵宏昭先生や滋賀
民俗学会員様や米原の皆様の御鞭撻の賜物
と慎んで講座講師引き受ける事に致します。
どうぞ教室にお越しの始めてお会いする機
会を得た皆様方々には宜しく御願いを申し
上げます。故滋賀民俗学会菅沼先生からは
長谷川さん貴君の独自の民俗学をしなさい。
新しき民俗学や歴史民俗学の形態を切り開
きなさいと高島市で御指導を賜った事を記
憶します。講座内容や詳細は米原公民館様
と再度打ち合わせて、確認報告を致します。
どうぞ、講座参加の皆様にはどうぞ御鞭撻
のほどを宜しく謹んで御願いを申上げます。

◆長谷川
4月2日米原公民館を訪れ直接参加者様や
講座の傾向を確認すると、参加者は私の
のブログを見ている人、既に著者の講座
を経験して私を知っている人、私が従来
の定版城郭論のみにこだわらずに、民俗
学、城郭構造研究、文献改題、東洋史学
など巾広い歴史民俗学の知識を統合した
講座を期待する人々であるとの事でした。
参加者丸暗記の学門ではなく参加して考
えるキッチリトした城の基礎や知識を踏
えながらも、一歩研究考察を進化進捗さ
せた剛柔取り混ぜた柔軟な講座だと期待
する地元米原や彦根や長浜からの参加も
含めた連続講座になる予定です。




 坂内村 民俗資料館訪問記念写真






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人類史における ウイルスの発生と 山荘 山寺 奥山 山城 との因果関係

2021-07-23 19:09:28 | お城日記
人類史における ウイルスの発生と 山荘 山寺 奥山 山城の因果関係

◆世界史の疫病
猛威を振るう昨今のコロナウイルスによる
世界的規模の蔓延は全世界の人類が危惧す
べき未曾有の疫病伝染現象だと言えます。
過去において、我々全人類は様々な
免疫疾患や伝染病により多くの犠牲者を出
してきました。中世ヨーロッパではペスト
が流行したり100年前にはスペイン風流行に
より多くの貴重な人々の生命が失われました。
ヨーロッパでは隔絶した岸壁の上に僧院が営
まれ単に殉教や信仰心のみの為ではなく聖職者
の生命の維持や信仰の継続をも含む城塞とも言
える僧院も現実に営まれております。何故人は
時に俗会と離れた山岳を東西の人々が好むのか
人間の普遍的伝統心理が存在するのでしょうか?

◆東洋の貴族の免疫疾病防御策の考察
中国や日本では高貴な王族は王にウイルス
の飛沫感染が及ばないようにサシハ「指羽」
を使用して風を逆流させて防いでおります。
本来日本の皇室の天王即位式の時にも元来
は9名のさしは所役を設けておりました。

▲古墳壁画の さしは
遠い昔から存在した意味や意義とは?



また高貴な人と対面する場合には貴族は
御簾「みす」の中のブラインドに守られ
て空気に伝染による飛沫感染を防いだと
思われます。

高貴な人は「御簾の中におられ飛沫感染」
を防いでいた事になりましましよう。
高貴な人は栄養も休養も充分で
病気にならないような人です。

つまり「病む事なき人」
つまり「やんごとなき人」です。
身分高き貴人の意味でしようか?

神道の作法においても神様に
神饌「御供え物」をする時に
紙を口に含んで神様に備える
供物飛沫感染菌が飛ばない様
に工夫がされた名残もある。
勿論清水で身体を清める事
禊「みそぎ」も潔斎の意味
洗浄の意味が含まれてます。
手水舎で口腔を清める事も。


◆日本の中世には人里離れた
場所に山寺が多く何故建立されたのか?今
も多くの謎や多くの不思議に包まれてます。
 はたしてその奥山の寺に経済効果や利益
があったのか?と言えば一般社会との隔絶
性による免疫伝染疾病から身を護る事も含
まれていたと思われます。

◆隔絶した地域の免疫疾病からの安全性

ひとつに人里や都から隔絶した非常に不便
な異界の山奥山渓に国家的で荘厳な大寺院
が営まれた遺跡を見るにつけ流行性の疾患
が流行っていない時期にはこの利点を見逃
してしまう事もるが神の住む神域に近い所
には疾病悪疫を退ける霊地霊力があるのだ
と山岳宗教を信仰し所謂伝染疾患から隔離
された山寺の威力が尊崇され信仰の対象と
なったと昨今の社会情勢を見るにつけ私は
思います。今更ながら是を再考察する事も
時に大切かと思います。古代の王朝の首都
は隆盛と衰退を繰返しながら絶えず移動し
た事を考える事も意味のある事でしょう。

また裕福な貴族達は別荘地を所有して猛暑や
疫病を避け人ごみの多い、伝染病の流行る都
をさけて山荘を所有してそこで悪疫が小康す
る時節を静かに待機する、一族もあった事で
しょう。有名な近江信楽遷都や大津宮などは
様々な国際的時局や世政治的闘争の潜在をも
含まれていると思われます。

◆山小屋
中世の城郭に山小屋の言葉が登場します。
山中の山畑を監視する為や疾病悪疫が下界
に流行した中世には山小屋に籠もり山菜を
採集し生き延びる一族郎党も居た事でしよう。
一種のシエルター隠し小屋と言えましょう。
小屋掛けとは?簡易な建物に野宿する事を
言います。

▼男鬼城 一説に男鬼寺と重複する遺構か?


ときに里から隔絶した山中深く巨大な寺院
やその跡を利用した、寺院城郭が存在した
時代もあります。▼余呉町 菅山寺の堂宇

▼菅山寺方面より余呉湖を望む。羽衣伝説は天女の水浴!

▼菅山寺城の城郭遺構「堀切」敵の侵入を山尾根を切断して防ぐ。
これは民俗学的には聖域の結界を示し軍事的には戦略防衛策です。

星ヶ崎城 これは法師が星へと転訛したものか?
また皆様と夕映えの美しい町で再会できる事
仲良く楽しく、再開事する事を楽しみに待っ
ております。  長谷川博美 敬白
そう彦根城の前身さえ彦根寺、金亀寺、の霊地
であり、そこへ都の人々が巡礼の旅に出る聖地
であった事を、忘れないように致しましょう。
巡礼街道は古より存在した都の貴族達の信仰の道。



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