警備厳重 永原御殿と伊賀衆
伊賀組
◆対談者
長谷川先生の講座が話題呼んで
ます。何で?で好評なのかとね?
長谷川博美 米原城郭講座 令和6年度開始
★米原学びあいステーシヨン
令和6年 講師 長谷川博美
木曜講座4月25日午前10時予定
予約先↓
所在地 米原市下多良三丁目3番地
電話番号 0749-52-2240
◆講座参加者 男性
警備保障の仕事に関係する者
で北近江に生活する者ですが
去る3月28日の長谷川先生
の講座に参加して驚愕した!
◆講座参加者 男性
徳川家康永原御殿の話だから
長浜に関係ない事だと腹決め
てとりあえずの参加した訳
ですが、その日の講座の主題
が警備だった私の仕事の件や
信用に関わる問題を歴史講座
に仮託して論述されてた事だ!
◆講座参加者 男性
だから普遍歴史論として現実の
生きた活きた歴史講座だと衝撃
を受けた訳です。私はただ警備
の会社してる訳じゃない社会的
役割を令和現代でも担ってる!
◆反論者 女性
そんな事関係ない事よ永原御殿
は警備のケの字も全く無い訳だ。
◆講座参加者 男性
そうじやないんだって!永原の
御殿の資料を全部そろえて満足
していてもそれは「ウワスベリ」
の表層の歴史家なんだよ!人は
百科事典を購入して慢心するさ
手に入ったらレコードも図書も
百科事典も本棚の飾りになる!
◆講座参加者 男性
さも百科事典の知識を全て保有
した様な幻想を抱いて百科事典
を購入した時点でもうその図書
を読まない人間になる事がある
◆反論者 女性
でも警備の人の事は永原御殿の
関係パンフには一切書いてない!
◆講座参加者 男性
それが生きた歴史講座なのかな?
言葉の羅列の為の歴史講座だろ!
資料の中で令和の現代も通じる
人間社会の警備の歴史の実態を
ズバーンと読み解く普遍性歴史
学は長谷川先生だけと衝撃受けた!
◆反論者 女性
長谷川先生を過大評価しないでよ!
山林の中の城址見学会では素朴で
善良な「兄やん」と言う感じです!
◆講座参加者 男性
ふふふふ そうかな?私は先生の
講義から別の人格や感性を読み取
ったね!この人はトボケ親父を演
じるも恐ろしい切口を持つ先生と
洞察していますね。何故ならばね
万人が気付かない警備の重要視点
を平然と飄々と語られる事自体に
私は脳裏を強烈に刺激された訳で
もし私が戦国武将なら長谷川お前
ウチの城に勤務しろと即雇用する!
◆反論者 男性
長谷川?そんな奴はナンボの者
じや!全く無名講師の代表だぞ!
◆講座参加者 男性
徳川家康は本能寺の変の危機
で木俣守勝や長谷川秀一服部
半蔵の伊賀国の土豪連の仲介
を通して堺から神君伊賀越え
をして無事三河国へ帰還して
いる。これは伊賀者の機動力
や警備能力を服部一族のツテ
で獲得して無事三河に帰還を
した事になるな!つまり服部
安全保障と言う警備会社をば
家康が持っていた事になる訳
良い信用の出来る人々を雇用
確保していた家康の才覚です。
◆反論者 女性
でも長谷川先生は講座講義の
中で全く関係ない服部良一の
作曲された 東京ブギウギの
話をされて思わず笑った訳ね!
これトボケ先生間違いないわ!
◆講座参加者 男性
ふふふふ そうかな『東京』つ
て何だっけな?
◆反論者 女性
そんなの徳川家康が徳川幕府を
江戸に作った事が江戸東京起源
ですわよ!そんなの常識ですよ!
◆講座参加者 男性
皇居の半蔵門って何?諸説ある
が服部一党が守備した江戸城の
重要な甲州街道への裏門だよ!
◆反論者 男性
マエフリが長いんだよ!近江
野洲の徳川永原御殿に伊賀者
の警備など全く関係ないのだ!
◆長谷川
それが三の丸や南番所には
明確『伊賀衆之家』とある。
警備会社の親方がこの図面
を見て警備員を何処に配置
するかは一番重要な事です
◆長谷川
先ず永原御殿には青丸の伊賀衆之家
が二カ所も存在する事が警備上重要
徳川が伊賀衆を如何に重用してたか
が如実に証明それるのです。徳川が
神社の狛犬のように2対の伊賀衆之
家を用意している事自体が重要だ!
その他赤丸は全て番所、番屋表記
されている厳重警備体制が解る訳!
◆長谷川
徳川家康とは桶狭間の合戦でも
本能寺の変でも其々危機を脱し
本国三河に脱出するサバイバル
劇を慣行している事が重要です。
◆みんな
長谷川先生講座ってオモロイ!
そして深い訳なのですよ!走れ
忍者クン!応援していますよ!
健気に必死に走る忍者が良い!
ウイッキペデイア
御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密を指した。
諜報活動といえど、実際には時々命令を受けて、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察していた程度だといわれている。実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえる。
職務[編集]
御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった[1]。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。
庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。
その特殊な任務のために功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行・長崎奉行を歴任した川村修就、勘定奉行・外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使としてアメリカに渡った村垣範正のような人物もいる。
起源[編集]
御庭番の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。
吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者や甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。
- 「御庭番」の家筋の祖となった17名の採用経緯と役職名の変遷[2]
- 以上、江戸幕府の「広敷伊賀者」となった16名は享保11年2月に7名が「御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残りの9名は「伊賀御庭番」となり、従来の「広敷伊賀者」と区別された。
- 享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」)
- 川村新六
- 享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」)
- 以上の合計17名が「御庭番」の祖となった。
身分と家柄[編集]
吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入し、最終的に17名を初代の御庭番に任命した。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。[2]
御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。
彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。
遠国御用[編集]
御庭番が幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを「遠国御用」という。前述したように、彼らは一般に言われるような華々しい間諜行動はとらなかったようだが、それでもしばしば命ぜられる遠国御用は重要な任務だった。
御庭番に関しては、将軍の命を受けてすぐに幕府御用達呉服店におもむき、秘密の部屋で変装して家族にも告げず、ただちに出立するといった記述をよく見かけるが、御庭番自身の談話や彼らの書き残した記録、幕府に残る公的記録からは、これが伝説に過ぎないことが見て取れる。
実際には、情報収集の命令を受けた御庭番は、出発前に一度自宅に戻って綿密に準備していた。彼らは、幕臣として出世後に御庭番の職務を離れた長老までも含めた、御庭番家筋の間で相互に親密に連絡を取り合っており、命を受けた御庭番は家筋の長老をはじめとする先輩御庭番たちに、調査内容について相談していた。それでも表向きには、御庭番たちは「他人はもとより親兄弟と雖も職務上の秘密を漏らさない」旨の誓紙を就任時に提出していた。また、江戸で事前の調査を行い、予備知識を蓄えてから出発した。調査報告にあたっても報告は書面で認め、先輩御庭番たちの校閲を経てから報告が行われた。
隠密調査中は、公式には病欠扱いとされていたようである。報告書上の旅程は、下命直後に出発して帰着直後に復命した、という形式をとったが、実際には事前の準備と事後の報告書作成のため、前後数日間の在宅期間が存在していた。これは、脇目もふらず職務に邁進したという建前をとる必要があったことと、日割で出張手当が支給されたことによると考えられる。
遠国御用のたびに立ち寄ることになる京都・大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。