衝撃 山鹿流軍学と安土城縄張の関係性
◆対談者
長谷川先生の安土城ビイスタ論
が米原学びあいステーシヨンで
大変な話題となり講座が盛況!
◆一般者
あの信長の安土城がこの様な
扇型縄張だと聞いて衝撃です!
◆長谷川
私の様な無名の学者の講座
に御参集賜り感謝致します。
◆質問者
山鹿流の軍学書に掲載され
ている城郭図は架空図です
が、架空図にさえビイスタ
論は潜在しているのですか?
◆長谷川
1703年生きていた服部直好と
言う山鹿流の軍学者の図見て
解析しビイスタ潜在図だとは
誰もが解らない事でしょうが?
私は中央の正中腺や左右塁腺
の形状からビイスタを取り入
れた「分廻し」の縄張と解り
私自身大変に苦悩しています。
◆長谷川
安土城でも右上の多角形の
8角平の曲輪も小ビイスタ
がある事は専門家には解る。
◆長谷川
安土城八角平多角形放射縄張技巧
ビイスタ工法
◆長谷川
山鹿流の平城模範図も更にビイスタ
が読み取れると私は苦悩を致します。
何故なら?私は社会孤立してしまう。
◆長谷川
近江鯰江城もビイスタ工法の城
◆長谷川
AB曲輪にも小ビイスタが存在。
◆対談者
山鹿素行と言う兵法軍学者は?
今歴史城郭愛好家の間で話題
の城郭ビイスタを使ったので
すか?ビイスタ動画凄く好評
◆反論者
動画は昭和平成にはなかった
令和の新城郭理論なのですが
絶対に動画を見ないで下さい。
◆質問者
承応元年1652年7ケ月間播州赤穂に
滞在した山鹿素行は赤穂城の縄張
に影響を及ぼしたと言えますか?
◆長谷川
その見解は控えさせて頂きます。
◆質問者
豊臣秀吉の城郭縄張をビイスタ
理論の見地に立って長谷川先生
は素晴らしい研究されています
この見解は城郭史学上重要です。
◆長谷川
過分の御称賛に感謝を申し上げ
ますが私のブログは全く人気0
安土城の縄張は二方向から縄張
◆長谷川①
羽柴秀吉太閤ケ平城ビイスタ
は2方向からビイスタ縄張して
おります。羽柴系と言えます。
◆長谷川②
羽柴豊臣系の城郭天正大坂城の
2方向からのビイスタ工法です。
◆長谷川③
天正小田原城攻めの為の陣城
石垣山一夜城もやはり2方向か
らの伝承的ビイスタ工法です。
◆長谷川④
太閤秀吉の文禄慶長役の肥前名護屋城
も2方向からビイスタ縄張しています。
◆長谷川④
豊臣秀吉の指示により関東江戸に
本拠を移す徳川氏、江戸城本丸も
2方向からビイスタ縄張してます。
◆長谷川
以上①②③④は日本国の城郭規範
とも言える定石や王道の縄張典範
と言える可能性がありましようか。
播州赤穂城の全体像の構図つまり
城の基本が2方向からビイスタの
手法を用いて築城された可能性が
あります。山鹿素行日記には赤穂
城の築城には参加させてもらえ無
つたと記録されていますから城郭
の全体の構図は播州浅野家は秀吉
の妻寧々の親戚筋に該当し織豊系
の二方向縄張ビイスタの可能性が
あるかもしれません。▼赤穂城
◆質問者
平戸城の模型を造るとありますが平戸
城にはビイスタ工法読み取れますか?
◆長谷川
2方向からの城郭ビイスタが読取れ
ます。
◆対談者
日本人の性格は特に職人や本舗
系の名店は製造方法や製造過程
は文書で記録するも「秘密」は
みな「口伝」で極秘事に伝承を
する技術の伝統継承形態があり
ます。山鹿素行の縄張術は如何
ほどの才腕があったのでしよう?
◆質問者
長谷川先生、山鹿流の築城書に
収録されている、城郭図解には
果たして城郭ビイスタが秘伝と
して潜在したのでしょうか?
◆対談者
もしも江戸期の築城書に登場する
架空の縄張にも長谷川先生の言う
ビイスタ工法が潜在してたならば
日本国の城郭研究にはビイスタの
意義や意味が如何に大きいかが解
ると思います。
◆長谷川
城郭絵図山鹿流城取之図は架空の城
の図版です私はSF研究家でなく現実
真実の現地城郭を研究する城郭研究
家です。この分析をお断り致します。
◆反論者
馬鹿か!お前らは?城郭ビイスタ
など存在しないんだ!検討するな!
第一俺は現実の城址に行っても全
く城郭ビイスタが解らないんだ!
▼城郭絵図 山鹿流城取之図
◆対談者
長谷川先生や日本全国の城郭研究家
の皆様冷静に対応して下さい!私が
今質問している事は元禄16年1703年
山鹿流門下の服部直好が記録した図
つまり1703年の段階の軍学者の潜在
意識の中に城郭ビイスタ理論が潜ん
でいるのかを検討検証して頂きたい
のです解りますか?1703年に生きて
いた服部直好と言う人間の図を解析
して頂きたいと言う趣旨に御理解を!
◆長谷川
服部直好の描いた山鹿流平城の図
には扇型ビイスタが潜在している
事が読み取れます。
◆長谷川
また典型的な2方向からビイスタ
の理論を用いて描いた図面である
事も読み取れる。▼重複ビイスタ。
山鹿流城取之図は山鹿流兵法学者の門人・服部直好が書いたものと序文に記されている。序文の日付は元禄16年(1703)。服部氏の経歴については分からない。ま