①利休 宗二 織部 の受難 信長の最期 茶器と魚介
千利休 山上宗二 古田織部 の三茶人は何れも時の権力者から処刑を受けている。
侘び数寄の精神文化と茶の湯の政道の二元性の軋轢や齟齬から三者は処刑されたと
私は推定する。特に山上宗二は秀吉に鼻と耳と首を切られて惨殺されている。『山上
宗二記』(その茶湯者覚悟十躰に「一期に一度」とあるが井伊直弼の茶の境地『一期
一会』に相通するものであろうか?井伊直弼も桜田門外の変で水戸浪士に首を取られ
て彼の生涯の最期を迎える。賎ケ岳の戦いでは山路正国が木村重玆を招いて陣中で
茶会を催し招いて木村を打たんとしたが未然に露見して失敗に終わり、旧主柴田勝家
陣営に帰り忠したが柴田は羽柴に大敗して山路は当該合戦で戦死している。古田織部
も徳川家康から一万石の録を受けながら豊臣方に帰り忠した嫌疑で自刃しその生涯を
終える。そもそも織田信長が本能寺の変でその生涯を閉じたのも京都本能寺にて自分の
蒐集した天下の茶器茶道具類を披露する為とも言われている。さて山上宗二の屋号が
薩摩屋、利休の屋号が(魚屋)「ととや」であるが当時の茶人達は元来裕福な経済力
を有する富裕層堺の納屋衆であり。織田信長は逸早く経済の要、国際貿易都市「堺」
を抑えて課税する事により巨利を得て茶人武野紹鴎門下で天下三宗匠と呼ばれた今井
宗久、津田宗及、 田中宗易(千利休)等と交流し茶器を蒐集、それを天下に披露し
茶の湯の政道をし中国攻めへと向かうのが本能寺宿泊の本来の目的であったのだろう。
本能寺の変の当日長谷川秀一案内で徳川家康が堺見物を織田信長に進められた事にも
留意すべきだ。
②魚と名茶器、九十九髪茄子(つくもかみなす)麩の焼き(ふのやき)「ふなやき」
田中宗易こと(千利休)の屋号(魚屋)「ととや」である事に着目すると高級魚介
類を商う商人を連想させる。さて天下の名茶器である九十九髪茄子を一時期所持して
いたとされる北陸道随一の名将とされる越前朝倉金吾教景が驚くべき事に越前で鮭の
養殖や孵化に取り組んでいた文献が発見されている事だ。朝倉家軍代として百戦無敗
の名将や武人として有名であるが朝倉氏の守護神が代々海産物の神「赤淵大明神」で
ある事も着目したい、金吾教景は北陸海産物の集積港である敦賀郡司である事が重要
である。織田信長が逸早く越前敦賀郡の金ケ崎城を目指すも北近江の妹婿である浅井
長政に謀反され挟撃された歴史の謎があるが何故浅井は越前敦賀郡の救援に向かった
のか?何故豊臣秀吉は大谷吉継に敦賀郡を下賜したのか?何故浅井朝倉連合軍なのか?
何故何故近江の石田三成と越前大谷吉継連合軍による関ヶ原参陣なのか?本能寺の変
においても東海王たる徳川家康の堺見物なのか?歴史書には魚介類の占める経済力に
ついては言及してはいない。利休は茶会で麩の焼き(ふのやき)を用いたとされるが
一説に漁師が船上で小麦粉を焼いたクレープ状の食品が「ふなやき」とされているが
③山上宗二の直言癖
宗二の直言癖は秀吉を激怒させ、その最期は鼻と耳と削がれ打ち首にされているが
先輩である利休に対しても、利休の急激な侘びへの傾斜に「山を谷、西を東と茶湯の
法度を破り、物を自由にす」と自分の直情で強固な性格や言論を隠さず全く驚愕する。
※山上宗二 やまのうえのそうじ
大辞林 第三版の解説より
やまのうえのそうじ
(1544~1590) 安土桃山時代の茶人。堺の人。号、瓢庵。千利休の高弟。秀吉の怒りを買い惨殺された。著「山上宗二記」
※桜田門外の変
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
安政7 (1860) 年3月3日,江戸幕府大老井伊直弼が暗殺された事件。
※賎ケ岳の戦い しずがたけのたたかい
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
天正 11 (1583) 年4月 21日近江国賤ヶ岳を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。
※古田織部ふるたおりべ
デジタル大辞泉より
[1544~1615]安土桃山時代の武将・茶人。美濃の人。名は重然(しげなり)。千利休に茶の湯を学び、徳川第2代将軍秀忠をはじめ諸大名にも伝授。大坂夏の陣のとき、豊臣家への内通を疑われて自刃。
千利休 山上宗二 古田織部 の三茶人は何れも時の権力者から処刑を受けている。
侘び数寄の精神文化と茶の湯の政道の二元性の軋轢や齟齬から三者は処刑されたと
私は推定する。特に山上宗二は秀吉に鼻と耳と首を切られて惨殺されている。『山上
宗二記』(その茶湯者覚悟十躰に「一期に一度」とあるが井伊直弼の茶の境地『一期
一会』に相通するものであろうか?井伊直弼も桜田門外の変で水戸浪士に首を取られ
て彼の生涯の最期を迎える。賎ケ岳の戦いでは山路正国が木村重玆を招いて陣中で
茶会を催し招いて木村を打たんとしたが未然に露見して失敗に終わり、旧主柴田勝家
陣営に帰り忠したが柴田は羽柴に大敗して山路は当該合戦で戦死している。古田織部
も徳川家康から一万石の録を受けながら豊臣方に帰り忠した嫌疑で自刃しその生涯を
終える。そもそも織田信長が本能寺の変でその生涯を閉じたのも京都本能寺にて自分の
蒐集した天下の茶器茶道具類を披露する為とも言われている。さて山上宗二の屋号が
薩摩屋、利休の屋号が(魚屋)「ととや」であるが当時の茶人達は元来裕福な経済力
を有する富裕層堺の納屋衆であり。織田信長は逸早く経済の要、国際貿易都市「堺」
を抑えて課税する事により巨利を得て茶人武野紹鴎門下で天下三宗匠と呼ばれた今井
宗久、津田宗及、 田中宗易(千利休)等と交流し茶器を蒐集、それを天下に披露し
茶の湯の政道をし中国攻めへと向かうのが本能寺宿泊の本来の目的であったのだろう。
本能寺の変の当日長谷川秀一案内で徳川家康が堺見物を織田信長に進められた事にも
留意すべきだ。
②魚と名茶器、九十九髪茄子(つくもかみなす)麩の焼き(ふのやき)「ふなやき」
田中宗易こと(千利休)の屋号(魚屋)「ととや」である事に着目すると高級魚介
類を商う商人を連想させる。さて天下の名茶器である九十九髪茄子を一時期所持して
いたとされる北陸道随一の名将とされる越前朝倉金吾教景が驚くべき事に越前で鮭の
養殖や孵化に取り組んでいた文献が発見されている事だ。朝倉家軍代として百戦無敗
の名将や武人として有名であるが朝倉氏の守護神が代々海産物の神「赤淵大明神」で
ある事も着目したい、金吾教景は北陸海産物の集積港である敦賀郡司である事が重要
である。織田信長が逸早く越前敦賀郡の金ケ崎城を目指すも北近江の妹婿である浅井
長政に謀反され挟撃された歴史の謎があるが何故浅井は越前敦賀郡の救援に向かった
のか?何故豊臣秀吉は大谷吉継に敦賀郡を下賜したのか?何故浅井朝倉連合軍なのか?
何故何故近江の石田三成と越前大谷吉継連合軍による関ヶ原参陣なのか?本能寺の変
においても東海王たる徳川家康の堺見物なのか?歴史書には魚介類の占める経済力に
ついては言及してはいない。利休は茶会で麩の焼き(ふのやき)を用いたとされるが
一説に漁師が船上で小麦粉を焼いたクレープ状の食品が「ふなやき」とされているが
③山上宗二の直言癖
宗二の直言癖は秀吉を激怒させ、その最期は鼻と耳と削がれ打ち首にされているが
先輩である利休に対しても、利休の急激な侘びへの傾斜に「山を谷、西を東と茶湯の
法度を破り、物を自由にす」と自分の直情で強固な性格や言論を隠さず全く驚愕する。
※山上宗二 やまのうえのそうじ
大辞林 第三版の解説より
やまのうえのそうじ
(1544~1590) 安土桃山時代の茶人。堺の人。号、瓢庵。千利休の高弟。秀吉の怒りを買い惨殺された。著「山上宗二記」
※桜田門外の変
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
安政7 (1860) 年3月3日,江戸幕府大老井伊直弼が暗殺された事件。
※賎ケ岳の戦い しずがたけのたたかい
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より
天正 11 (1583) 年4月 21日近江国賤ヶ岳を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家の戦い。
※古田織部ふるたおりべ
デジタル大辞泉より
[1544~1615]安土桃山時代の武将・茶人。美濃の人。名は重然(しげなり)。千利休に茶の湯を学び、徳川第2代将軍秀忠をはじめ諸大名にも伝授。大坂夏の陣のとき、豊臣家への内通を疑われて自刃。