1969/04/09に生まれて

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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』15.生目神社(いきめじんじゃ)

2022-10-18 21:08:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【生目神社(いきめじんじゃ)】
日の岡山を下り、県道日田鹿本線に出た。この県道は、古代の歴史に造詣が深かった故古閑三博県議が心血を注いで建設を促したとされる、地元では通称「三博道路」の愛称で親しまれている道路だ。敬意を込めてこの県道をしばらく走り、次に目指したのは蒲生池(かもうのいけ)だ。

蒲生池は、水の乏しさで窮乏を極めた地域を救うために、中村手永庄屋の遠山弥ニ兵衛が若干三十二歳のとき、自ら周辺を調査して蒲生村の湯ノ口を溜池の候補地と選定し、嘉永六年(1853年)に藩庁に工事の着手を願い出て、安政二年(1855)に着工し約3年の月日を費やした末に完成をみた溜池だ。着工に至るまでの周辺村民との協議、着工後の度重なる難所•災害との遭遇、工事費用の工面など、筆舌に尽くしがたい苦心と努力があった。伝えによれば、最初の満水から初めての放水の際、弥ニ兵衛夫婦は白装束で現れ、堤防にもしもの事が有れば、そこで自害して村民に詫びる誓いを立てたという。また、古書によれば、付近ではその昔に温泉の湧出があり、築造当時は「湯ノ口溜池」が正式名称であった。

溜池の堤で脚を止めた。水面には春の空と山の芽吹き、そして桜が映っていた。水面にカメラを向けている人たちが幾人もいた。桜の下には、年配の夫婦や長い付き合いと思しき人々のグループがそれぞれの桜の下で花見を楽しんでいた。

幸福を切り抜いたような風景から、過去の苦労を想像することほど無粋な行為は無いと思ったが、過去の苦労と今の幸福は地続きなのだと思うと感謝の気持ちが自然と湧いてきた。堤の横に建立されている遠山神社に向かって静かに手を合わせた。

堤を下って次は生目神社を目指した。生目神社は県道津留鹿本線沿いの福原集落のこんもりとした高まりにあって、「左二つ巴」の家紋が描かれた大きな看板が目印だ。県道から数mのところに鳥居があり、そこを潜って手摺りが設けてあるコンクリート製の階段を登りやや右側に振れると比較的に新しい拝殿がある。そこで私の目に留まったのは拝殿ではなく、その横に露出していた「礫岩」の岩塊だ。直径数mの丸い岩塊が、ちょうど三つ並んでいたのだ。まるで三の頭ようだった。ひょっとして、これが「三玉」なのか!?。鼓動が高鳴りはじめた。岩塊の真上には生目八幡と刻まれた古い石祠もあった。

生目神社は「首引き」伝説の終盤にでてくる神社だ。首引きの綱が当たって片目になった神様の一方の目は福原の畑の中に飛んできたという。そして、それを「神様の生き目」と言って祀ったのがこの生目神社だという。

『山鹿市史(別巻)』に抄録されている「山鹿郡誌」によれば、この神社は生目八幡社として文化六年(1809年)に勧請されている。一方、『同(別巻)』の「鹿本郡神社明細帳」によれば祭神は平景清で、佐治兵衛という者が文久六年(文化六年の誤り(1809年))に勧請したとされている。

私は、参拝を済ませると階段を少し降りて社務所兼自宅となっている建物に近づいた。様子を伺うと玄関の網戸の向こうに人の気配があったので声をかけた。すると、かなり年配の男性のかすれがかった声が返ってきた。

その年配の男性は、古い言い伝えで詳しいことはわからないと前置きしながらも、遠い先代が月詣として宮崎に通っていた神社から勧請を受けた旨の話しをしてくれた。その先代は、毎月、宮崎詣でをしていたと言うからには、ただの百姓ではなく細川家に仕えていた比較的に身分の高い者ではなかったろうかと話した。

宮崎市の生目地区には本社の「生目神社」がある。古くから「日向の目の神様」として眼病にご利益があると信仰され11世紀中頃には建立されていたと伝えられている。主祭神には応神天皇と藤原(平)景清公が祀られており、一説には景清公の伝説が神社の名前の由来とされている。その伝説とは、平家の勇猛な武将であった景清公が、敵の源氏に捕われたとき、源氏の総大将・源頼朝公にその武勇を惜しまれ宮崎へと封じられたが、仇である源氏の繁栄を見たくないと両眼をえぐって空に投げ捨てこの場所に落ちたというものである。また、別の伝えとして、景行天皇の熊襲征伐の途中、父の活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこさちのみこと、第十一代垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀を当地で営んだことに由来し、後に住民が「活目八幡宮」として称えたというものである。

いずれにせよ、三玉地区の「生目神社」は、その名前の通り目を祀った神社であることは間違いない。造立されたのは江戸時代とは言え、周辺の由緒ある寺社等に比べると比較的に新しい神社だ。拝殿や古い石祠の配置から推察すると、三頭状の岩塊を含めたこの高まり一帯を御神体もしくは神聖な場所として、この地に「生目神社」を創建したと考えて良いのではないだろうか。では、「生目神社」が造立される以前は一体何だったのか。「三玉山」だったのだろうか。
発見とともに新たな疑問が湧きあがってきた。


生目神社の入り口


拝殿横の三頭状の「礫岩」

《参考文献》
山鹿市史編纂室 「鹿本郡神社明細帳」『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.282-422
山鹿市史編纂室 「山鹿郡誌抄」『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.423-595
「生目神社」ウィキペディア 『https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%9B%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE』

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