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1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

ウマが合っている

2009-08-20 14:13:10 | 雑談の記録
熊本はフシギなところで、出身高校のことがよく話題になる。
ボクは高校を卒業してから1年浪人したあとは30歳まで熊本を離れてたんだけど、出身高校が話題になるような地域は無かったような気がする。

ところが、諸般の事情により地元に戻ってからは、このことを意識せずにはいられないという雰囲気を感じている。あまりにも内向きな話しに「カンベンしてくれ!もう!」と思うこともしばしば。

とか言いながら、ボク自身、現在は母校の同窓会にドップリの有様。だけど、これにはハッキリした理由がある。母校を死ぬほど愛している元応援団長のK団長が近所に住んでいるからなのだ。おまけにうちのリョー坊とK団長の長女は4年間同じクラスだし・・・・。


話しはかわるけど、「校風」とか「社風」あるいは「チームカラー」とかそういうものって「有る」と思う。それは目に見えるものじゃなくて、その組織が作る空気みたいなもの。でも、その空気ってどこから湧いてくるのかと言ったら、例えばそれは、経営者の言葉だったり、社訓だったり、校訓だったりするんじゃないのかな。

ちなみに母校には下に示す三綱領と呼ばれる「校訓」みたいのがある。

正倫理 明大義(倫理を正し大義を明らかにす)
重廉恥 振元気(廉恥を重んじ元気を振ふ)
磨知識 進文明(知識を磨き文明を進む)

三綱領の解釈については、母校のHPから抜粋したものを後ろの方にコピペしとくから読みたい人だけ読んでもらえればいいんだけど、学生の頃、この三綱領というのをことある毎に言わせられていた。
当時は「意味わかんねぇ~し」と思いながら呟いていたわけだけど、ある年齢に達したとき、突然、この言葉の輝きに気が付いたんだなぁ~。

母校の卒業生は団結があるなんて評されることが多いんだけど、ボクがその中にいて思うのは、この三綱領に共鳴している人々が結びついているような気がしてならない。ザクッと言ってしまえば宗教に近い。
そういうワケで、熊本にはアンチ母校に属する人達もいるわけで、一方で母校を精神的支柱にしている人達もいるってことなのだと思う。

ボクは三綱領の中でも「正倫理 明大義」が好きだ。
たぶん、ボクの脳ミソはそういう回路構造になっているんだと思う。

さて、自民党の政権公約の23ページの第4章の「教育・文化」に次の文言が記載されている。
「日本人が培ってきた文化伝統は、国家の礎としてその振興と発展を図っていくべきものであり、国民の財産である文化財の保護をはじめ、地域の伝統文化の継承と発展、伝統文化を尊重する豊かな人間性と正しい倫理観を涵養する教育を実践する。」

この中に「正しい倫理観の涵養」って言葉が盛り込まれているんだけど、これは木原稔君の成果。政調会長や党の執行部に、かなり口酸っぱく、しかも何度も何度も根気強く言い続けたらしい。

そういうワケで、ボクと木原はウマが合っているのかもしれない。



生かせ三綱領 (済々黌「同心」第64号より)

今一度望む本黌の理念-徳・体・知のもとに-

 明治15年、開黌と同時に制定された三綱領、すでに120年の時が流れようとしている。根本精神は変わらないとしても、今に即した解釈は、是非欲しいものである。

(1)三綱領制定

 開黌と同時に制定し、戦前までの済々黌に在学した人にとっては、教育勅語と同じ比重で、いやある意味ではそれ以上の絶対的なものとして、受け取られたに違いない。いわゆる"校訓”の一種で はあろうが普通一般の校訓とは大いに異なる。
 帽子の”キナ線(黄線)”や伝統のスパルタ教練を”肉”として育つたとすれば三綱領はまさに”血”―済々黌そのものとして、生徒にたたき込まれてきた。
 三綱領は、明治時代の学校であればごく普通の内容であろうが他校とちがった受け取り方をしたのはなぜか?三綱領は校訓ではなく、開学以来の主義であり”決まり”なのだ。間違うことは許されない。「悪い事をすると職員室に座らされるだけでなく、三綱領を唱えさせられた」とは卒業生の懐古談によく出てくる話である。


(2)三綱領の解釈

第1条 正倫理 明大義(倫理を正し大義を明らかにす)
  この第1条は三育の徳育の柱である。倫理とは人間相互の間にある秩序であり、人のふむべき道である。す  なわち、親子、兄弟、夫婦、朋友など家庭や社会の正しい人間関係をいったのである。日本人としての自覚をもって、日本民族の歴史と伝統を尊び、祖国を愛し、同法を守り、更に進んで国際信義を重んじ、人類愛の精神をもって世界の平和と人類の幸福に貢献するなど現代流の大義ではあるまいか。

第2条 重廉恥 振元気(廉恥を重んじ元気を振ふ)
 この第2条は三育の体育の柱である。廉恥は心清く恥を知る事である。恥を知ることは日本人の伝統的美徳とされている。元気の字義は活動の根本となる気力または勇気である。ただし蛮勇粗暴は真の元気ではない。元気は為すべきは猛然として為し為すべからざるは断乎として為さざる勇気である。   そして真の勇気は廉恥を重んずることによって生まれる。格言にいう、自ら省みて直くんば、千万人といえども吾行かんの気概である。これを歴史的に見れば武士道精神の粋を採用したものである。口ーマの諺にもあるように、健全なる精神は健全なる身体に宿るのであって、創立当初から徳育、知育と並んで体育を重視し、質実剛健の気風養成に努めた。

第3条 磨知識 進文明(知識を磨き文明を進む)
 この第3条は三育の知育の柱である。学校の綱領としてはあまりに当然すぎるような目標と思われるが、これこそ第二条と並んで文武両道をあらわし 、徳育、体育と並んで三育併進に深い意味を包蔵するものである。歴史的には明治初期の文明開化の風潮を反映した箇条といえるだろう。
 五箇条御誓文にも「知識ヲ世界ニ求メ大イニ皇基ヲ振起スヘシ」とあるが、当時の官民挙げての旺盛な知識欲と欧米文化摂取の有様を示すものである。済々黌が創立当初よりこの方面でも大いに力を尽くしたことは『済々黌規則』に見られるように次々に改正された教育課程によって自肯できるが、また卒業生の中から政治、外交、経済、思想、文化各界に幾多の人材を輩出していることにより立証される。

▼三綱領は歴代黌長によってさまざまの解釈が加えられたが、それぞれ微妙なニュアンスの違いこそあれ"大義”をモットーとする基本原理は終戦まで変わらなかった。まさしく「終始一貫渝(かわ)らざる教えは知れよ三綱領」の黌歌のままだった。以米、済々黌は日本が進んだ国家主義の道に完全にマッチして発展  を遂げるのだが、それだけ終戦による民主主義との断絶は大きかった。今、済々黌がかかえる苦悩は、この”大義”の解釈にあるのではなかろうか?
    図書館蔵「済々黌物語」より一部抜粋
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