1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

『三玉山霊仙寺を巡る冒険』10.古代鍛冶族と私

2022-10-13 20:48:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【古代鍛冶族と私】
決戦日の数日前。デスクの隅に立てかけたスマホの着信音が響いた。画面に映し出された文字は、「山鹿市立図書館」。
「着信」をスライドさせると聞き覚えのある声が耳に届いた。この前、お世話になったKさんだった。Kさんは、過日の訪問時には見つからなかった「三玉」の由来や採石場の開発経緯について答えるために連絡をしてくれたのだった。 

「三玉」の由来については『山鹿市史(下巻)』に、明治22年の合併時(蒲生村、久原村、上吉田村)の町村名選定理由の中に「〝久原村内元霊仙ニ、三玉山霊仙寺アルユエ、村民ノ申シ出二依リ、之ヲ名ク。”」の記載が見つかったことを教えてくれた。一方、三玉地区で採石所の開発が始まった経緯がわかるような資料は見つからなかったとのことだった。しかし、Kさんは、『新山鹿市史』には、現在の採石所から南東に約2km離れた「日の岡山」のふもとで太平洋戦争中まで銅鉱山があった記載を見つけたことを付け加えてくれた。また、『山鹿市史(下巻)』にも同様の記載があることを教えてくれた。そして、銅鉱山の記載は、どちらの資料にも「天目一箇神信仰(あめのまひとつのかみ)」の項で触れられていることを教えてくれた。採石所のHさんが、おっしゃっていた事は本当だったのだ。

『山鹿市史(下巻)』では、日本書紀第二神下(天孫降臨)の個所を引用して天目一箇神は鍛冶に関する神であることを説明している。そして、一ツ目神は、なが年銅精錬の火色を片目で見続けたために片眼となり、ふいごを踏み続けて一本足となり、一ツ目神社のある所には必ず銅鉱山があると伝えられていることを紹介している。つまり、一ツ目神を祀る薄野神社の創建時の1500年前には、既に、銅に精通した古代鍛冶族が存在していた可能性が極めて高いことを示唆しているのだ。おそらく、古代鍛冶族は、銅を含んだ岩石の探索と精錬をセットにした当時としては最高難度の高等技術を身につけた特殊集団であったに違いない。大陸伝来ではあるものの、彼らの留まることを知らない強い探究心がその技術を生み出し、そして古代とはいえ、それらが現在の科学技術に繋がる多くの礎を作ったのだと思うと深淵な気持ちになる。そして私は自分に言い聞かせる。果たして、私は、古代人に胸が張れるような強い探究心を持って仕事に励んでいるのかと。

決戦は年度末の土曜日に設定した。作戦のあらましはこうだ。
不動岩のふもとにある金毘羅神社を出発地として、登山道を登り不動岩を経て蒲生山の頂上に出る。そして尾根沿いを東進して「日の岡山」を通って下山し、蒲生ノ池を見学した後に「生目神社」を訪問するという計画だ。そして、最大の目的は、不動岩が何故あのような形になったのか、仮説でもいいので、それを裏付けるような地質学的な事象を見つけ出すことだった。それと、「三玉」は何を指しているのか、その手がかり探し出すことも大きな目的だった。もちろん、強い探究心を持って。

《参考文献》
山鹿市史編纂室 「第八章 民俗」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.619-621、p675
山鹿市『新補山鹿市史』平成16年 p.374
平尾良光「古代日本の青銅器の原料産地を訪ねて」『計測と制御』vol 28,No.8 p29-36
谷川健一『青銅の神の足跡』小学館ライブラリー 1995年
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』9.シンドラ作戦

2022-10-12 20:05:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【シンドラ作戦】
山鹿市に通い始めて1ヶ月。決戦の日が迫りつつあった。初めの頃は、ジオドラマの原稿作成のため軽い気持ちで始めた現地調査だった。山鹿を含めた県北地域は、仕事でこれまで数えきれないほど訪れていて、地質についてはある程度のことを知っていた。しかし、「首引き」伝説については、おぼろげな記憶しかなく、人からの話しを聞いて思い出す程度のものだった。なので、物語に出てくる山々や地域について書くためには、自分の地肉となる本当の知識を得るためにはどうしても身体を使う必要があった。そして、前知識としての予習も重要だった。

不動岩を登る前に明らかになったことは、彦岳、震岳も、古来より、厚い信仰を集めていた極めて由緒正しい霊山であることだった。だから「首引き」伝説は、今風に言えばこの三つの山をディスった物語ということになりはしないか。何故なら、彦岳と震岳を実際に登って崇高な気分に浸った私は「首引き」伝説を甚だ不謹慎な物語に感じてしまったからだ。と同時に、この物語は何かの風刺ではないのかと直感したのだった。もし、そうだとすれば、この物語が生まれた当時、この俗世的かつ凄惨な「首引き」は、庶民の間でバズりまくったに違いない。

後の調べで明らかになることだが、『山鹿市史』では約1ページを割いて、彦岳権現と震岳について『肥後国誌(昭和41年)』からの記載を引いて伝説の背景を考察している。それによると明応年間(1492年〜1501年)は高天山神主の吉田親政氏が震岳と彦岳の神主を兼帯する期間がある。また、震岳には三十六坊があって山伏が居た天正7年(1579年)に、この山伏を保護していた芋生氏が赤星氏の一族に破れて山伏が断絶するという波乱が起こっている。このような霊山を巡る対抗関係が伝説の背景にあると考察しているのだ。つまり、現代風に言えば、彦岳、震岳、不動岩の霊場としての利権争い、綱引きが、伝説の背景ではないかといことだ。伝説や昔話は、史実がもとになっていることが多いと言われている。だとすれば、「首引き」伝説は、史実と自然事象を掛け合わせた想像性豊かなユーモア溢れる傑出した作品として評価すべきなのかもしれない。

これ以外に、この1ヶ月間、ふつふつと湧き出してきた疑問があった。
それは旧村名ともなっている「三玉」だ。これは「首引き」伝説の出発点にもなっている。簡単におさらいすると、「首引き」伝説はこの「三玉」を巡る争いの物語だ。当初、伝説中の「三玉」とは、先に示した三つの山を暗示しているのではないのかと思ったが、それは余りにも乱暴な考え方だと思い撤回した。

三玉地区周辺には、この「首引き」伝説だけでなく様々な昔話や言い伝えがある。これまでお伝えしてきたように、これらの物語には全て現存している物象をモチーフとしている特徴がある。であるならば、「三玉」があってもおかしくはない。むしろ、あると考えるほうが自然なように思えるのだ。
「首引き」伝説の中で母神のモチーフとなっているのは、その昔、彦岳の山頂に祀られていたという姫竜神。そして、古来より竜神に描かれている口と両手に持った合計三つの玉がその「三玉」だと伝えている。つまり、「三玉」のモチーフを探すということは、竜神が所有する玉を探すということでもある。

下らないとは思いつつ、私は、自身の疑問解消に向けて自分自身を奮い立たせるため、そして、今後の調査をさらに楽しむために作戦名を必要としていた。
作戦名は「シン・ドラゴンボール」。略して「シンドラ」。この間抜け感、脱力感がたまらない。

《参考文献》
山鹿市史編纂室 「第三章 古代・中世」『山鹿市史 上巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.489-490
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』8.こもれび図書館

2022-10-11 21:17:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【こもれび図書館】
妻の趣味の一つは図書館通い。幅広く渉猟しているようだがお気に入りは時代小説だ。休みの日など、妻が借りた本の返却について行くこともあるが私は駐車場止まり。高校生のとき、自習を目的に真新しくできた図書館へ行ったことがあるのだが、そのとき見た圧倒的な書物の多さに文字酔いして吐いてしまったという苦い経験が私を図書館から遠ざけ続けていたのだと思う。そんな私が図書館に向かっている。しかも、仕事をほったらかしにして。

向かったのは山鹿市の中心部に平成26年に開館した「山鹿市民交流センターこもれび図書館」だ。空間を贅沢に利用した近代的な建物で、そこは無粋な作業着姿の中年男の進入をためらわせる優しい空気に満たされていた。自動ドアを抜けると消毒用のプッシュボトルを一押した。目の前の液晶モニターには緑色の文字で体温を示された中年の男が映し出されていた。この光景にも慣れてきたなと思いながら緩くカーブを描いた木製の階段をのぼった。
入り口の右手にカウンターがあり、新型コロナウィルス感染症の対策として、ややくたびれかかった飛沫防止のビニル幕が張られていた。

私はマスクとそのビニル越しに、採石所付近で以前「銅」が採掘されていたことが記載されている資料はないかと尋ねてみた。それと、この頃になって私の心を支配し始めていた、ある「謎」についても聞いてみた。すると、職員の女性が館内の奥に案内してくれた。そこは、「郷土資料コーナー」で、先ずはこちらで探されてみてはどうかということだった。最初に案内してくれた若い職員の女性にとって、私の質問はあまりにも唐突過ぎたのだろう、他の書棚からショートヘアに眼鏡をかけたスラリとした女性が助け舟とばかりに私の前に現れた。その眼鏡の女性は私の話しを真剣に受け止めている様子で頷いてくれ、書棚に向かうと、そこがあらかじめ目的地であったかのように数冊の書籍を取り出してくれた。この図書館のプロだと思った。

西側の大きなガラス窓に沿った閲覧席の机に座り、先ず、手にしたのは昭和60年に刊行された『山鹿市史』。上・下・別巻の三冊からなる合計2400ページを超える大著だ。採石所のHさん、そして先の地盤陥没の件で面会した地元の古老も、この『山鹿市史』を勧めてくれたのだった。もちろん、眼鏡の女性も。

その『山鹿市史』を前にして、どこから手をつけるべきか迷った。しかし、とにかくページをめくらなければ事は始まらない。近代以降の章にめぼしをつけてページをめくった。しかし、期待した情報を得ることはできなかった。いつの間にか日は低く傾きブラインドが降ろされ、気がつくと終業を知らせる音楽が館内に流れ始めていた。私はまだ目を通していない書籍を借りようと思いカウンターへ急いだ。
しかし、借りることができるのは山鹿市在住者か若しくは山鹿市内に通勤する人々に限定されていることを知るにいたって、私の落胆は相当のものとなった。とりあえず、眼鏡のKさんが勧めてくれた昭和61年に発行された『ふるさと山鹿』の「三玉校区」のコピーを頼んだ。その間、親身になってくれていたKさんは、私の疑問に対して興味を持ってくれたようで、再度、図書館の資料をあたってみると約束してくれたのだった。心強い味方ができたと思った。

《参考文献》
山鹿市立図書館webサイト『https://www.yamaga-lib.jp/』
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』〜7. 一ツ目神社〜

2022-10-10 15:31:00 | 三玉山霊仙寺の記録

【一ツ目神社】
不動岩の首が吹き飛んできた「首石岩」の近くには、通称「一ツ目神社」と呼ばれる神社がある。社記に書かれた伝承によれば、不動岩と彦岳権現の首引きの大綱の端が、この地で勝負の行方を案じていた母神の目に当たり一眼を失ったので、その母神を祀り「一ツ目神社」と呼ばれるようになったと言う。また、この神社の裏には、湧水量が毎分2tと言われる「一ツ目水源公園」があって、ここは「熊本水百選」にも選ばれている。いにしえの人々は、この清らかな湧水を見て実子を不意に失った母神の悲しみの涙を想起していたのかもしれない。

さて、この「一ツ目神社」、正式には「薄野神社」という名で、今から1500年程前の継体天皇四年(510年)11月4日に、高天山(震岳)で八神殿を祀ったとされる若山連(わかやまむらじ)の後裔の吉田氏が斎き祀ったとされる県内屈指の古社なのだ。そして、祭神は鍛冶の神とされる天目一箇神(あめのまひとつのかみ)だ。

私がこのことを知ったのは、参道沿いの桜が満開となっているうららかな春の午後だった。その日は、とある地区で発生した地盤の陥没事案の相談で山鹿市を訪れていて、そのついでに一目この神社を見ておこうと立ち寄っただけのことだったが、この事実には大きな衝撃を受けた。鍛冶の神から、すぐさま「砂鉄」が連想され、「たたら製鉄」、次いで名刀「同田貫(どうだぬき)」、そして順番が前後するが「菊池一族の繁栄(千本槍)」、さらに近代に至っての「軍都熊本」へと思考が一気に展開していったからだ。しかし、そういった妄想を膨らませる前に、もう一度冷静に考えるべきことがあるのではないかと自分に言い聞かせた。

「一ツ目神社」の近くには「変はんれい岩」を対象とした採石所がいくつかある。私は以前の仕事で他県の採石所の調査に携わった中で、採石所の始まりが有用鉱物の採取である事を経験的に知っていた。先ずは、そこをヒントに調べ直すべきではないのかと、そう思ったのだ。おりしも、先日は震岳の西側山麓で「滑石」が採掘されていた情報を得ていて、また、今いる「一ツ目神社」の目と鼻の先にある採石所は、数年前に採掘跡の残壁の安定性についての相談を受けていた所だ。聞きに行けばいい。

連絡も入れず採石所に行くと、幸運にも、当時、丁寧な物腰で対応してくれた女性経営者のHさんが事務所内でお一人だった。。Hさんは、私のことをよく憶えていてくれて、過日の一件について、あらためて丁寧なお礼の言葉を口にして下さった。にもかかわらず、急いていた私は挨拶もそこそこに、ここへ来た経緯を簡単に説明した。Hさんはここの二代目経営者で、先代は天草で採石を営みながら、ここでも「砕石や石材」として良質な岩石が採れることを見込んで開発を始めたとのことだった。残念ながら有用鉱物の採取がこちらの始まりではなかったが、Hさんは、私にとって極めて重要な情報を提供してくれた。先代から聞いた話しとして、この辺りではその昔「銅」が採掘されていたというのだ。

私は金属資源に目がない。前職の主な仕事は、国内外の非鉄金属資源の探査だった。故郷の熊本の資源についてもそれなりの知識を持っていると自負していた。確かに、地質的環境からみてこの地域に「銅鉱床」が形成されたとしても不思議はない。しかし、経済的価値を得るだけの品位と鉱量がなければ鉱山開発には至らないのだ。私はこの地域で行われていたとされる銅採掘については全く知らなかった。

私は四駆の軽自動車に乗り込みキーを差し込んだ。このまま、会社へ戻るか、それとも図書館へ向かうか。エンジンを始動させ、ギアをローに入れるとクラッチをつないだ。車が向かった先は図書館だった。Hさんの話しを確かめる必要があった。Hさんは、図書館に行けば何かわかるかもしれないと言っていた。


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賀茂はカミなのか!?

2021-12-31 22:36:29 | 三玉山霊仙寺の記録
今日は、上賀茂神社と下賀茂神社を参拝。
神武天皇の東征の際、先導した八咫烏、つまり賀茂武角命にまつわる神社で山城国(京都)最古の神社と言っていいだろう。

賀茂一族は、これらの神社を奉斎しながらヤマト政権の技術的側面を支え担った一族で、それが現在まで引き継がれていることを知る人は少ない。

賀茂は、カモ→カム→カミに通じる言葉だ。

賀茂、鴨という地名は全国津々浦々に認めることができる。そして、その一部は古くから伝わる金属鉱山に関連している。

古代において鉱山開発や製錬技術は神業(カミワザ)であり、一種の妖術、奇術的な側面を持ち合わせていたのかもしれない。

「製鉄」技術は、現在でも重要なことに変わりないが、古代においては先端テクノロジー。言わば素材技術の基盤。

このような技術の上に現代都市は築かれている。

走り初めは、皇居ラン。

歴史と先端テックが交錯するみちだ。

良いお年を。




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ナゼ纏向なのか

2021-12-30 22:14:27 | 三玉山霊仙寺の記録
昔から教科書は疑問に答えてくれないものだ。だから、納得いく答えは自分で見つけるしかない。

奈良県の纏向は、ヤマト政権の発祥の有力候補地とされている。なぜ、ヤマト政権は纏向を選んだのか。

今日は、百舌鳥古墳群、古市古墳群を見て回ったあと、大神神社を参詣し、三輪山を登拝。そして歴史街道、山の辺のみちを歩き箸墓古墳、最後に景行天皇陵にて礼拝。

大神神社は、原初の神祀りの様を残す最古の神社。
御神体の三輪山の磐座に神がお鎮まりになられている。

三輪山の地質は、「はんれい岩」だ。

そして、山の辺のみちの水路で見つけてしまった。

水酸化鉄のバイオマット!

纏向に東征してきた神武天皇の一行は、この赤水に神威を見出したのかもしれない。

これから、さらに勉強が必要なのだけれど、古代の「製鉄原料」は褐鉄で、バイオマットもその一つであった可能性がある。

鉄の原料となる水が湧く霊地。

纏向を選んだ一つの理由かもしれない。








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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』《番外編 歴史にみる「滑石(かっせき)」》

2021-12-29 09:01:55 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』《番外編 歴史にみる「滑石(かっせき)」》

法花寺地区で採取される「滑石」は、歴史的な側面から見た場合、どのような意味を持つのか考えてみました。

「滑石(かっせき)」と「ワクド石遺跡」
菊池郡大津町杉水に「ワクド石遺跡」と呼ばれる縄文後期~晩期(約3千年前)の大規模な住居址遺跡があります。この遺跡からは土器のほか勾玉(まがたま)、土偶、石包丁、石鍋等が出土してますが、そのなかに籾(もみ)の圧痕がついた土器片が発見されています。この発見は当時の考古学会に稲作の渡来の時期に疑問を投げかけ、そのことで耳目を集めた遺跡として知られています。

この遺跡の調査報告書を読んで思わず小踊りしてしまった部分があります。それは出土した勾玉(まがたま)の玉材(材料)について分析した結果、ヒスイの他に蛇紋岩の岩脈に随伴して産出したと推定される「滑石」が見い出されたという記載があったからです。
「滑石」はその加工のしやすさから現在も彫刻の材料として広く使われていますが、3千年も前の昔から装飾の材料として使われていたのです。報告書では、その「滑石」の産地については特定できずに課題を残したままとなっています。しかし、その「滑石」の産地は、先に紹介した山鹿市北方に位置する法花寺鉱床や平山鉱床と考えられます。

これらの鉱床は、ワクド石遺跡から北東に僅か20数キロで歩いて日帰りできる距離にあり、当時あった「茂賀の浦」を舟で渡れば目と鼻の先の関係です。狩猟採取を生業にしていた縄文人の探索能力をもってすれば、「滑石」のありかなど造作なく見つけることができたのではないでしょうか。
このように山鹿地域の滑石鉱床には、数千年におよぶ古い歴史があると考えられます。

「滑石(かっせき)」と「凡導寺の経筒(ぼんどうじのきょうづつ)」
平安時代の末期の1050年代は釈迦入滅後の2千年を経た末法(まっぽう)の世になり、破壊や天変地異が相次ぐ時代になるといった末法思想が国中に広がりました。こうした末法思想を背景に、現世の不安から逃れるとともに来世での極楽往生を求めて浄土教が流行しました。
そして、人々が救いを求めてを託したのは、阿弥陀仏の造立供養のほかに、書写した経典を、その願いが56億7千万年後の弥勒出生のときに受け容れられるように地に埋める「埋経(まいきょう)」でした。「埋経」には、瓦に経を刻み込む瓦経や、写経を入れる経筒(きょうづつ)がありました。経筒には弥勒信仰を勧める法華経(妙法蓮華経)の写経が入れられたとされています。

明治四十年(1907年)二月のことです。「凡導寺の経筒」が不動岩の西麓にある金比羅神社境内の土の中から偶然に発見されました。表面に刻まれた文字からは、久安元年(1145年)に僧慶有が弥勒下生にあうことを念願して埋経したことがうかがわれます。現在、この経筒は県の考古資料として指定され、山鹿市立博物館で保管されています。そして、その経筒は「滑石」製であるとされています。

この経筒のもととなった滑石も先に紹介した法花寺鉱床から産出したものではないでしょうか。鉱床の名前と同様にその滑石が採れる集落の名は法花寺(ほっけじ)です。集落の奥には古寺の法華寺がひっそりと残っています。近年、集落の人達によって修復されたお堂には、金色に塗られた千手観音立像がご本尊として手厚く祀られています。
信仰の対象となった法華経にちなんだ地名が千年を経た現在にまで引き継がれ、さらに、この地から採れた岩石で「埋経」が行われていたかもしれない。このことを知ると、歴史の深さとともに、地続きとなっている永い時間の流れにロマンを感じずにはいられません。
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』〜6.法花寺集落と法花寺鉱床

2021-12-25 18:49:21 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

〜6.法花寺集落と法花寺鉱床〜

「ろう石」が採れる法花寺集落は震岳の西側山麓に位置するが、東側の正面は岩野川、南北は震岳の稜線から伸びる尾根によって囲まれていている。まるで小さな砦のようだ。人を寄せ付けまいとするかのような地形が、修行者に良好な環境を提供していたのであろう。集落の一番奥には法華寺があり、本堂には金箔の千手観音立像が奉られていている。また、境内には年代が判明している石塔塔身としては山鹿市内最古級の健保三年(1215)のものがあるほか、多くの石造物が往時の繁栄を偲ばせてくれる。本堂を背にして振り向けば、真正面には馴染みの形とは違った彦岳を見ることができる。やや丸みを帯びた山頂から続く斜面は左右対照の末広がりとなっていて、その流麗な姿に「シン・山鹿小富士」と別名を与えたくなるほどだ(笑)。

知人のNさんは、若い頃、このうら寂しい集落が好きではなかったそうだが、次第に愛着が湧いてきて、近年になって週末は必ず実家に戻り、受け継いだ土地を守ることを目的としながら山の手入れや農作業を満喫しているのだ。そうした活動のなかで、先代が採掘していたという「ろう石」を鬱蒼とした竹山の中から拾い集めてきたのだった。

一般に、「ろう石」とは印材、彫刻材、耐火物、窯業原料や農薬などに利用される蝋のような光沢と触感のある鉱物や岩石の総称として使われる言葉で、Nさんが見せてくれた岩石は、まさしく「ろう石」そのものだった。ただ、「ろう石」には、その岩石を構成する主要な鉱物に違いがあり、岩石の雰囲気や地域の地質学的な特性から、その岩石に含まれる主要な鉱物は「滑石」(かっせき)ではないのかと私は判断したのだった。

ジェノベーゼソースのピザは、大変、美味だった。しかし、私の心は「ろう石」が採れる所に早く行きたいという気持ちが高まっていくばかりだった。Nさんは、自分の仕事をとめて、予定より遅れて帰ってきた私のために、わざわざ窯の火入れから始めてピザを焼いてくれていた。午後からは自身の予定もあったはず。しかし、私は無理を承知で案内をお願いしたのだった。

案内された先は、そこから徒歩で10分弱の林道から脇にそれた急斜面の上だった。斜面を登り切ったそこは200坪くらいの平地になっていて、Nさんがタケノコ栽培の用地として数年を費やして整頓した場所だった。そこはもともと緩い斜面に手を加えて造成された土地であるとは言え、その平坦面はあまりにも不自然だった。小規模な採掘場跡、もしくは採掘した岩石の選鉱場跡ではないかと思われた。地面には大小の「ろう石」が転がっていた。私はタケノコ探しもそっちのけで雑木や竹林が茂った方へ踏み入った。残念ながら「ろう石」の鉱脈を見つけることはできなかった。また、この「ろう石」に含まれる鉱物が「滑石」であることのひとつの証左となる「蛇紋岩(じゃもんがん)」の露岩も見つけることはできなかった。かわりに、Nさんの助言もあり、タケノコはいくつか見つけることができた。

帰宅して早速、「山鹿 滑石」で検索してみた。なんと「熊本県山鹿市北方一帯の滑石鉱床調査報告」というタイトルの論文を一発でヒット。アドレナリンが体内を駆け巡った。

その論文は、現在の産業技術総合研究所地質調査総合センターが昭和30年(1955)に調査を実施し、翌々年の昭和32年(1957)に地質調査月報に掲載されもので、そこには法花寺鉱床として紹介されていた。そして、滑石鉱床については「蛇紋岩」と「石英石墨片岩(結晶片岩類)」の境界に幅数10cmの鉱脈として4箇所で確認されたと報告していた。また、法花寺鉱床の鉱量は2000tが見積もられており、採掘の背景には農薬原料として需要の高まりを上げていたのだった。

夕食後、Nさんに連絡を入れると大変な喜びの様子であった。私はNさんから頂いた新鮮な芋と筍は大変美味だったことと、近々、不動岩に登る旨を伝えた。そして、最後に、震岳の頂上で採取してきた「変はんれい岩」の岩石サンプルを庭先にわすれてきたことを伝えたのだった。

つづく

参考文献
清原清人「熊本県山鹿市北方一帯の滑石鉱床調査報告」『地質調査所月報』第8巻 第7号 p.43-48 昭和30年7月調査
山鹿市史編纂室 『山鹿市史 別巻』 山鹿市 昭和60年3月


石塔

法花寺集落から見える彦岳
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』〜5.震岳での戦いとピザ窯〜

2021-12-19 17:21:00 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

〜5.震岳での戦いとピザ窯〜

残念ながら、震岳の山頂から眺望を得ることはできなかった。しかし、震岳は霊山であり、地元の人達は昭和の頃までは初詣をしていたとのこと。初日の出や素晴らしい眺望を前にして新年の始まりを祝っていたのだ。震岳は、菊池盆地を囲む北縁の山として最も標高が高く、地元の誇りでもあったはずだ。

景行天皇が九州討伐に際して、ここに行宮を営んだのは当然だろう。何故なら、眼下の山鹿市の市街となっている方保田地区をはじめとする台地上には、その昔から集落が形成されており、震岳はこれらを一望できる要衝になったからだ。邪馬台国の所在については諸説あるのだが、この菊池平野は、近年、景行天皇の先代が築いた邪馬台国と対峙した狗奴国であったのではないかと指摘されている。もし、そうであったとすれば、そのことを先代からの伝えとして知っていた景行天皇は、この景色を感慨深く眺めたのかもしれない。

景行天皇は数年に及ぶ九州討伐の終盤に、現在の玉名方面から菊池川を遡ってこの地にやって来たことが伝えられている。このとき、「茂賀の浦」の濃い霧にはばまれた天皇の軍勢を村人が松明を掲げて好意的に出迎えたことが「山鹿灯籠」の起源の一つとされている。

景行天皇は、震岳の頂上から「茂賀の浦」の水面の輝きと、遠望される九州山地を見つめて、これまでの討伐の日々を振り返ると同時に、最後の聖地奪還の行軍に向けて決意を固めたに違いない。ただ、終盤の戦いも順風満帆とは言えず、宇土の木原山(雁回山)からは津頬の逆襲によって退却を余儀なくされ、高天山に籠城しなければならなかった。伝えによれば、天皇の祈りによって彦岳から届いた霊光が勝利の謂れとなっている。しかし、震岳の地形に着目すると、南北に伸びる稜線を挟んだ斜面は、標高が増すほど傾斜がきつくなり、自然が作り出した「武者返し」になっている。また、山頂付近には、硬質であるものの適度に亀裂があってハンドリングしやすい「変はんれい岩」が豊富にあり、それらは現在の弾薬・ミサイルに替わる「投石」や「石落とし」に転用できる軍事物資になったはずだ。景行天皇は行宮を造営した当初から、戦局を決するための作戦は「籠城」と考えており、あえて敵を震岳におびきだして大勝を収めたのではないだろうか。

景行天皇の九州討伐は、一般には九州巡幸と呼ばれていて、各地に様々な戦いの伝説や地名の説話が残っている。近年、この行軍は、大陸からの侵略に備えた大和政権の九州支配強化の一環と考えられているが、戦いの伝説は軍事記録的な意味合いのほか、戦術秘匿の役割も担っていたのではないかと考えるのは穿ちすぎだろうか。

一方で、各地に残る戦いの伝説からは、景行天皇には類い稀な戦闘センスが備わっていたことが窺われる。しかし、さすがの景行天皇も、震岳で勝利を呼んだ「変はんれい岩」が、なぜ山頂にだけ存在するのか理解に苦しんだのではなかろうか。そして、山頂にある岩石と同じ「変はんれい岩」で出来ている隣に鎮座した彦岳に対して霊的な力を感じ、厚い神恩を抱いて彦岳に神宮を造立したのではないどろうか。いささか想像が膨らみ過ぎたが、地質屋の視点で震岳の伝説を紐解くと、このような物語が見えてくるのだ。

さて、出発地のNさん宅に戻ったのは、予定よりだいぶ遅れた正午の遅い時間だった。Nさんは既に昼食を済ませ、午後の作業に取りかかっていた。畑に行って自分の戻りを告げると一つ歳上のNさんは、私の帰りを待ってくれていたようで、革手袋を外しながら労いの言葉をかけてくれた。そして、私は山で拾ってきた岩石を示しながら、見てきたことや感じてきたことを興奮気味に話した。

一息着いたところで、Nさんがピザを焼いてくれると言う。庭先にはピザ窯があった。それは週末に実家へ通いながら3ヶ月を要した自慢の傑作で、窯の黒い鉄扉は温度計まで設えた特注品だった。しかし、窯そのものは自然石のようなランダムな形の岩石で組まれていたのが不思議だった。

一般には、DIYで作る窯には既製の耐火レンガなどが使われる。しかしNさんから話を聞くと、この岩石は、代々引き継いできた先祖の土地からでてきたものとのこと。先代はこの「ろう石」を生活の糧の一つとして商売にしていたというのだ。私は驚いて、ピザ窯の材料として余っていた「ろう石」を手に取り観察した。岩石の破断面の新鮮なところは青灰色を基調としながら全体には油脂状の光沢が特徴的で、手触りは極めて滑らかだった。手元にあった車の鍵で岩石の表面を引っ掻くと表面には簡単に傷ができた。私はこの「ろう石」に含まれる鉱物を「滑石」と同定したのだった。

つづく

参考文献
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
川村哲夫『九州を制覇した大王ー景行天皇巡幸記』海鳥社 2006年
安本美典「邪馬台国学」『遺跡からのメッセージ古代上編 熊本歴史叢書1』熊日出版 平成15年

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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』《番外編「阿蘇火砕流」と「溶結凝灰岩」》

2021-12-15 20:58:18 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

《番外編「阿蘇火砕流」と「溶結凝灰岩」》

「きつねの道送り」で竹七爺さんが観音様を彫り込んだといわれる「阿蘇火砕流」の「溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)」って一体なんなんでしょうか。ひょっとすると、読者皆さんのこれからの人生に深く関わることになるかもしれません。

「阿蘇火砕流」
阿蘇火砕流の噴火は約27万年前に始り、約9万年前の間に4回の大規模な活動ありました。これらの大噴火と噴出物は古い方からAso-1、Aso-2、Aso-3、Aso-4と呼ばれていますが、このうち最後に起こった約9万年前のAso-4が最も規模が大きく、このときの火砕流は、阿蘇火山の周囲に広い台地を作り、さらに谷沿いを下り九州の東・北・西の海岸に到達すると、一部は海を流走して天草下島や山口県の秋吉台にまで達しました。噴出したマグマの総量は瀬戸内海を完全に埋め尽くすのに十分な量であったとされます。想像を絶する超巨大噴火です。
 
熊本県内では、これらの火砕流堆積物は「溶結凝灰岩」としていたるところで観察され、高千穂峡では100m近く堆積しています。

さて、日本では、九州のほぼ全域を壊滅させてしまうような、噴出量が100km3に近いかそれ以上の超巨大噴火は、過去12万年の間に9回起こったとされています。噴出量が30km3以上の「破局噴火」を加えると17回となり、7000年に1回の割合となります。日本列島最後の巨大噴火は7300年前の鬼界カルデラの噴火ですので、日本列島では破局噴火が、いつ起こってもおかしくない状況にあると言えます。また、Aso-4クラスの超巨大噴火が現在の九州で起きた場合、直接の犠牲者は一千万人を超えるとされ、国民のほとんどを占める1億人は困窮状態に陥ると想定されています。破局噴火クラスでさえ直接の犠牲者は数十万~数百万人に達すると考えられています。

なお、7300年前の鬼界カルデラの噴火は、鹿児島県の薩摩半島の南75kmの洋上で起こったものですが、この噴火による火砕流や津波で、当時、南九州で成熟していた縄文文化は完全に途絶えてしまいました。

私たち日本人がその後巨大噴火に遭遇していないのは単なる幸運に過ぎないのです。


「溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)」
阿蘇火砕流のような噴火は、文明を簡単に消し去るすることのできるエネルギーを持っています。一般に、火砕流は、軽石や火山灰などの高温のガラス質の破片の粉体流を指すのですが、堆積したときの内部の温度が十分に高い(700°以上)とガラス質は互いに融合して自重によって圧密され、冷却すると緻密な岩石になります。こうした現象を「溶結(ようけつ)」とよび、できた岩石を溶結凝灰岩と言います。ただし、堆積した時の温度の違いによって溶結の程度には幅があり、ハンマーの強い打撃でも割れない高溶結のものから、スコップで簡単に掘れるようなものまで様々です。また、比較的に硬い溶結凝灰岩は、冷却時にできた縦亀裂(柱状節理)が発達する特徴があります。

阿蘇の巨大噴火でできた溶結凝灰岩は、石材の俗称として「灰石」と呼ばれます。特に中程度に溶結したものが、その細工のしやすさから古代から広く利用されています。県内各地には、古くから灰石を活用した例が数多くあり、古墳時代には石棺として、その後も石垣・石堀・石段・土台石・石橋・鳥居・石塔・石灯籠・石風呂など様々です。
ことに5世紀の古墳時代には阿蘇の灰石製石棺は、地元はもとより、遠く大阪府藤井寺市の唐櫃山古墳や長持山古墳でも見つかっており、推古天皇陵と考えられる古墳からも発見されています。

このように、阿蘇の「溶結凝灰岩」は文明を破壊するほどのエネルギーを持って生成された後は、文明を創造するための重要なマテリアルとなったのです。阿蘇火山は古代から篤い信仰の対象となっていました。ひょっとすると、古代人は「灰石」のできかたに想いを馳せながら、その巨大なエネルギーの神秘性に惹かれて石棺を作ったのではないでしょうか。
当時の大王やヤマト政権の中枢にあった高官にとって、その死後に彼らの始祖である神武天皇の故地にちなんだ阿蘇の石棺に入ることは一種のステータスで、先祖の元へ帰るといった懐郷の意味もあったのかもしれません。
ひるがえって現代においては、この「灰石」で作った骨壺を販売したら古代マニアにウケるかもしれませんね(笑)。

参考文献
渡辺一徳 『阿蘇火山の生い立ち』一の宮町史 自然と文化 阿蘇選書⑦ 一の宮町史編纂委員会 一の宮町 平成13年(2001年)
阿蘇ぺディアhttp://www.aso-dm.net/?%E7%81%B0%E7%9F%B3
巽好幸 『富士山大噴火と阿蘇山大爆発』幻冬社新書 2016年
高橋正樹 『破局噴火ー秒読みに入った人類壊滅の日ー』祥伝社新書 2008年
鎌田浩毅 『マグマの地球科学』中公新書 2008年
『阿蘇の灰石展』熊本県立装飾古墳館 平成18年

現在も残るAso-4火砕流の分布範囲を示しています。

巨大噴火が起こった場所と時期、規模を示しています。
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』 4.震岳

2021-12-12 10:09:22 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

4.〜震岳(1)〜
震岳(ゆるぎだけ)にまつわる言い伝えや昔話はいくつかある。そのうち2つは「まんが日本昔ばなし」にも取り上げられていて、どちらの物語にも「岩」が登場する。

その昔、村人が買い物に出た帰り道に食べ物を盗む狐がいて、これに怒った村人が毒団子で狐の親子を殺してしまう。それに一人反対していた石切職人の竹七爺さんは、とむらいとして石切場に見事な観音様を彫んで村から姿を消した。これは「きつねの道送り」という話しだ。竹七爺さんが彫った観音様は、小坂地区の震岳の北側の阿蘇火砕流によってできた「溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)」の石切場跡に磨崖仏として見ることができる(画像参照)

もう一つは、上吉田地区の震岳の南側の集落に伝わる「鬼の足かた」だ。その昔、洪水被害や鬼の狼藉に困っていた村に、太一という賢く勇敢な少年がいた。ある日のこと彼は山で鬼に捕まってしまう。太一は震岳が崩れやすいことを知っており、そこで鬼のプライドをくすぐって震岳の頂上から飛び降りさせることを思いつく。鬼は飛び降りる際、がけ崩れもろともバランスを失って、着地したところに転がってきた大岩で重症を負って山奥に逃げ帰ったという話しだ。そして、その「結晶片岩(けっしょうへんがん)」の大岩には今でも足かたが残っていて、その大岩は氾濫しやすい川の流れを受けとめていたと言われている(画像参照)。

さらにもう一つ。震岳の頂上付近には、景行天皇が刀を研いだと言われる「砥石が鼻」がある。これは、「変はんれい岩」だ(画像参照)。

震岳の登山に先立っては下見が必要だった。地形図には山頂への4ルートが「徒歩道」として記載されているが、そのような道は人の手が入らなければ、高温多湿の九州の低山では、植生によってまたたく間に人を寄せ付けない廃道になる。
実のところ、私は景行天皇を気取って北側の熊野座神社から尾根沿いルートで登りたかったのだが、入山できそうな箇所は見当たらなかったため、別の日にようやく見つけ出した南側の寺島集落から登ることにしていた。

出発地は震岳の西麓の法花寺(ほっけじ)集落とした。 PTA役員時代にお世話になったNさんの実家宅があることを以前から知っていて機会があれば遊びにいきたいと思っていたのだ。
Nさんは、昨秋、集落の人達と頂上を目指したとのことだったが、倒木やがけ崩れなどの急勾配で撤退していた。そういうことや出発時の小雨も相まって私を見送るNさんの顔には心配の二文字が浮かんでいた。しかも、彦岳と震岳をいっぺんに登ってくるという計画には、半ば呆れている様子だった。
 
ザックにはレインウェアのほかテーピング、サバイバルシートなどの安全グッズや1リットルの水分、補給食。それとミラーレス一眼カメラとノコギリ。スマホに予備のコンパス、地図類、ヘッドランプ。フル装備だ。走るには重いが、春先とは言え荒廃が予想される山を舐めてはいけない。雨も侮れない。

地形図には記載されていない建設まもない砂防ダムの横を通り抜けるとそこから登山道が始まる。沢沿いの登山道は、予想通り土石流や崖崩れでたまった角礫だらけだ。ただ、角礫はどれも似たような色と形で、震岳がまぎれもなく「結晶片岩(けっしょうへんがん)」であることを教えてくれる。その黒灰色の角礫は直方体に近い形をして周縁部の縞模様が特徴的だ。まるで分厚い辞書のように見える四角いものまである。

いよいよ本格的な登りにさしかかるが、細い幹に巻かれてある古い赤テープの目印だけが登山道であることをどうにか教えてくれる程度で、見通しは極めて悪く倒木も多い。倒木は山火事になれば優れた燃料になるだけでなく、倒木跡のえぐれがさらに拡大して大きな崖崩れに発展する。余計なことをいちいち想像してしまう。職業病だ。

しかし、右手にはノコギリ、日頃の鬱憤ばらしとばかりに藪を切り開きながら探検気分を十分に味わって登頂することができた。頂上付近には「変はんれい岩」の不安定で今にも転げ落ちそうな大岩がたくさんあった。そして尾根沿いには古道が残り、頂上の近くには草庵跡と思われるような平場があった。瓦片の散乱も目にした。その昔は頻繁に人の往来があったことがうかがわれた。

そして、頂上には景行天皇が最初に祀ったとされ、明治の頃に再建された「ハ神殿」の石祠があった(画像参照)。

つづく

参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「狐の道おくり」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.796-798
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「きつねの道おくり」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「おにの足かた」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年


溶結凝灰岩に彫られた観音様 磨崖仏

鬼の足かたが残る結晶片岩

砥石が鼻 景行天皇が刀を研いだといわれる変はんれい岩

震岳頂上にある八神殿

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『三玉山霊仙寺を巡る冒険』〜3. 彦岳〜

2021-12-04 11:43:22 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

3.〜彦岳〜

彦岳には古い歴史を持つ彦嶽宮がある。上宮・中宮・下宮の三社を一つの神宮として創建され、語り継がれきた由緒は以下のようになっている。

第十二代景行天皇の時代のこと、日向の国の熊津彦が謀反を起こしたので、天皇は御軍を率いて九州に上陸し、高天山(震岳)に行宮を営まれた。熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)とともに兵を進めて夜中に天皇を襲った。天皇が行宮にて諸神にお祈りを捧げると彦岳から霊光が発せられ、高天山は大いに振動して、木は倒れ大岩が転がり賊徒はたちまち敗走して天皇が大勝を収めになった。そして、天皇はこの神恩に感謝して彦岳三所に神宮を造立され、一方、高天山には「八神殿」をお祀りになったと伝えられている。
 
彦嶽宮の下宮は彦岳の麓にあり、市道から始まる石段の両脇には樹齢数100年は越えるであろう大木がそびえ、その奥には約200年前に再建された楼門がある。そこをくぐり抜けると開けた境内の奥に寛文11年(1671年)に再建された本殿があって、安全を祈願すると、さあ登山の始まりだ。

麓の下宮から頂上の上宮へは、徒歩で登る参道としての登山道と車道の二つがある。登山道は本殿の横から伸びた頂上付近までほぼ一直線状の未舗装路だ。登り口付近の地盤は比較的に柔らかく、その昔、多くの山伏や参詣者の踏圧によって次第に掘り込みが深くなっていったのであろう。溝状に切り立った登山道の両面には、橙色の粘土とともに雑多な大きさの角礫が混ざった不均一な未固結の土砂が観察される。地質屋は、それらが山腹の崖崩れや地すべりによってもたらされたものと推定し、緩い斜面でありながらも土砂災害のリスクのある山なのだろうと思索しながら足を進めることになる。実際、彦岳では昨年の7月豪雨で規模の大きい土砂災害が発生して頂上へ至る車道は一時期通行不能となっていたようなのだ。

登山口から数分が経過し、心拍数が少し上昇したかなと感じた頃、脚はしっかりと硬い岩盤を踏み始めている。そして、その岩には無数の細かい縞模様があり、一部はその模様に沿って剥がれやすいことに気がつく。「結晶片岩(けっしょうへんがん)」だ。2億年前、地下深部の高温・高圧の条件下で砂岩や泥岩の堆積岩が変化したものだ。彦岳の山体の根っこの部分はこの「結晶片岩」が広がっているのだ。さらに歩を進めると、登山道は勢い傾斜を増し、露出している岩の雰囲気の変化に気がつくことができる。「変はんれい岩」のゾーンに入ったのだ。ゴツゴツとした硬い岩肌が登山道に連続して露わになって、場所によっては規則的な縦横の亀裂が走っている。まるで地層の積み重なりでできたような水平に近い縞模様となった細かい無数の亀裂もある。断層の一部かもしれない。いずれにしろ、これらは「変はんれい岩」に違いなく、つまり、今、私は3〜5億年前の海洋プレートの真っ只中に立っているのだ。
 
6合目付近の中宮付近では思った以上の険しさに驚くが、そこを過ぎるとやがて傾斜は落ち着きを見せる。周りから岩が姿を消す反面、足元の土が赤みを増す。この原因は、「変はんれい岩」の鉄分を含んだ鉱物が、分解・酸化によって微細な水酸化鉄鉱物(サビ)に変化したからだ。硬い岩盤も数万年という長い年月を経ると、地表面から数mは風化によって土砂化して、崖崩れの厄介な原因物質になる。数万年後には、この山頂付近のなだらか斜面も、そして植生も、今とは全く違うものになっているはずだ。

頂上には展望台が開けている。眼下の山鹿市街地のほか、遠望すると金峰山や有明海も見える。左手には次に登る震岳(ゆるぎだけ)が間近にある。踵を返し上宮の拝殿の前に立って手を合わせる。

「震岳に登って参ります、お守りください!」

つづく。

参考文献
彦嶽宮リーフレット
彦嶽宮webサイト 『https://hikotakegu.localinfo.jp/』
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
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鞠智城シンポジムに参加

2021-11-29 21:18:39 | 三玉山霊仙寺の記録
昨日は、熊本県と熊本県教育委員会が主催の《古代の「辺要」支配と肥後・鞠智城》と題したシンポジムに参加。

会場のパレアホールは、聴衆200名は超えるであろう盛況ぶりで満席。自分が着席した後、空いていた隣りの席にスタッフさんに案内されて座ったのは、ナント、私が勝手に師と仰いでいるN先生だった。N先生は『太湖の湖「茂賀の浦」と「狗奴国」菊池』の著者。

先生は、菊池市在住の剣道六段の元小学校教諭で、昭和五十年代の約半年間、熊本大学教育学部地学教室に研究生として在籍して、教材開発の基礎資料を得るために、菊池盆地をとりまく第四紀地質を中心に野外調査を行った人物。

書籍ではその研究成果が記載されているとともに、その結果を元に菊池盆地にかつて「茂賀の浦」と呼ばれた湖が存在したことを地質学的に明らかにし、そして、その湖の範囲が、縄文時代から弥生時代にかけて縮小するという変遷の姿を、各時代の遺跡の分布と地形を照らし合わせて示したのだった。さらに、菊池盆地には5世紀以降、おびただしい数の神社が創建されているが、祭神の種類や創建年代と造立地点の標高及び地形的な関連から、中世以降の「茂賀の浦」の水位低下を示すとともに地名との関連も指摘。しかし、本書の真骨頂は、上記のことを踏まえた上で、「菊池」の語源は水が引いた自然地形(その状態をククチ)を表すものではないかと指摘するとともに、邪馬台国と対峙した狗奴国は、米作りに適した大地と多量の鉄器類を背景に力を付けた菊池盆地一帯の土豪勢力と考察した点だ。

実は、N先生とは、「三玉山霊仙寺を巡る冒険」の中で出逢い、私は絶大な影響を受けていた。シンポジムで再会できればいいなと淡い期待を寄せていたが、まさかまさかの隣席になるとは!

「奇遇ですな」

先生は洒落た帽子をとりながら私に挨拶してくれた。ジオ・ドラマの感想も頂戴できた。

さて、本題のシンポジム。期待していたのは、兵庫県立考古博物館館長の和田晴吾氏が報告した「ヤマト王権と九州の古墳文化」。

シンポジムが終わったあと、ロビーにいた和田館長に思いきって質問してみた。

“古墳”については、話が長くなるのでまたの機会に。

そんな事よりも、、、
帰りに寄った古本屋で購入した本を何処かに忘れてきてしまったことに、喝っ!

でも、今日、見つかったのは運が良かった!
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『三玉山霊仙寺を巡る冒険〜2.彦岳、震岳(ゆるぎだけ)、不動岩、それぞれを形づくる岩石〜』

2021-11-27 18:01:16 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

〜2.彦岳、震岳(ゆるぎだけ)、不動岩、それぞれを形づくる岩石〜

前節は、山鹿市三玉地区の山や土の特徴を見事に捉えた不動岩の首引き伝説を紹介した。物語に出てくる彦岳、震岳、不動岩は互いに隣接しながら全く異なる山容であることが、古くから地域の人々の心を惹きつけ、その結果として、この伝説が色褪せることなく現代まで語り継がれてきたのだと思う。

言うまでもなく、我々が暮らすこの大地の殆んどは、地表を覆っている表土を取り除けば、その下には堅牢な岩石の世界が広がっている。そして、その岩石の世界は、そのでき方によって大きく三つに分けられている。ひとつはマグマが固まってできた「火成岩(かせいがん)」。ひとつは礫・砂・泥、火山灰や生物遺骸などが、海底・湖底などの水底または地表に堆積して固まった「堆積岩(たいせきがん)」。そして、最後のひとつが火成岩や堆積岩が地下の深いところで強い圧力や高温の熱の影響を受けてできた「変成岩(へんせいがん)」だ。

奇しくも、彦岳、震岳、不動岩の三者は、それぞれ異なる三つの岩石からできていて、それが特徴的な形となって我々の眼前にその姿を現しているのだ。

彦岳は広義では変成岩に分類されるが、元の岩は3〜5億年前のマグマ活動のうち地下の深いところでゆっくり冷えて固まった「はんれい岩」と呼ばれるもので、海洋プレートの一部であったと考えることができる。そして、それが数億年という気の遠くなるような年月経て大陸プレートに接近して潜り込み、地表から数10kmという地下深部の高温、高圧のもとで「変はんれい岩」になったものだ。このとき地下深部に潜り込んだのは海洋プレートだけではない。大陸プレートと海洋プレートがぶつかり合う海溝やトラフと呼ばれる凹地では、陸側から運ばれてきた砂や泥が堆積して堆積岩が作られ、これらの一部は海洋プレートもろともに地下深部にまで引きづりこまれる。そして、引きづりこまれた堆積岩は高温、高圧のもとで「結晶片岩(けっしょうへんがん)」という変成岩に変わる。震岳の山体は、まさに、この「結晶片岩」から形成されていて、その変成年代は約2億年前とされている。

さらに悠久の時の流れの中、次は隆起という地殻変動によって、地下深部にあったものが地表へ顔を出すのが1億年前頃と考えられるのだが、その隆起の過程で、にわかには信じられないような大事変が起こっているのだ。それは時代的に古く地層の順番としては下にあるはずの「変はんれい岩」が、「結晶片岩」を乗り越えて数10kmも移動してきているというのだから驚きだ。いや、「結晶片岩」が「変はんれい岩」に潜り込んだと言ったほうが理解しやすいかもしれない。いずれにしろ、このときの大規模な地層のズレは、ほぼ水平と言えるような極めてゆるく傾斜した断層(衝上断層)として現れていて、あたかも「結晶片岩」の上に「変はんれい岩」が乗っかっているようなのだ。震岳の山頂付近の凹んだ僅かな範囲は、実は、「変はんれい岩」なのだ。

そして、こうした地殻変動を伴って陸地化した8千万年前頃の地表では、活発な火山活動が起こっていた可能性が高く、大地の上では恐竜たちが闊歩していたに違いない。この頃、内陸には大河や湖沼も形成されていたと考えられ、陸域に近い浅海で堆積して固まったものの一部が不動岩を形成している「礫岩(れきがん)」なのだ。さらに時は流れ、隆起・沈降を繰り返し、また、気候変動による風雪や乾燥、豪雨を受けて現在のような地形が作られたのだ。

ややこしい話しになって申し訳ないのだが、上述したように、彦岳、震岳、不動岩を形作る岩石は、私達の想像を絶する時の流れの中で作られた産物なのだ。次回は、実際にこの山々に登った感想を交えながら、彦岳と震岳にまつわる物語を紹介したいと思う。

《参考文献》
熊本県地質図編纂委員会『熊本県地質図(10万分の1)』一般社団法人熊本県地質調査業協会 平成20年
島田一哉、宮川英樹、一瀬めぐみ「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌』120 p.9-18 1999年
西村祐二郎、柴田賢「”三郡変成帯”の変斑れい岩質岩石の産状とK-At年代」『地質学論集』第33号 p.343-357 1989年
石塚英男 鈴木里子 「オフィオライト変成作用と海洋底変成作用」『地学雑誌』104 p.350-360 1995年
早坂康隆、梅原徹也「熊本県山鹿変斑れい岩体のナップ構造」『日本地質学会第101年学術大会講演要旨集』p.173 1994年
矢野健二、豊原富士夫、武田昌尚、土肥直之「九州西部、三郡変成岩類に衝上している変斑れい岩」『日本地質学会第98年学術大会講演要旨』p.212 1991年

画像は、衝上断層のイメージ(熊日)、大陸・海洋プレートの衝突と熊本の地質の関係のイメージ(自作)、と山鹿市北部の鳥瞰図(自作)。


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『三玉山霊仙寺を巡る冒険〜1. 首引き伝説〜』

2021-11-19 20:51:29 | 三玉山霊仙寺の記録
『三玉山霊仙寺を巡る冒険』

〜1. 首引き伝説〜

「あの赤色は、山姥に食われた子供の血の色ばい、いたらんこつばしたら山においていくけんね!」楽しいドライブが一転、恐怖の家族旅行になった。そのとき、父親が指差したのは阿蘇山中腹(杵島岳)の道路沿いに露わになっていた赤褐色のゴツゴツとした岩肌の溶岩だった。
 しかし、幼い自分はそれを本物の血の色と素直に信じ、しばらくの間、阿蘇山には本物の山姥が住んでいると思い込んでいた。これは私の悲しい?思い出だが、山鹿地方には有名な流血の言い伝えが残っていることをご存知だろうか。

熊本市内から国道3号線を北上し、起伏を伴った北区の植木町を過ぎると景色が一変。そこは、現在、完全に陸地化した菊池盆地が広がっているが、かつては「茂賀の浦」と呼ばれていた湖だったのだ。その平坦な直線の道を山鹿市街地へ走らせると盆地の北縁に連なっている山々が私達に近づいてくる。菊池川を渡る頃には、中華ナベをひっくり返したような丸みを帯びた山が真正面にどっしりと構えている。彦岳だ。地元では彦岳権現として親しまれている。その右隣には彦岳とは対照的に爪でひっかいた様な谷筋が特徴的で山頂付近に二つの凹みがあるのが震岳(ゆるぎだけ)。さらにその右に視点を移すと、連なった山稜の真ん中あたりの山腹にそそり立った、まるで男性シンボルのような巨岩塔に目をむいて思わず声を漏らしてしまいそうになる。不動岩だ。この不動岩、奇岩名勝として熊本二十五景のひとつに数えられていて、その昔、山伏達がこの山中にこもり不動明王を本尊として祀り修行したことに由来する。遠目にはそれほど大きく見えないが25階建てのタワーマンションに匹敵する。
本日紹介するのは、この県北に位置する山鹿市三玉(みたま)地区〜三岳(みたけ)地区に伝わる不動岩と彦岳権現の首引きの話だ。

その昔、不動岩とその西北にある彦岳権現は義兄弟だった。母は、かねてから継子の彦岳権現には、まずい大豆やそら豆ばかりを食べさせていた。一方、実子の不動岩にはおいしい小豆ばかり与えて大事に育てていた。いよいよ先祖の神々から引き継いできた「水、木、火」の三つの玉をどちらかに授けるため、力比べをさせることにした。不動岩と彦岳権現の中間にある震岳の頂上に大綱を渡してそれぞれの首に綱を掛けて引合いが始まった。すると、小豆ばかり食べて育った不動岩はふんばりがきかずに彦岳権現に力負けし、首が吹き飛んで「一ツ目神社」の上の丘に落ちたのだった。そこには「首石岩」が残り、吹き出した血によって三玉地区一帯の土が赤色に染まり、また、綱引きのとき、両者の力で土が盛り上がってできた山が現在の震岳であり、この山の頂上のふたつの凹地は綱引きの縄跡と言われている。

なんともはや俗世的かつ凄惨な物語だ。しかし、地域の山や土の特徴を見事にとらえている点において、この物語は秀逸と言うほかあるまい。この物語は、いにしえの三玉地区の人々が、大地がどのようにして作られたのか理解したいという強い思いによってつむぎ出されたものであるが、その卓抜した想像力には脱帽する。
だが、その思いは現代の「地質屋」も負けてはいない。次回からは、私にとっては偉大な先達にあたる近代の地質学者、技術者達が明らかにしてきた三玉地区の山々を含めた山鹿・菊池の大地の成り立ちについて紹介していきたいと思う。しばらくお付き合い願いたい。

1.首引き伝説 参考文献
嶋田芳人 編集 『ふるさと山鹿』山鹿市老連、町おこし運動推進協議会 昭和62年12月
三玉校区地域づくり協議会 『三玉「お宝」ガイドブック』 平成24年3月
山鹿市史編纂室 「彦岳権現と不動岩との首引きの話」『山鹿市史 下巻』 山鹿市 昭和60年3月 p.792-793
熊本県小学校教育研究会国語部会 編「不動様と権現様」『熊本のむかし話』日本標準発行 昭和48年

※画像は、彦岳、不動岩、それと自作の鳥瞰図
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